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金継ぎのアルケミスト   作者: Gにゃん
-砕かれた魂の在処-
1/12

序章:継ぐ者


 雨が降っていた。

 都市の低周波音を塗り込めるように、無数の針がアスファルトを叩く音が、工房の古い窓を揺らしている。窓ガラスを伝う雨垂れの向こうで、新京都しんきょうとの摩天楼が放つネオンの光が滲み、溶け合い、巨大な絵の具のパレットのように夜を彩っていた。

 光の洪水。音の氾濫。情報の奔流。

 この都市は、眠らない。病も、老いも、そして死さえも過去の遺物とすべく、人々が自らをアップデートし続けるサイバネティクスの理想郷。誰もが昨日より優れた自分を求め、完璧であることに価値を見出す世界。

 その片隅で、継実玲つぐみれいは、まるで百年前に死んだ時間の化石に触れるように、息を殺していた。

 工房の中は、静かだった。

 外の喧騒が嘘のように、ここだけが世界の底に沈んでいる。満たしているのは、うるしと古い木材が混じり合った、甘くも苦い独特の匂い。そして、天井から吊るされた裸電球の光に照らし出され、きらきらと宙を舞う微細な埃だけが、時間の流れを可視化していた。

 玲の指先にあるのは、掌に収まるほどの小さな湯呑ゆのみ

 特別な品ではない。どこにでもある、白磁の安物だ。長い歳月を経て、その表面には無数の細かい傷が走り、縁はわずかに欠けている。そして胴の部分には、一本、痛々しいほどの亀裂が走っていた。

 持ち主は、三日前に亡くなった老婆だったという。遺品を整理していた孫が、彼女が最後まで大切にしていたこの湯呑を、どうしても捨てられなかった。そう言って、工房の扉を叩いたのだ。

「お願いします。ばあちゃんの、思い出だから」

 玲はそっと目を閉じる。人差し指の腹で、ひやりと冷たい亀裂の縁を、なぞるように触れた。

 その瞬間、声が聞こえた。

 それは、鼓膜を震わせる音ではない。魂に直接響く、記憶の残響。

 ――陽だまりの匂い。縁側で、皺くちゃの手が湯呑を優しく包み込む。温かい緑茶の湯気。幼い孫の他愛ない話に、嬉しそうに目を細める顔、顔、顔。ありがとう。美味しいね。お前がいるだけで、幸せだよ。喜びと、慈しみと、穏やかな寂寥せきりょう感が、寄せては返す波のように玲の心を満たしていく。

 これが、玲の力。

 代々、継実家にのみ受け継がれてきた『魂継ぎ』の片鱗。壊れたモノに宿る魂の声を聞き、その来歴を知る力。

 彼はゆっくりと目を開けた。目の前の湯呑は、もはやただのガラクタではなかった。一人の人間が生きた、かけがえのない時間の器だった。

「大丈夫。ちゃんと、元通りにしてあげるから」

 誰に言うともなく囁き、玲は作業台に向かう。

 ここからが、彼の本分だ。

 まず、生漆きうるし米糊こめのり、そして砥のとのこを練り合わせ、亀裂を埋めるための錆漆さびうるしを作る。ヘラの先で、寸分の狂いもなく練り上げられた漆は、夜の闇よりも深い、艶やかな黒をしていた。それを、亀裂の両断面に薄く、均一に塗り込んでいく。モノの呼吸を止めないように、優しく、慎重に。

 そして、砕けた破片を寸分の狂いもなく合わせ、圧着する。はみ出した錆漆を丁寧に拭き取り、湿度と温度が管理された漆風呂うるしぶろの中で、一週間かけてゆっくりと乾かす。

 一週間後。完全に硬化した湯呑を取り出し、次の工程に移る。今度は、錆漆を塗った上から、黒呂色漆くろろいろうるしを数回に分けて塗り重ねていく。塗っては乾かし、炭で研ぐ。その繰り返し。それは、傷をただ塞ぐのではなく、新たな皮膚を再生させるかのような、根気のいる作業だった。

 すべての下地作業を終えるのに、一月ひとつき近くの時が過ぎていた。

 再び玲の作業台に置かれた湯呑は、その身に走る一本の黒い線を、静かに受け入れているように見えた。

 いよいよ、最後の工程だ。

 玲は桐の小箱から、ビロードの布に包まれた小さな陶器を取り出す。中に入っているのは、純金の粉末。彼の指先が触れるだけで、星屑のように繊細な粒子が光を反射した。

 黒い漆の線の上に、絵筆で弁柄漆べんがらうるしを細く、糸のように引いていく。これが、金を蒔くための接着剤となる。玲の集中は、極限まで高まっていた。彼の世界から、雨音も、都市の騒音も消え、ただ彼と湯呑だけが存在していた。

 漆が乾かぬうちに、真綿に含ませた金粉を、そっと蒔いていく。赤い漆の上に、金色の粒子が吸い寄せられるように定着していく。余分な粉を払い、磨き上げる。

 すると、どうだろう。

 無残だった亀裂は、一本の美しい金色の線へと姿を変えていた。

 それは、傷跡ではなかった。

 むしろ、この湯呑が多くの時間を、多くの愛情と共に過ごしてきたことを証明する、誇り高い勲章のように見えた。破壊から再生へと至る、唯一無二の景色。

 玲は完成した湯呑を、両手でそっと包み込むように持ち上げた。

 魂の声が、満足げに囁いている。

 ありがとう、と。

 窓の外では、相変わらず雨が降っていた。人々は雨に濡れることさえ嫌い、体表にナノマシンコーティングを施す。傷つけば、新しいパーツに交換すればいい。誰もが、欠けることのない「完璧」な明日を信じて疑わない。

 そんな世界で、自分はこうして、失われゆくモノの小さな声に耳を澄ましている。

 なんと、無力で、時代遅れなのだろう。

 自嘲めいた笑みが、一瞬だけ玲の口元に浮かんで、すぐに消えた。

 彼はそっと湯呑を桐箱に収める。

 今はまだ、それでいい。

 この静かな工房が、自分の世界のすべてなのだから。

 玲はまだ、知らなかった。

 この無力な両手が、やがて、この完璧な都市の砕かれた魂を繕うことになる運命を。

 そして、一人の完璧な女の、絶望に満ちた魂に触れることになる未来を。

 雨は、まだ止みそうになかった。


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