53話 自分はもうそばにいられない
「おいコマチ!どうしたんだよ、最近お前変だぞ!」
ドンドンドンと力の限り扉を叩くアテナの声は、怒気があった。
きっと自分がいきなり逃げたのを追ってきたに違いない。
足の速いアテナに追いつかれる前に、自室に戻れたのは幸運だ。
「開けろって!あたしらみんな心配してんだ、いつまでもこんなことしていいと思てんのか!?」
呼びかけに自分は答えず、ただただベッドに飛び込んで包まって耳をふさぐ。
聞こえる声はぼやけ、必死な声が遠くなって少しはマシになったが、アテナの怒声はしばらく聞こえていた。
長い長いような時間の後、静かになったのを確認してベッドから出る。
時計を確認すると大体30分が経過していて、アテナの体力を思い知らされた。
アテナにはわからない。
自分がどんな思いで表の世界で生きているか。
裏の世界で生きていく覚悟ができなかった自分には、表の世界にいてもいつも「ここに自分がいていいのか」
と苛まれていることも知らないだろう。
(ディアーナ様に頼まれていた本を落としてしまった。ディアーナ様の勉強を共にやる約束を破ってしまった。ディアーナ様にせっかく賜った専属としての仕事を、放棄してしまった)
メリーもアテナも、表の人間だろう。
ジークはいろいろと言っていないことが多そうだが、自分と似たものを感じる。
だが三人と違うのは、自分はどこに行っても己の血のせいで縛られているということだ。
(断片的にしか聞き取れなかったが『送り出してよかった』という言葉に紫晶草。自分がここにいると知った誰かが脅しで送りつけたのかもしれない。自分は、裏カジノの裏切り者だから)
よろけながらおもむろに大きな鞄を引っ張り出す。
これは、裏カジノから出ていくときに使ったもの。
あの時は、この世界から抜けられる喜びに震えてあれもこれもと荷造りをしていた。
それを今、自分は愛しい場所となったここから出ていくためにものを詰め込んでいる。
この二年で自分のものが増えた。
メリーが誕生日にくれたいい香りのする蝋燭、アテナがなんでもない日に渡してきた不細工な猫の置物。
ジークが読めるものなら読んでみろと投げた難解な暗号解読書。
そして何より、ディアーナ様にいただいた王族紋の刻まれたカメオ。
(これは、持っていくべきではない。エラの件でわかっただろう、どれだけディアーナ様に迷惑がかかるか)
エラが陛下の許しを得て今も王宮にいるのは、彼女が王族紋の入った装身具をもってやってきたせいだ。
いるだけで迷惑になる自分がもう持っていていいものではない。
ディアーナ様のためにも、仲間のためにも。
(だが、ここを出てどうする。どこかの町でひっそりと生きられるのか?もし裏カジノが自分の場所を嗅ぎつけたら、また迷惑がかかるのでは…)
こんなに考えたことはない。
何をするにも、どこに行くにも『詰み』の言葉が脳裏をよぎる。
だが、ここにはいられない。
その時だった。
カチャっ
と音がして、扉が開かれる。
ノックも呼びかけもなく、あっさり突破された。
(自分は絶対に鍵を閉めた。スペアーキーの使用か?いや、だったら鍵束の鳴る音が聞こえるはず)
警戒を強め、ジークに習った体勢を低くする攻撃の構えを取る。
不審者であれば、即座に仕留めないと王宮内の誰かが被害にあうからだ。
だが、そこにいたのは予想外の人物だった。
自分より小柄、戦闘に強いとは思えない体格の人物。
この王宮で、見たことはあるが特別親しくもない人間。
その手には針金が握られていて、鍵ではなく違法な鍵開け術で扉を突破したと察する。
もちろん、それがわかるのは自分も昔身に着けたスキルだからだ。
「お前の様子がおかしいってちょっと噂になってたけど…その様子じゃ逃げる気かな?いったいどこに?」
高くも低くもないその声の主は、悠然と自分の前に歩み寄る。
それに反応した自分の体が咄嗟に左足を軸にして体を回転させて右足で回し蹴りを繰り出した。
『コマチ、お前は身長がある分手足も長い。相手が近寄ってきたら迷わず蹴りを入れてください。手練れでなければ、一瞬の隙ができるでしょうから』
過去のジークの言葉に従い、放った蹴り。
予備動作少なく放たれた蹴りは、自分の唯一の得意技。
お墨付きをもらった威力の高い一撃。
(一瞬でいい!この人間から逃げられる隙が作れれば)
しかし、自分の蹴りは小柄なその人物に片手で止められてしまう。
それだけならよかった。
足を止めた手にそのまま力を入れて強く引かれれば、あっけなく自分は床に転がる。
小柄なその人物は、引き倒した自分を見下ろすように移動してニタっと笑った。
「なかなか重い攻撃だけど、まだまだ。さ、逃げるくらいなら『帰ろうか』コマチちゃん」
その言葉を最後に記憶がない。
何かを口元に当てられて、不思議な匂いを認識した途端意識を失った。
ディアーナ様達に、何一つ警告はできなかった。




