19話 私は、何もできない
アンナの部屋は、静かだった。
メイドも使用人もいない。シンとしていて、ランプの灯りが2つ灯るばかり。
てっきり、アンナを助けようと専属の使用人たちがバタついていると思ったのに。
その理由は、ベッドのそばに立つ人物を見たときすぐに察した。
天蓋は下りていても、すぐにわかるその姿。
王妃が危険な状態の時に、使用人を全員排除して二人きりになれるほどの人間。
この王宮には、その人以外いるわけがない。
それでも、一歩一歩アンナのベッドに私は歩きだす。
(ディルクレウス……!)
もう真夜中に差しかかるのに、公務用の外行きの服で彼女を眺める恐王がいた。
何をするでもなく、ただ横たわるアンナを眺めるその視線はどこか熱っぽい。
今日一度も見られなかったはずの、温度の通った目。
部屋には、アンナのか細い呼吸だけがハッキリと聞こえていた。
「お父様。これはいったい、何をされているのですか」
私が話した言葉でやっと存在を認識したようにこちらを見てくる。
泣くでもなく、焦るでもない。すっと私に顔を向けるだけ。
何を考えているかわからない目で見てくるだけ。
でもそんな彼は、もう一度アンナに目をやって一言言った
「ではな、アンナ。大義であった」
それだけ言うと、ディルクレウスは私のほうに歩み寄って来た、
いきなりのラスボスとの接触に、ついぎゅっと目を閉じる。
ダンスを一緒に踊ったけど、彼の雰囲気は刺すように鋭くて痛い。
何をされるのかと身構えたけど、恐王は私の横を素通りして部屋を出て行った。
(は?え、死ぬかもしれない奥さん置いて出て行った!?嘘でしょ!)
ディルクレウスの行動の意味が分からない。でも今はそれどころじゃない、アンナの命!
アンナの枕元に駆け寄り、彼女の顔をやっと見られた。
顔色が悪いし、呼吸が速いし、ひどく汗をかいてる。
明らかに普通の状態じゃない。
時計を見れば今は午後11時半ごろ。
たった一時間半前に会ったときはこんな状態じゃなかったのに。
「ディ、アーナ、か?」
「お母様!無理なさらないで、今使用人を呼ぶわ」
「いい、私が……下がらせた」
「どうして!そんな、このままじゃ」
「自分の体の終わりはわかる。ヴァルカンティアの、血だ」
そんな馬鹿な、とは言えなかった。
アテナもそうだったけど、ヴァルカンティアの赤銅色の髪を持つ民族は身体能力が高い。
それはつまり、自分の体をよくわかっているということ。
(でも自分の終わりを悟ったからって、使用人下がらせる!?何考えてるのアンナ)
ちらっとベッドの横を見る。
そこには、なぜか割れたティーカップと、受け皿いっぱいのお茶がある。
そのお茶は緑がかっている色をしていて、見覚えがあるものだった。
ネグリジェに着替えていたアンナの胸元にも、うっすら緑のシミが見える。
短時間で一気に急変した体調、胸元とティーカップのお茶、そして割れたカップ。
そこから私は最悪のことに気が付いた。
(毒を盛られたのか!誰に、いったいどうやって?そんな暇どこにあった?しかもどうしてこのタイミングで?)
アンナが死ぬのはパーティー中だったから、それさえ終わればいいと思ってた。
でも違う。
私は、ずっと油断すべきじゃなかったんだ。
少なくとも、今日が終わって「アンナがディアーナの誕生日に死んだ」という結果を回避するまで見守るべきだった。
自分の落ち度だ。目の前で苦しむ彼女は、私のせいでこうなった。
(どうすればいい?私には解毒薬もわかんないし、治すための魔法なんてありはしない。なにも、できない)
彼女を助ける手立ては何も思いつかなかった。
アンナは覚悟を決めてしまったから、使用人を全員下がらせたんだろう。
もしかしたら、ディルクレウスが消えるように命令したのかもしれないけど、今はどうにもできないこと。
「ルクを、陛下を許してやれ。あいつは、背負うものが多い……これからは、お前が力になってくれ。娘として」
「そんな、わたくしなんかが」
「なれるさ、お前はルクと踊れた。……ディアーナにはできなかったことだ」
アンナは閉じていた目をゆるりと開いて、私を見つめる。
緑に輝く瞳は、私をジッと。見逃さないように開いている気がした。
アンナの言葉に言葉が詰まった私を、観察するみたいに。
「お母様?なにをおっしゃるの」
「あの子は、髪を痛くされるのが心底嫌いだ。私が髪を引っかけたら、泣いて怒る」
「お母様」
「わかっていたよ。お前は、私の娘ではない」
弱っているはずなのに、アンナの言葉はそれでも圧がある。
確信している声。きっと私が否定しようと、騙されてはくれない声。
パーティーの前に、私の髪飾りを直してくれた。その時に彼女は気づいてしまったんだろう。私は髪を引っ張られたくらいじゃガタガタ言わないから。
もしかすると、ディルクレウスとのダンスも『本物じゃない』とわかっていたからこその無茶ぶりだったかもしれない。
見た目だけ完璧に騙せても、ディアーナをちゃんと細部まで知る人は気が付くんだ。
アンナは言葉を発するのもやっとなのに、手を伸ばす。
そして、私の左腕をがっしり掴んだ。
弱々しいなんて感じさせない、強い握力と眼力が「まだ死んでたまるか」と言っているようで一歩引いてしまう。
気迫で負けた。
もう立っているのがやっと。毒を飲んでいるのに、なんでこんな気迫が出せるのアンナ!
「詳しくは聞かん、私はもう死ぬ。お前に頼みがある、聞け」
彼女は震える手で何かを指差す。
人差し指はアンナが仕事をする机に向いていた。
たった一つ、机に置かれたそれを見た私は心臓を掴まれたように痛みを感じることになる。