159話 紅ドレスと長身メイドの逃避行
紅のドレスと長身のメイドを追う者たちは、なかなかに疲弊していた。
それもそのはず、逃走者がなかなか捕まらないからである。
走りにくいはずのドレスとメイド服、しかも相手は女子供だというのに。
馬で追いかけても、体力自慢たちが全力で走っても、捕まえられそうで捕まえられない距離までしか近寄れない。
いつの間にか森を抜け、平野を越え、かなり長い間の鬼ごっこ。
周囲はすっかり闇に覆われているが、必死の追手たちは松明片手に二人の姿を見失わないように走る。
「も、もうだめだ」
「ぜぇ……はぁ……」
「クソっ、もう少しだってのに!」
もう二時間はとうに過ぎただろうか。
追手は体力の限界を訴えて何人もが脱落していった。
何十人といた男たちは、すでに十人以下へ。
だというのに、王女とメイドのコマチと思われる人物は捕まる気配がない。
ギリギリのところで、あと3メートルほど先のところで手が届かない。
「くそっ、なんだあの体力は!女のくせに」
「こうなったら、やっちまったっていいよな?いや、むしろもっと早くやるべきだったぜ」
そして、ついに一人のソルディア軍の男が行動を起こす。
彼は、持っていた銃に弾を込めた。
走りながらなんとか装填したその銃の標準を、メイドに向けると、何の躊躇もなく発砲したのだ。
バン!!
真っ暗な中で、火花が炸裂する。
走りながら正確に的を狙うのは実に難しい。
ソルディアは銃を兵士に与えられるほど潤沢に持っていたとしても、一人一人がうまく扱えるわけではない。
それでも、人間一人のどこかに当てるくらいは造作もないのだ。
(よし、まずは一人)
発砲した男がほくそ笑む。
だが、その表情は一秒後に覆された。
弾は、メイドの頭付近に当たろうとしていた。
このままいけば脳漿が飛び散る……だが、散ったのは別のものだった。
メイドが『頭を軽く振って弾を避けた』からだ。
弾は躱された拍子にメイドの括られた髪にかすって、束ねられた髪が外れるように「ボトン」と落ちた。
「あっ、しまった。髪が落ちてしまうとは」
「ちょっ!バカなんで振り向くんだよ!」
メイド服の人物は、反射的に追手のほうを向いた。
これまで一度も顔を見せず、声も出さず逃げ続けたその人物は、初めて顔を見せ、声をあげたのだ。
そして、紅のドレスの人物が発した声は、想定よりももっと荒々しいもの。
初めて追手たちは、自らが間違ったことを悟った。
「お、お前らは何者だ!」
「こいつ、メイドのコマチじゃない!!」
「王女も違うぞ!」
「あれは、メイドのアテナだ!」
ようやく足を止めたメイド服の人物……ジークと、ディアーナのドレスを纏ったアテナは即座に戦闘態勢をとる。
ジークは両手を軽く上げて緩く構え、アテナは腰を低くして今にも突進しそうだ。
この状況にあって、彼らは焦りの一つも見せない。
「バレましたねぇ。せっかくコマチから服も、髪もいただいたというのに」
「おめぇのせいだろ!わざと微妙な避け方しやがる」
「いやいや、そろそろ頃合いだったんですよ。ほら、もうディオメシアの国境付近ですし」
「エッ、そうなのか」
「おおかた、ちょうどいい距離を保ちながら走るのに必死で考えてなかったんでしょう。これだから筋肉バカは困ります」
「ちゃんと振り向かないで追手引っ張ったんだからいいだろ!?愉快犯に言われたかねぇんだよ」
二人は必死で逃げていたのではない。
相手が捕まえられそうで捕まえられない距離を保ち、多くの追手を疲弊させ、途中で本物の王女を追わないよう手を抜いていたのだ。
王女がいないとみるや男たちは次々に武器を構えて向かっていく。
銃、剣、斧、鍬……かなり殺気立っているように思うが、これまで死力を尽くして追った標的が囮だとわかったのであれば、怒りもひとしおである。
二人は目視で攻撃対象を補足すると、何の合図もなく同時に飛んだ。
そこからは言うまでもない。
裏カジノ潜入の折、百人以上を一人で相手して生還した男と、その男の一番弟子でありお墨付きをもらった少女。
たとえ相手が武器を持っていても、その武器が何であっても、怯むような鍛え方はしていない。
しかも相手は十人未満。
勝負は一瞬で決した。
「それにしても、やはり動きづらい。裾がひらひらとするのが目に付くとどうもイラつきますね」
「まだそっちはいいだろ、あたしは高価なドレスにアクセサリーだぞ。これ傷つけたらいくらすんだ」
「軽くあなたの年収でしょうか」
「嘘だろ、さっきネックレス一個ひっかけて壊しちまった」
「嘘です。驚きました?」
「はぁ!?脅かしやがって、火傷した皮膚のとこ削り取ってやる」
「やめてくださいよ、ただでさえ服が擦れて痛いというのにー」
師弟は白目をむいて泡を吹いている追手を一瞥して歩いていく。
もちろん殺してはいない。
ディアーナは「何があっても殺すな」と厳命しているからだ。
見事全員を気絶させた二人は、そのまま足だけでディオメシアの国境を越えた。
そして走り続け、二人きりでさらにいくつかの国境を越えていく。
案内はジークが行い、それにアテナは黙ってついていった。
何時間経っただろう。
真っ暗な夜が明ける。
空が少しずつ白んでいき、山を登っていた彼らは美しい日の出を見た。
上に羽織るものがなく、代謝だけでここまで寒さをやり過ごしてきた二人は、目の前の光景にほう、と白い息を吐く。
それは、実に立派な城壁に、見事な城下町。
人がすでに動き始めている市場に、兵士たちが朝の鍛錬をしている様子もアテナの目は捉えていた。
黒光りしている厳めしい城は、この国の強さを物語る。
「ここが、ヴァルカンティア…」
「さらに言うと、ヴァルカンティアの中枢に当たる城下町ですね。あーあー、すでに怖いです。怖くて仕方ありません、俺、宰相殿にどんなに折檻を受けることか」
「そんなに、怖ぇのかよ。ディアーナの爺さん婆さんだろ、手紙じゃいつも優しそうだったぞ」
「孫娘に甘いのは万国共通でしょう。仕方ないとはいえ、ディアーナ様から一時離れたと知れたら……」
口は笑みを浮かべているが、どこ顔色の悪いジークをアテナは初めて見た。
誰しも認識の相違はあるものだ。
優秀ゆえに幼いころから愛ある厳しい教育を宰相夫妻に受けたジーク。
ディアーナを経由していたために、優しい夫妻しか認識していないアテナ。
「別に、仕方ねえことだし。それに、ちゃんと仕事だろ、あいつのためにも」
アテナはドレスの中に隠した手紙と小さな袋を手に取った。
それは、作戦開始前にディアーナから受け取った今回の目的。
二人がわざわざ止まらず走り続けて、ヴァルカンティアまで来た理由。
ジークは「いやですねぇ」とぼやきながら山を下り始めた。
二人が向かうのは、まさにヴァルカンティアの中心。
この国を影から支配する、宰相夫妻の屋敷である。




