108話 私と泥遊びをする人/逃げ出した俺が出会う人
大きく一歩踏み出し、私の側に大きくジャンプして踏み込む姿一つ。
元気よく着地したら盛大に泥が飛ぶ。
私の顔にも泥が跳ねたけれど、目を閉じはしなかった。
自分の想定が、外れたから。
泥んこに飛び込み、そして私に笑顔を向けたのは…ルシアンだった。
彼の真っ白な髪と肌によく似合う白を基調とした服が、無残に泥で汚れるけれど、もはや躊躇なくバシャバシャと足を泥に浸している。
「ああ、この泥はいい土からできていますね。ステラディアは農耕が盛んですから、僕もよく民に交じって土いじりをしていたんですよ」
「…あなた、戸惑わないの。服が汚れるわ」
「そうですね。ですが、ディアーナ様が遊び相手を望んでいましたから。僕、実は泥遊びは初めてなんです。思ったより楽しいですね」
静かな王子から一変、ちょっとやんちゃな青年…いや、近づきやすいイケメンがそこにいた。
(えっ、ええ~?そこはレオンじゃないの?まさかのあんたが乗るの?)
私の想定ではどっちも泥に入らないか、元気な兄貴肌のレオンが飛び込んでくるものだとばかり思ってた。
今、私たちを少し離れた場所から眺めて悔しそうな顔をしているのがレオンの方だとは。
レオンは責任感が強いし、ぐいぐい引っ張っていく方だし…逆に振り回されるのに慣れてないのか?
それにしても、ルシアンは水を得た魚のようにのびのびと私に泥遊びを仕掛けてくる。
いつの間にか来ていたジャケットも脱いで、ズボンの裾をまくって、アクセサリーもそのへんにほっぽり出して、容赦なく動く。
(さっきまでの緊張どこ行ったの?こんなにいきなり振り切ることある?)
もはや私がポカーンとする番だった。
ルシアンは人見知りはするけれど、静かで親しみやすい性格。
素朴な土いじりが好きだったと思うけど、ここまで振り切るほどだとは。
思考の海に潜りそうな私の目の前に、ルシアンは立つ。
そして、泥だらけの手をこちらに向け、人差し指で頬を突いてきた。
「遊びましょう、ディアーナ様。普段よくお勉強されているとお聞きしましたが、たまにはこうして遊ぶことも大切です。…と、僕はじいやに習いました」
「あなたって、見かけによらないのね」
「よく言われます。本来、王位継承権のないはずの第三王子だったので、かなり自由にさせてもらったせいですね。レオンには、もっとしっかりしろとしょっちゅう叱られます」
屈託のないその顔はあまりに自然な笑顔で、演技でしてるんだったら大層な役者だ。
私はつけられた頬の泥をぬぐって、足で思い切りルシアンを汚してやり返す。
ルシアンは楽しそうに笑って、さらに派手にジャンプした。
釣られて、私も笑っていた。
別に彼に好意を抱いたわけじゃない。
転生前もあまりしたことがない、子供っぽい遊びをすることがこんなに楽しいなんて知らなかったから。
もうきれいな布が見えないくらいに汚れているけれど、そんなことは些細なことで。
私は、私らしくもなく周囲を見ていなかった。
いつの間にかレオンの姿が見えないのを、気づけなかったから。
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やはり子供は子供か。
しっかり諫めず、教育せず、共に泥にまみれるとはルシアンのやつ。
(なんてバカバカしい。これだからあいつはいつまで経っても子供が抜けきらない)
泥で遊ぶ王女もルシアンも置き去りに、俺は一人王宮内の緑地を進む。
王宮内はどこもかしこも管理が行き届いていて、木一つとっても剪定されているし落ち葉があまり見当たらない。
庭にしても、季節の花々が美しく咲き乱れ、庭師が常駐しているというじゃないか。
王宮内の細やかさや金がかかっている様子に歯ぎしりする。
(泥遊びをしたがる子供の棲み処がここだなんて、なんて不公平なんだ)
自分の国では王族である自分すら、こんなに豪華な暮らしはできない。
ルシアンも同じだというのに、なぜイラつきも覚えずあのように笑えるのか理解に苦しむ。
込みあがる嫌悪を隠すために、人気のない木陰に腰を下ろした。
王宮内は誰が見ているかわからない。
俺の今の姿を見た使用人が、ディアーナ王女に告げ口すれば、彼女の花婿候補はルシアンに決まってしまうだろう。
自分の冷徹なほどの思考と、性格の悪さはわかっている。
「いや…泥にさっさと入れなかった時点で俺の負けか?いや、まだわかんないだろ。このまま、帰るわけにはいかない」
王女に気に入られて、ソルディアに支援をしてもらって、ディオメシアの国民から支持を得ている彼女を取り込めば昔のように繁栄する。
そんな思惑まみれの自分だ。
財源がない中でこの服を仕立ててくれた父上と母上の思いを、泥に染めたくないと思うことはそんなにいけないことか?
確かにしつこくしすぎたかもしれないが、子供相手に俺やルシアン年相応の誘惑が通じるはずもない。
だったらたくさん話しかけて興味を持ってもらう以外に何もできないだろう!
(まだ、まだだ。俺はまだ巻き返せる。ルシアンより俺はずっとがんばってきたんだ、負けるわけには、負けてはいけない。ソルディアのために)
重圧には慣れている。
生まれてからずっと、将来の王として期待されていたんだ。
ルシアンは兄たちが先の戦争で死んだせいで祭り上げられた、まだ軟弱者。俺の心なんてわかるはずがない。
だが、思い起こされるのはこの国の王女。
血塗られた戦争の末に生まれ、唯一の王位継承者としてこの国で尊ばれる子供。
「ディアーナ王女、お前だって同じ立場のはずだろう。どうして俺の方を見なかった?」
考えが堂々巡りに入る。
黒々とした感情が、口から全部出そうになるのを飲み込み、胸ポケットから紙を取り出した。
そこには、手紙がある。
俺との文通を楽しむ見知らぬ誰かからの手紙。
文章はとりとめもないものだ。
「今日は庭の花が咲いた」「勉強が難しいけれど、あなたも頑張っているというから負けないわ」「あなたって説明がうまいのね。わかりやすくて助かるわ」
そんな、おそらく女と思われる誰かからの手紙。
一か月間、誰とも知らない相手が「レオン王子」ではなく「ただの青年」である俺に向かって書き続けた、文通。
手紙を抱きしめ、うつむく。
俺を認めてくれる誰かがいるという確信は、いつしか強い支えになっていた。
(あなたが、あなたが俺の結婚相手だったらどんなに良かったか)
見知らぬその人を思い、目を閉じる。
このまま、落ち着くまで休んでいようと思った次の瞬間、鳥の鳴き声が聞こえた。
見上げれば、俺が飼っている伝書鳩。
足に手紙を括りつけて頭上を飛んでいたのだが、俺を見つけると急降下してきた。
「ポッポー、ポッポー」
「お前、ソルディアに俺がいないのによくわかったな。賢いやつ…」
「まって、まってハトさん!」
足から手紙を外してやっていると、女の声がした。
伝書鳩を追っていたのか?まずい、ここに一人でいるのを見られたら何を言われるかわからない。
立ち上がろうとしたその時、声の主が姿を現した。
「あなたは、エラ嬢……」
美しきディルクレウス陛下の後妻候補。
彼女が、俺を見つめていた。