1.3
「ねえ、無理に聞かないけど、怪我をするなら話は別だよ。それにリリアンは無事だったからいいものを、昨日みんなに黙って森に行ったことを反省しなさい。すごく心配したんだからね」
リリアンの目線に合わせて言い聞かせるジュラルディンの対応はとても大人びていた。
ジュラルディンにはつい甘えたくなる不思議な母性を感じるからか、リリアンにとっては昨日迷子になったことははるか昔のことなのでよく思い出せないが、それこそ魔法をかけられたように「ごめんなさい」と答えてしまう。
ジュラルディンはリリアンの両手を握って困ったように微笑んだ。
「それで、アルフレドの頬が赤いけれど、リリアンがぶったの?」
びくっ!
ディーノの両肩が大げさに跳ねた。アルフレドは目を閉じていて、両手を取られて逃げられないリリアンは泣きそうな気持ちだった。
アルフレドが頬を冷やしている間、ジュラルディンの説教は続いた。リリアンが目を回す頃にようやく、ジュラルディンは屋敷の使用人に呼ばれてリリアンの部屋をあとにした。
ディーノはジュラルディンの説教が始まる前にどこかに消えていた。
「ごめんねえ…」
ジュラルディンが出ていったあともベッドに突っ伏して落ち込んでいるリリアンに、だいぶ溶けてしまった氷袋を持ったアルフレドは眉を顰めた。
「ジュラルディンは大げさだよ。腫れてもないし、痛くもないのに冷やせなんて。おれの頬、赤くないだろ?」
「でも赤かったよ」
「一時的にね。6歳女児のビンタに怪我してたら、おれは繊細すぎて早死にしちゃうよ。中身が『狂戦士!里離暗奴』でも6歳だし」
「いや、え、黙って……え?なんでアルフレドが知ってるの」
アルフレドは言い争ったこともぶたれたことも本当に気にしてない様子で、リリアンの部屋の机に積まれた本のひとつを手に取った。そういえば、アルフレドは本の虫だった。
ちなみに、『狂戦士!里離暗奴』は傭兵団にいた頃の二つ名であった。
所詮、輩で構成された組織なので、傭兵団には騒がしい人間ばかりだった。そしてこの二つ名は、当初のリリアンが無口で無感情そうなのに気品があり、かつふざけた剣豪だったため、勝手に名付けられたものだった。
頭首いわく『並々ならぬ事情を抱えて生家を離れ、市井に沈んで擦り切れてしまった陰気な奴だった、だがしかしリリアンヌ、彼の瞳はいまだ情熱に燃えている』という意味らしい。
なにそれ。リリアンヌってだれよ、わたしはリリアンよ。後半の感動的な文はどこに反映されてるのよ。
とんでもなく恥ずかしい思いをしているリリアンに気付いているのかいないのか、アルフレドはぱらぱらとページをめくっていた。アルフレドの特別な目は、魔力は失ったものの、速読機能は付いているらしかった。
「リリー、ごめんね」
「え?」
「おれは魔法を使えないから、リリーの髪とか瞳とか、色を変えてやれない」
そう言い出したので、リリアンは思い出した。
家を出た兄と、リリアンは似ても似つかない。兄は美しいプラチナブロンドと海色の瞳で、リリアンは平凡な茶色の髪とエメラルドの瞳だった。
だが、今となっては些細なことだ。そもそも魔法で変えても一時の間、濁った色にしかならなかった。
むしろどうして半狂乱に陥る程こだわっていたのか疑問に思うくらい、時戻りしたリリアンは執着という執着がなかった。
「ごめんね。峠のあのときは、これが最善だと思ったんだよ。リリーは新しく人生をやり直せるし、おれは」
アルフレドは言いかけて、ためらった。いつも淡々としている彼が言い淀むのは初めてだった。
「おれは、後悔してたから。この屋敷でリリーが辛い思いをしていたのに、おれはずっと自分のことばかりで、真摯じゃなかったから。おれもやり直すチャンスだと思ったんだ。まさか魔力を支払うことになると思わなかったけれど」
所在なさげに指で活字をなぞるアルフレドは俯いた。
「よく考えたら、辛かった場所には戻りたくないよな。ごめん」
打ち明けてくれた思いに、リリアンは衝撃を受けた。アルフレドを友人と思ってはいたけれど、まさかそんな風に考えていてくれたとは思わなかった。
「ごめんなさい。わたし、アルフレドの気持ちを知ろうともしないで言ってしまってごめんなさい」
たしかに、追い出されたあとは何も考えられず、悲しくてたまらなかったが、傭兵団にいるときは、二度と戻ってたまるかという怒りが湧いた。身元を暴かれたときは連れ戻される恐怖で過呼吸になった。
しかし、時を戻ったと聞かされたときにはなんの感情も抱かなかった。アルフレドがこのために魔力を失ったのだと聞いて初めて、ここにいなければならない、それも彼の未来を奪ったうえで、そのことに激しく動揺したのだ。
「貴族令嬢の人生にあまり良い思い出はないし、あの頃__この頃は、家族が恋しくて、自分にないものばかり見つめていたわ。でも、だからといって、かつてのように恋しがる必要なんてないわよね。思い返せば、アルフレドやディーノ、ジュディと過ごした時間は心地よかったのよ。辛いだけじゃなかったことに、もっと早く気付けばよかった」
リリアンの言葉に、アルフレドは視線だけ寄越した。アルフレドは手にしていた本を閉じていた。
「でも、やっぱり嬉しいとかはないから、アルフレドに感謝することはないわ」
リリアンはベッドから起き上がると、アルフレドの目の前に積まれた本のひとつを手に取った。なんとなく、彼の真似をしたのだった。
「でも、悪くもないよ」
目を瞬くアルフレドに、リリアンはすこしだけ笑いかけた。
なんだか気恥ずかしくなって目を逸らすと、視界の端でアルフレドが顔をあげたのが分かった。顔をあげては、ちょっと俯いて、を繰り返すアルフレドは、きっと言葉に迷っているのだろう。
アルフレドとはたくさん会話をしたが、ここまで素直になったことはなかったように思う。
「リリー」
しばらく悩んでいたアルフレドはリリアンを呼んだ。しかし、いっこうにそれ以降がない。奇妙な静けさに包まれる。
「…なんなの?」
「リリーってそういう趣味なの?」
不穏な問いにアルフレドを見やると、その視線はリリアンの手にある一冊の本に注がれていた。心なしか、銀の瞳がすっぱそうに細くなっていた。
なにをそんなに気にしているのか、と改めて顔の正面に持ち上げた。
なんの変哲もない一冊の本______
「『公爵と危険な夜』」
「あっ?え、いや、これはアルフレドが思ってるような感じじゃないよ!ほんとに違うからね?読んでみてよ!」
アルフレドは首を横に振った。
「おれはいいよ。これ、返すね」
とん、とアルフレドの持っていた本を押し付けられる。
そのまま疲れたように部屋を出ていくアルフレド背中に、リリアンは叫んだ。
「ねえ!ほんとに違うんだってば!」