1.2
アルフレドの静かな謝罪に、リリアンの肩が震えた。
彼の頬をぶった手のひらが熱かった。手のひらだけが火傷したように熱く、痒くなっていく代わりに、沸騰していた頭がさっと冷却されていった。
アルフレドの思いやりを無碍にしたかったわけではない。ただ、信じられない現実にむしゃくしゃして、ジョンストンの幼少期に帰ってきてしまって、心の持ちようがなかっただけだ。リリアンは自分の右手を恐ろしくおぞましいもののように見つめた。
「どうしたの?」
最悪の空気に乱入する声に、はっと振り返った。いつのまにかディーノだけじゃない、部屋にはジュラルディンがいた。
リリアンは急いで涙を拭った。
「リリアン、泣いてるの?」
「う、ううん!」
「わっ、やべっ!」
侯爵の補佐官として派遣されてきたジュラルディンは、補佐の仕事の他に、執事の仕事を押し付けられていた。きっとガラスの割れた音を聞いて、何事かと駆けつけてきたのだろう。リリアンにとっては懐かしい人だった。
自分の仕事を思い出したディーノが、急いでワゴンをベッド脇に運ぶ中、ジュラルディンの視線は、リリアンとアルフレドの間を何度も往復した。
「水差しを落としたの?怪我はしてない?ふたりとも、部屋の外で少し待っていて。ディーは、ちりとりとほうきを持ってきてくれるか?」
言われた通りおとなしく廊下に立って待っていると、掃除道具を抱えたディーノが部屋に飛びこんでいった。さすが兵士見習い、ディーノは俊敏だった。
ジュラルディンとディーノがガラスの破片を集めているとき、アルフレドの指がリリアンの腕に触れた。びっくりして顔を上げると、アルフレドは視線を伏せたまま、小さな声で言った。
「リリーが侯爵邸裏の森で迷子になったときのこと、覚えてる?」
「う、うん。わたしが木の根につまずいて気絶しちゃったときのことだよね」
アルフレドはちょっと笑った。
「そう。その日、おれは時戻りに備えてマークを付けたんだ。その日だけじゃない、おれ以外にだれもいないとき、みんなが寝静まった夜とか、いつか時戻りするときにおれの魔力を辿って確実に戻れるように、マークを付けてた。どの地点まで戻れるか分からなかったけれど、この様子じゃ今日はその日の翌日だ」
「翌日?」
「ああ。気絶したリリーを見つけて部屋に運んだその夜にマークを付けた地点で、おれは目覚めたから。リリーが起きたのは、太陽が上ったあとだから…理論上、おれとリリーは同じ経路を辿って戻ってきたから、おれと同様に昨夜目覚めるはずなんだけど…」
思考に耽るアルフレドの横顔を見て、リリアンは目覚める前の出来事を思い返す。
父と母が事故で亡くなり、ジョンストン侯爵家には10歳の兄と4歳のリリアンが残された。従兄伯父が後見人になり、侯爵代理として権力を振りかざす中、虐待といえる待遇に耐えかねた兄は侯爵家を出て、父の生家である公爵家の養子となった。残されたリリアンは寂しさを埋めるように社交界に入り浸り。唯一得意な剣によって武闘会を優勝し、自分の価値を示し。そして16歳の夜、婚約者のジークハルト王太子殿下に婚約を解消され、激怒した従兄伯父に追い出され、令嬢人生は終わった。
その後、盗賊崩れの傭兵団に拾われ、武才を買われて彼らと帝国中を回っているうちに帝国騎士に身元がばれた。ストレスからか、息苦しくて満足に呼吸もできないリリアンに対し、気の良い傭兵たちは大国への逃亡を進めてくれ、リリアンは禁足地に旅立った。傭兵団を発った日は、リリアンの19歳の夏だった。
これは泣き虫な偵察兵から聞き出したことだが、あの頃、大国では王位簒奪のクーデターが失敗し、反逆者の残党が帝国に流れたのだという。そのため大国の友好国である帝国は、大国の反逆者たちを捜索していたらしい。
リリアン、享年21歳。
「あれ?」
19歳で傭兵団を出て、21歳で峠にて死んだ。傭兵団を出た後、わたしは2年間もペルセポ峠で彷徨っていたというのか?あの厳しい寒さじゃ、3日以上も外にいたら凍死するだろう。では、19歳夏から21歳の冬に死ぬまでの2年あまり、わたしはどうしていたんだっけ?
ぼんやりしているリリアンに、アルフレドが視線で問いかけた。アルフレドの口がどうしたんだ、と動いたとき、掃除を終えたジュラルディンとディーノが部屋から出てきた。
「それで、なにがあったの?」
リリアンとアルフレドは、お互いの瞳を見つめた。ふたりが見つめ合ったまま何も言わないでいるので、ジュラルディンは困った顔でディーノに助けを求めた。
「ディー、ふたりはどうしたの?」
「え!いや、おれは、わかんないです、喧嘩していたみたいで、だったんで」
思いがけず話を振られたディーノは焦りとも緊張ともつかない、もつれた話し方でジュラルディンに応じた。いわゆる文官のジュラルディンは穏やかで親しみやすい青年だが、普段やさしい分、怒りの雷が落ちたときの衝撃と恐怖といったらない。
ディーノがふざけてリリアンと共に庭の池に落ちたとき、雷どころか隕石落下の勢いだったので、以来ディーノはジュラルディンを唯一の上司として崇めている節があった。
「ほんと?」
「は、い、いやでも、おれがごはん持ってくるのが遅かったからかも?」
違うだろ、と誰もが思ったが黙っていた。