神社を考える。神様、いますか?
日本の国教はない。
宗教の自由を保障されているからね。
だからこそ、カルトのような諸外国では解散させられる宗教も、日本では存続できちゃうし、「宗教法人」の看板が高値で売りに出されてヤクザさんが買ってマネーロンダリングやらに使われちゃうのだ。
まあ、それは置いておいて、
日本に山とある神社の神さま、居ますか?
それは、本当に勧請した神様ですか?
ちょっと疑問に思うのですよ。
「北の大地」と呼ばれる地に来て感じたことがある。
神社がパワースポット?
パワーつっても人の都合のいいプラスの力じゃないよ?
実家は神道でバイト感覚で巫女などもしてきたし、「信仰」という思いも無しに信じていたのだと思う。
とはいっても適当日本人である。墓は寺でクリスマスにはケーキを食べる。祝詞を諳んじることも出来るが、他界した友人には命日にだけ般若心経は写経をしていた。
東京に住んでいた時に年に数回、気分転換に行っていた高尾山は密教である。護摩壇での読経でトランス状態になるのは気持ちの良いものだ。
学生時代には、学校近くに教会があり、イースターの日には讃美歌を聞きに行ったりもした。コンサートを聴きに行く感覚である。
まあ、そんな適当観念の私が言うのもなんだが、神社に居るの本当に神様ですか?
由緒のある神社の本社なら違うだろうが、山とある分社の中で本当に勧請したお柱が今現在も鎮座しているのだろうか?
神さまの気配のない神社が多すぎるのだ。
何の気配もパワーもないところが多いのは東京も一緒だ。
一方で何かのパワーはあるのが北海道だ。
しかし、それは御祭神の気配ではなく、もっと荒々しいナニカなのである。
神の姿を見たことはない。
それでも空気というか、雰囲気なのだろうか、気配と呼ぶよりも幽かなのを感じる時、それは以前に行った本社での感覚ではない。
北海道に来てからの神社への挨拶はしてきたが、何処も彼処も神社としてお祀りしている神さまではない野生の気配。
パワーはあるだろう。
でもそれは、登山をしていて感じる山の息吹や、大きな滝や綺麗な湖を見た時の感覚に似ている。
時としては夜の山の鬱蒼とした気配。木々のざわめきに人を拒むような森の闇の中の力。
神社に鎮守の杜として奥に雑木林があるのは当たり前だが、北海道ではその杜が深く濃い。
そのためか、原生林に近い野生の気配が神社まで及び、お祀りしている神さまの気配なんぞ感じることも出来ない。
ある説を考えてみる。
忌地や禁地など不幸のあった場所、大量の死があった場所、土地柄負のエネルギーが溜る場所。そんな所に社を据え置き、人の「神様がいらっしゃる」という気持ちを受けて、飼い慣らそうとしているのではないか。
人の担ぐ神輿に乗った神様は、「カミ ナノカ?」と勘違いをして、
「そうか、こんなに慕ってくれているんだ。頑張ってこの地を守らなければ」
なんて鎮守の神になってしまう事もあると霊能者の本で読んだ。
もともと、社で封じる事もあるようだし。だが、封じても力づくでは反発も強い。ならば、祀り上げてしまおう。
周囲の人々は、近所に神様が勧請されればお詣りに行き、そこで生きる感謝を伝え、元は禍々しいナニカだったものは神様になろうとする。
「塚」は封じることが出来ても鎮めることは出来ない。
平将門の首塚が有名だが、将門をお祀りしている神田明神はある。しかし、首の落ちたとされる首塚には社を築けてはいない。
人の出入りは許しても、鳥居で結界を作り社務所を作って神主を置くことは許さなかったのだ。
将門の首を入れた桶が奉られている築土神社は九段下の近代的なビルと融合して居る。ここの築土神社は分社であり、日本武道館の氏神である。平将門以外にも菅原道真も配祀されている。太宰府天満宮でもなく、菅原神社でもない。
神として奉る以前の祟りを怖れての事だと想像できる。
ちなみに小さな事ではあるが、お寺と神社に行くときには違う漢字が使われる。
「お参り」がお寺さんで仏さまに行って拝むこと。「参」の意味には「目上の人にお目にかかる」という意味なので、ご先祖に会いに行く。という意味合いが強いのかも知れない。
「お詣り」が神社に行き神様に祈る事だ。「詣」には山の上に行く、高い場所に行くという意味もある。日本はもともと八百万の神ではあるが、山への神聖視が強いせいかと勝手に思っている。
私の感覚による妄想なのだが、水天宮には竜がいる。
それは奉っている天之御中大神の化身なのだろうか。
古事記の中では天地創造の最初の神ではあるのだが、なぜか私には竜の存在で感じられる。
北極星の化身ともあるが、それこそ、どんな姿なのだろう。
何処の水天宮にも居るようだ。
福岡県からの分社ではあるが、移転前しか知らないが日本橋。鎌倉、札幌市、小樽に竜の存在を感じていたら水天宮だった。
だが、小樽の水天宮は冬眠をしているように弱く感じた。
小樽で幼少期を過ごした夫が言うには、若い頃までは活気があった。大人になって小樽を離れたら、立派な駅ビルの商業施設が出来ていた。
「あの建物がね、鉄道の力の流れをぶった切ってしまったんだ」
そういえば、龍脈を断つように建てられたビルのせい小高い場所にあった駅から緩やかな坂の両脇にあった両店街がシャッター商店街になってしまった場所というのが風水の四神相応の本で書いてあった。
小樽の地形には運河の青龍、線路の白虎、海の朱雀に丘の玄武と見事に風水のお手本のような場所だった。
そこを断つように建った大型商業施設に廃れた商店街。丘の上の水天宮の竜が弱くなっているのか眠っているのか。
この場合、鉄道が龍脈だったのだろう。
今の時代、いくらでもシャッター通りと化した商店街はある。大きなショッピングモールが出来たため、駅からの道にあった商店街が廃れてしまった。そんなのはいくらでもある。でも、その中には、風水の竜脈を断ってしまったという事もあるのかも知れない。
北の地は人の手が入っていない場所がとても多く、人を寄せ付けない野生のパワーが満ち溢れている。野生の地を切り開いて街にするには、土地の反発が大きかったのかも知れない。大地を手懐けるために「神」に祀り上げているのだ。
東京で言えば皇居や明治神宮の森が原生林に近い植樹をされたようだが、それに近い距離に何千年の歴史を持った山に森が200万人の住む大都市の中に入り組んでいる。
繁華街と呼ばれる場所からだって数キロ離れれば熊出没のニュースが毎年あがる。
人の世以上の歴史のある場所にいると、名のある神の存在のなんて小さなことか。
そんな風に考えてしまうのである。
そして、カムイ(神居)の大地なのだなぁと、夜の森の闇の濃さにビビる私なのだ。
神さまの名前が違うだけで戦争になっちゃうくらいならば、荒ぶるナニカも、怨霊な誰かも、祀り上げて鎮めて、その地の神さまになってもらえば良いんじゃないかな。
北の地には、その土地の人の血が流れている。
その土地以外の人の地も流れている。
悲しみと怨念が荒ぶる自然の気と混じり合い、なんだか神社に治まって神様になっている。
その辺りの緩い感じで神社にお詣りしている日本人。サイコーだぜ。
と勝手に思っている。
良いんだよ。
神さまの名前なんて。
悪霊だったナニカも、妖怪だったナニカも、名前を貰って(縛って)奉れば。
敵で殺した民族への意味のない罪悪感だとしても、「祟られる」という正常な恐怖心と畏怖の心があればいいのだ。
大地は深く濃く、恨みも憎しみも包んで癒すこともない代わりに、静かに内包しているのだろう。