3.四輪馬車での告白
四輪馬車が坂道に差し掛かってから、ずいぶんと時間が経つ。
ヘル=ハウンド男爵様のお屋敷は、かなり高台にあるのかもしれない。とにかく一度も来たことのない場所なので、地理はさっぱりわからない。
初秋の風は少し冷たいが、メイプルの樹々が赤や黄色に紅葉して、それらが目を楽しませてくれる道中はとても贅沢な気がした。
(男爵様が私の容姿を気に入っていることは、どうやら本当らしい。ひょっとすると究極の犬好きで、そのために私が間違って美人に見えているのかもしれないが、それにしても初対面でプロポーズとは……)
馬車に揺られる私の気持ちは、千々に乱れた。
男爵様に告白されたこと。
素直に受け取れば、嬉しい。
嬉しくないわけがない。
もちろん、生まれて初めてのことだったし、一生あるはずがないと思っていたことでもあった。
しかも男爵様は、美形で、スタイルも良く、若くて、財産家。
爵位こそ、子爵より一つ下の男爵だったが、そんなことは問題にならない。このような方のそばにいられるだけで、気をつけないと、舞い上がってふわふわと宙に飛んでいきそうな十八歳の乙女心なのだ。
が、それだけに。
夕立の前の黒雲のように、私の心には、不安がむくむくと湧き起こってくるのである。
(女性にモテること間違いなしで、それこそどんな好条件の縁組も可能そうな男爵様が、どうして何の取り柄もない、犬令嬢と蔑まれてきたこの私ーーヒルダ・ゴズリングとの結婚を望むのか?)
冷静に考えれば、あるはずのない話である。
「男爵様」
「何ですか? お嬢様」
「先ほどは、いきなり頬を叩いたりして、失礼いたしました」
「いえ、こちらこそ無礼でした。あなたの美しさを、ほかのものに喩えるなんて。あなたは美しい。それだけ言えば充分でした」
ヘル=ハウンド男爵様の言葉に、嘘はないように見える。とても誠実で、純情そうな方ーー出会ってからまだ数時間だけど、確実にそういう印象を受けた。
(信じていいのだろうか。信じない私は、ただのひねくれ娘なのだろうか?)
「男爵様に、お尋ねしたいことがあります」
「何なりと」
「ほんの四ヶ月前まで、乞食同然の暮らしをされていたということですが、どのようにして大富豪になられたのでしょう?」
「ああ、それですか。僕には幸い、高貴な身分の知り合いがおりまして、そのお方に頼んで、力を貸していただいたのです」
「お金を借りられたのですか?」
「いいえ、借金はしていません。そのお方の住む場所で産出される稀少な宝石を、『月の石』として販売する権利をいただきまして。これが世界中の金満家のあいだで評判となり、僕はさほど苦労せずに富豪となりました」
ヘル=ハウンド男爵は、フッと皮肉な笑い方をした。
「人間というのは奇妙な生き物ですね。ただ稀少というだけで、ちっぽけな石ころに大金を払うのですから。そして僕が金持ちになって社交界に登場したとたん、犬のフンにたかるハエのように寄ってきて、チヤホヤする。ついこのあいだまで、僕を見ると嫌そうに目を背けていたくせに」
男爵様の物言いに、初めて不安なものを感じた。
「……男爵様は、人間嫌いなのですか?」
「すみません。つい汚いことを言ってしまって。でも僕は、人間嫌いではないですよ。でなければ、恋なんてしません」
そう言うと、男爵様は恥ずかしそうに頬を染めたが、それと同時に、目を閉じて苦しげな表情を浮かべた。
が、やがて目を開けた男爵様は、どこか誇らしげな顔つきになっていた。
「信じて下さらないかもしれないが、これは僕にとっての初恋なのです。それまでは、誰かを好きになるなんて想像したこともなかった。恋を知った瞬間は、まるで雷が落ちたようでした。世界がまるで変わった。いや、僕自身がまるっきり変わったのです。世の中にこんなにも素晴らしいものがあるなんて! それは喜びでした。しかし、苦しいものでもあります。もちろん、どんなに苦しみが大きかろうと、喜びの前では何ほどでもありませんが」
聞いていて、胸が苦しくなってきた。
(私も、初めての感情を経験している。これが……恋?)
わからなかった。
告白されて、舞い上がっているだけかもしれない。
男爵様の容姿や、誠実な話し方に、好印象を抱いているだけかもしれない。
(この感情が恋だとして、もし両想いだとしても、だからといって、今日の今日に求婚を受けてもいいの?)
答えは「否」だった。
まだ早い。
愛を育てていない。
愛は、まだ始まってもいない。
一時的な恋の感情は、決して愛ではない。
相手を知らねばならない。
また、相手の男爵様だって、本当の私を知っているわけではない。
お互いをよく知ること。それが、愛のスタートだ。
「男爵様」
「何でしょう?」
「あなたは不思議です」
「どんなところが?」
「なぜ私を好きになって下さったのか、わからない」
「ヒルダお嬢様。あなたに必要なのは自信です。その自信は、僕が持たせてあげられると思います」
自信。そんなもの、どうやったら持てるのだろう? 今は想像もつかない。
「まだあります。過去が謎です」
「いずれ話しましょう」
「女性についての考え方も知りません。男爵様は、妻に何をお望みですか?」
「好きだから結婚したい。それではいけませんか?」
「最初に言っておきます。私は、正式な妻になる前に、男女の関係を結ぶことはしたくないとーー」
「おお、お嬢様! 何という誤解を!」
男爵様は、馬車の中で腰を浮かせた。
「僕が身体目当てで求婚したと思いますか? とんでもない! 僕はそんなことはしません。それは神をも畏れぬ所業です。そんなことをしたら、神は決して僕を赦さないでしょう……ああ、着きましたよ。成金の僕が住むようになった屋敷です。どうぞ襲われるなどと心配せずに、ゆっくり身体を休めて下さい」