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20.あの日に帰る



 七十歳のとき、家の中で転んで、太ももの骨を折った。

 新月館に医者を呼んで治療してもらったが、うまく回復せず、車椅子生活を余儀なくされた。

 無念だったが、五十年以上続けてきたH&H犬病院を、閉院することに決めた。


「でもいいの。おかげさまで、弟子がたくさん育って、犬病院が十五箇所もできたから」


 五十年前では考えられなかったが、今ではペットの犬を病院に連れていくことは、ごく当たり前のことになった。


 私は安心して犬医者を引退した。

 それでも、常連のお客さんや百人を超える弟子たちが、見舞いと称して、連日私を冷やかしに代わる代わる屋敷を訪れた。


「先生、また元気になって、うちの子が何を言ってるのか教えて下さいよ。まだまだおできになるでしょう?」

「冗談ばっかり。こんなおばあちゃんじゃなくて、若い先生に診てもらいなさい」


 そんなふうにすげなくするのだが、客は少しも減らない。ルナはそれを見て、


「ヒルダ先生、愛されてるねー」


 とからかう。私はルナをぶつ真似をする。するとルナがイーッとする。私も負けずにイーッとする。


 ある朝、私はルナに頼んで、スモークサウナに連れて行ってもらった。


「ケン、一緒に入ろう」


 そう言うと、ケンは顔を赤くした。


「バカな子ねえ。こんなおばあちゃんに照れるんじゃないわよ」


 サウナの横にケンを座らせて、頭を撫で撫でしてやると、ケンは目をつぶって縮こまってしまった。



 ◆◆◆◆◆



 八十三歳の秋、風邪をひいたら肺炎になり、ベッドから起きられなくなった。

 男爵様とルナとケンが、二十四時つきっきりで看病してくれた。


「男爵様」


 優しい男爵様の顔を、下から見上げながら言う。


「長年お世話になりました。そろそろ迎えが来たようです」


 するとケンが、肩を震わせてしゃくり上げた。


「泣くんじゃない、バカっ!」

 ルナがケンを叩いた。が、そのうちルナも、声を上げて泣き始めた。


「ヒルダ」


 男爵様の手が、私の髪を慈しむように撫でる。


「あなたのやってきたことは、歴史に残る。なぜならヒルダは、世界の常識を変えたのだから」

「あなたのおかげよ、男爵様」


 男爵様は、家では老け顔メイクをやめているので、二十七歳の若々しい青年の姿でいる。


「不思議ねえ」


 私は心から言った。


「男爵様も、ルナも、ケンも、昔の姿のままだから、少しも時間が経った気がしない。六十五年間が、まるで一夜ひとよの夢みたいに感じる」


 私自身は、十八歳から八十三歳になった。だから、時間は確実に流れている。

 でも、こうしてベッドに横になっていると、新月館に来てからの六十五年が、淡雪のように手の中で消えてしまったと感じるのだ。


(不思議。本当に不思議。思い出すことといえば、あの日のことばかり。男爵様に初めて会って、家族と縁を切り、馬車でお屋敷に来て、ケンやルナと食事の後片付けをしたあの日ーー目を閉じれば、すぐにあの日に帰る。だから私の心は、いつまでも、尻尾を振らない捨て犬令嬢のまま……)


「ヒルダ、ごめんなさい」


 男爵様が頭を下げた。


「僕、自分の姿に戻っていいですか?」


 ルナとケンの息を呑む音がした。

 私は微笑んだ。


「ええ。ぜひそうして。あなたを見たいわ、ヘルハウンド」


 男爵様の姿がぼやけ、見る見るうちに、炎のような赤い目をした大きな黒犬に変身した。


「まあ、可愛い。こっちへおいで、ヘルハウンドちゃん」


 黒犬が、私の胸に頭を載せた。

 その口から、はあはあという荒い息が洩れる。


(あら、かわいそうに。痛みが伝わってくる。哀しみで、心が引き裂かれそうになっている……)


「ごめんなさいね、ヘルハウンドちゃん。犬を置いて、人間が先に死んじゃいけないわよね。心細いわよね。ごめんね、ごめんね」


 はあはあと荒い息。やがて、赤い両目から、涙が溢れ出した。


「困ったわ。どうしましょう。私、犬医者なのに、犬がこんなに涙を流すなんて知らなかった。かわいそうに、かわいそうに」


 黒犬の身体を抱いてやると、こちらの胸が潰れそうな、悲痛な遠吠えをした。


(遠吠えは、大好きな人が離れていくときに、不安や寂しさからすることがあるの。だから、可愛いワンちゃんを置いて、何日も旅行に出かけたりしてはダメよ)


 そんなことを人に教えておきながら、私は先生失格だ。


「ごめんなさい。もう行く時がきたみたい。ありがとう。楽しかった。幸せだったわ」


 黒犬の熱い涙に濡れながら、私は目を閉じ、またしてもあの日のことを夢に見た。


           《了》


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