17.秘密を知る
生まれて初めてのデートを、私は楽しんだ。
(こんなみっともない犬令嬢を連れて、男爵様に恥をかかせている)
とは思わなかった。
いつの間にか、そんなことは気にならなくなっていた。
宝石屋でも、洋服の仕立て屋でも、食堂でも、リラックスして自然にふるまうことができた。
「男爵様」
「何ですか?」
「ううん、何でもない」
そんな、ほとんど意味のない会話でも、夢見心地になるくらいだった。
月曜から金曜まで犬医者として働いて、週末にデートを楽しむパターンが、しばらく続いた。
犬病院は繁盛した。噂を聞いた人たちが、珍しい物見たさでひっきりなしに訪れた。
また中には、飼い犬の不調に真剣に悩んで来院する人もいた。そういう場合は、錬金術師のガルム師から入手した薬草を処方した。これが不思議なほどよく効いた。
「先生、また来ましたよ」
リピーターもできた。そういう人たちは、愛犬に今日はこういうことを訊いてほしいと、リクエストを紙に書いて持ってきたりした。
「おや、先生。今日はデートですか?」
外出先で、声をかけられることも増えてきた。気がつくと、男爵様よりも、私のほうが人に知られるようになってきた。
(もう私は、犬顔を哀れまれる犬令嬢ではない。単なる男爵様のお飾りでもない。ヒルダ先生。つまり、自分の能力を活かして働く一人の女性として、人々に認知されるようになっている)
そう実感できたとき、
(男爵様のプロポーズを受け入れようか……)
その想いがぐんぐん強くなった。
が、しかし、
(でももう少し待とう。もっと犬医者として成長したい。もっともっと、人と犬の役に立ちたい!)
そっちの気持ちのほうが大きくて、結婚の二文字を口にすることはためらわれた。
そんなある日のことだった。
仕事を終えて、男爵様と夕食をいただいているときに、突然来客があった。
その日はたままた新月で、森は闇に包まれていた。
「おじさま」
食堂に入ってきたルナが、男爵様のそばに寄って耳打ちをした。
「ヘカテ様が?」
男爵様が目を大きく見開き、その目でチラッと私を見た。
私はびっくりした。
「え? ヘカテ様というのは、男爵様の故郷のニュームーン国の女王様ですよね。その使いが来たのですか?」
男爵様は返事をしなかった。
テーブルで、身体が固まってしまったように見えた。
「ヘル=ハウンド」
食堂の入口から声。
反射的に振り向く。
絶句した。
「今夜は新月ですよ。墓荒らしから墓を守るために出かけないのですか?」
深みのある声でそう言った女性は、身長が二メートルほどもあった。
頭に被った王冠も、床に裾を広げたロングコートも、まばゆい光を放っていた。
そして、黒目のない両の目までが、月のように蒼白く光っていた。
(……これが、ヘカテ様?)
そこで思考は止まった。
自分の見ているものが何なのか、よくわからない。
外国には、発光する王冠や服があるのか?
しかし目が光るというのは、いったいーー
「ヘル=ハウンド。今夜は話があって参りました。来なさい」
ふらりと立ち上がり、女王様に歩み寄っていく男爵様。
二人が扉の向こうに消えたとき、私は慌ててテーブルを立った。
「待って、お嬢様。ここにいて」
ルナが邪魔をした。私はルナを押した。
「どいて。男爵様が連れ去られちゃう」
「ううん、そんなことないから。落ち着いて」
「嘘言わないで! どきなさい!」
「ダメよ、お嬢様」
「どけと言ったらどいて! 私たち結婚するのよっ!」
ルナを突き飛ばして扉を開ける。
扉の外には、ケンが立っていた。
「行くな」
ケンは言った。
一瞬、その姿が、番犬のように見えた。
「どきなさい!」
思い切りケンを突き飛ばし、走った。
女王様の歩いたあとは、蒼白く光っている。
それを辿っていく。
一階から二階、二階から屋根裏部屋へと。
屋根裏部屋の入口の隙間から、蒼白い光が漏れていた。そこへ目を近づける。
二人はいた。
「ヘル=ハウンド。あなたから人間の娘に恋をしたと打ち明けられたとき」
女王様がそう言った。
「私はあなたに、人間になることを許した。あなたが幸せになる権利を、奪ってはならないと考えたから」
男爵様が私に恋をして、人間になった……
それを聞いたとき、思い出した光景があった。
今日と同じ新月の夜、卒業パーティーからの帰り道。
馬車が十字路に差し掛かったときに、両目が炎のように赤く光った大きな黒犬がいて、それにジーッと見られたときのことをーー
「でもそれは、間違いでした。人間の娘に恋をしてはならなかったのです」
「どうしてですか!」
男爵様は、悲鳴のような声を上げた。
「どうかこのまま人間でいさせて下さい! 彼女と結婚させて下さい!」
「どうせ続かないとたかを括っていました。ところが、あなたたちは夢中になった。このまま突き進めば、あなたも人間も必ず不幸になりますよ」
「なぜです!?」
「あなたたちのあいだに子どもはできない。また神は、あなたたちが肉体的に結ばれることをお許しにならない」
「わかっています! わかっています!」
「人間の女が、それで幸せになりますか?」
私は一瞬、部屋に飛び込もうかと思った。そして、「はい、幸せになれます」と宣言しようかと。
しかし女王様は続けて、
「それだけではありません。ヘル=ハウンド、あなたは歳をとらない。人間の女が老けていくのに、あなたは若々しいまま。それでも幸せになれますか?」
私はハッとした。
私は歳をとる。
男爵様はとらない。
私はおばさんになり、おばあちゃんになる。
男爵様は青年のまま。
それで私と男爵様は、幸せでいられるかーー?
「いいですか、ヘル=ハウンド。人間の女は、いつか必ず死ぬ。あなたは神に滅ぼされないかぎり死なない。あの女が衰えて死んでいくのを見て、あなたはその哀しみに、耐えることができますか?」
男爵様が慟哭した。
私は屋根裏部屋の入口から顔を離した。
そして、急いで書庫へと向かった。




