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13/20

13.いよいよデビュー



 男爵様は夜の七時に帰ってきた。


「お帰りなさいませ。お疲れ様でした」


 挨拶はできたが、食堂に移動しても、なかなか本題を切り出せない。


「庭の散歩はしましたか? チョコと会話はできましたか?」


 いえ、とか、ええとか、適当な相槌を打ったきり、黙り込んでしまった私を見かねて、


「お嬢様は、狼のリーダーと会話できたんですよ!」


 紅茶の支度を終えたルナが、興奮ぎみに説明してくれた。


「それでね……」


 ルナの話を聞くと、男爵様は手を叩いて喜んだ。


「素晴らしい! 犬の医者は、ぜひやるべきです!」


 涙がにじんできた。男爵様は、私の知っている貴族とは何と違うのだろう。何と心が広く、素敵な方なのだろう。


「この屋敷の門に、『ヒルダ犬病院』と表札を掲げましょう。院長ヒルダ・ゴズリング、助手ヘル=ハウンド、受付ルナ、その他雑用ケン」


 話がずんずん進んでいく。


「待って下さい。『ヒルダ犬病院』はちょっと……」

「お嫌ですか?」

「せめて、『ヘル=ハウンド犬病院』で」

「ではこうしましょう。ヘル=ハウンドのHとヒルダのHをとって、『H&H犬病院』にするのです。そしてその看板を、この森に続く坂道の下に掲げます。街の中心からこちらへ来る道の脇にも、いくつか看板を立てましょう」

「それと、男爵様のほうがきっと私よりよく犬と会話できるから、男爵様が院長をなさって下さい」

「ダメです。小型犬は、僕を怖がります。とても正直に心を開いてはくれません。犬の心の医者は、ヒルダお嬢様にしかできないのです」


 私は紅茶を飲んだ。下を向いて、潤んだ瞳を男爵様から隠すために。


「失敗は気にしないで下さい。すべての責任は僕がとります。ルナもケンもいます。自分一人で頑張ろうとは、決してしないで下さいね」

「ありがとうございます……」


 まばたきをしたら、ティーカップに涙が落ちてしまった。


「幸い僕の知り合いに、犬の研究をしているガルム師という錬金術師がいます。ひょっとすると彼が、犬の病に関する知識を持っているかもしれないので、明日にでも会いに行ってみます」


 ということで、翌日早く男爵様は、ケンと出かけていった。

 私とルナは、朝から宣伝用の手紙書き。これを男爵様と取り引きのある宝石商に委ね、上得意の紳士淑女に渡してもらう。


 何せ、彗星のように社交界に現れた若き富豪のヘル=ハウンド男爵様は、人々の注目の的だ。不思議な輝きを放つ「月の石」を売る、謎めいた男爵様の私生活を知りたいと思っている人は多いだろう。


 その男爵様が、犬病院という、世界にも例のないことを始めるのだ。珍しいといって、これほど珍しいこともない。珍し物好きの金持ち貴族は、噂の「新月館」を見るためだけでも、きっと飼い犬を連れて訪れるだろう。その中に、もし本当に心を病んでいる犬がいたら、ぜひ力になってあげたい。


 夜帰ってきた男爵様が、満足そうに報告した。


「ガルム師には会えました。犬にも効果があるという薬草を譲ってくれるそうです。彼は何百匹もの犬と共同生活をしているので、信用していいと思いますよ」


 そのガルム師自身に、犬の医者をする意思はないという。貴族のペットを相手にするより、野犬の研究をすることに情熱を傾けているそうだ。


「看板も手配してきましたし、内装も頼みました。大ホールは待合室とし、客間を診察室にするのが良いでしょう。それと、犬に関する文献や書籍を大量に注文してきました。それらは書庫に収めておきますので、暇なときにでも読んで、お嬢様の貴重なお仕事の役に立てて下さい」

「本当に何から何まで……」


 本業の宝石の仕事が疎かになるのではないかと、心配になるほどの男爵様の入れ込みようだった。


 それからも話し合いを重ね、必要な品を揃えた。たとえば、診た犬の記録簿。記録をつけておけば、二度目にその犬が来たときに、何月何日にどういう体調だったか、ということがわかるので、的確なアドバイスができる。これは、人間のお医者さんが昔からやっていることでもあった。


 診療時間は、月曜日から金曜日の、午後の二時から五時までの三時間とした。ルナとケンは、屋敷の仕事(掃除、洗濯、食事の支度、馬の手入れ、サウナのために薪を割ったりすること等々)が多々あるので、あまり診療時間を長くすると、二人の仕事が増えて大変になると考えたのだ。


「ルナとケンは無理しないで、お屋敷の仕事を優先してね」

「でも私、受付やるの楽しみ。いらっしゃいませーって言ってみたい」

「いらっしゃいは、ちょっと違うかな」


 準備に忙しいある日、男爵様がプレゼントを買ってきてくれた。


「院長用の服です。きっと似合いますよ」


 箱を開けると、真っ白なシルクのガウンが入っていた。


「……これを来て、お仕事をするのですか?」

「純白は、ヒルダお嬢様のイメージに合います。あなたは世界初の犬医者です。今後、犬医者というものが世間に知れ渡ったときに、その純白がイメージとして定着するでしょう。清潔で、純粋な心のイメージが」


 鏡の前で着てみた。どう見ても寸胴で不格好。だけど、ダンスを踊るわけじゃない。必死になって働くのだ。格好などはどうでもいい。


「動きやすいですね。飾りがなくてシンプルなのも、いいです」

 

 鏡の自分に向かって、「次の方、どうぞ」と言って微笑んでみた。


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