11.狼さん、こんにちは
(は? この狼が、鼻面でノックした?)
私は硬直した。
至近距離で、体重が四十キロはありそうな狼がこっちを見上げている。
(ヤバ……こういうときって、どっちが正解? 目を逸らす? それとも見つめ合う?)
助けを求めて大声を上げたらやられると思った。文字にしたら「殺られる」。もちろん走って逃げられるわけもない。
一か八か、じっと見つめ合った。
すると奇跡が起こった。
(……フロ……フロ)
何と、狼の心の声が聞こえたのだ!
(え、待って。どういうこと? 男爵様のペットのチョコとは会話できたけど,いつの間にか、野生の狼とも会話できるようになったの?)
試しに、声に出して言ってみた。
「あなた、もしかして、お風呂に入りに来たの?」
(……フロ……フロ)
「そっか。前にも来たことがあるのね。蒸気のお風呂、気持ちいい?」
(……オフロ、キモチ、いい)
やった! 会話が成立した!
「男爵様が入れてくれたの? あ、男爵様ってわかる?」
(……ヘル=ハウンド、さま)
すごい。狼でも、人間の名前を憶えられるのだ。これはひょっとすると世紀の大発見かもしれない。
「男爵様が、お風呂に入れてくれて、気持ち良かったから、また来た。これで合ってる?」
(……あってる)
「男爵様は、野生動物にも優しいのね?」
(……ヘル=ハウンドさま、偉大)
心底感心した。野生の狼に畏怖されるとは、男爵様は何というすごいお方なのか。
「おいで。この石の前に来て」
(……どうも)
ケンがやったのを真似して、柄杓で石に水をかけてみた。
しかし、小屋の温度が下がったせいか、蒸気があまり出ない。これでは狼さんも、気持ち良くないだろう。
「困ったわ。私は貴族令嬢だから、薪なんかくべられないし」
(……キゾク、レイジョ?)
「貴族令嬢。何にも役に立たない女のことよ」
せっかく楽しみに来ただろうにと思うと、狼がかわいそうになった。そこで、
「せめて、マッサージしてあげる」
と言って、背中をさすってやった。
狼が気持ち良さそうに目を閉じた。
そのとき、
「ちょっと、いつまで入ってるの?」
ルナが扉を開けた。
その瞬間、
「ギャー!!」
私と狼を見て逃げてしまった。
「大丈夫よ、ルナ、戻ってきて」
それが聞こえたのか、ルナが戻ってきて、扉から半分だけ顔を出した。
「それ、群れのリーダーよ。この森に棲んでるの」
「あ、この子を知ってるの?」
「スモークサウナに味を占めてしょっちゅう来るの。ほら、おじさまって、狼に強いじゃない?」
「狼に強い? あっ、そうか、狩りが得意だからね」
動物は、自分より強いものを畏怖する。イノシシを銃で狩る男爵様を見て、「ヘル=ハウンド男爵様は強い、偉大だ」と尊敬するようになり、まるで男爵様のペットのようになったのだろう。
「だけど私、狼はダメ。虎とかヒョウなら、猫の仲間だからいいんだけど」
「この森には虎やヒョウもいるの?」
「残念だけど、山猫くらいしか」
私はルナに頼んで、薪をくべてもらった。一回小屋から出て、煙を外に出し、再び小屋へ。
(……フロ、あったかい、キモチいい)
「良かったね」
あんまり可愛いので、つい狼に頬ずりしていると、
「ねえ、捨て犬お嬢様。さっきから普通に話しかけてるけど、狼と会話でもできるの?」
「うん。やってみたら、できちゃった」
絶句するルナ。半信半疑の表情を浮かべている。ならばと、証拠を見せることにした。
「私の言うとおりにしてみてね。大きく口を開けて」
狼が口を開けた。
「閉じて」
口を閉じた。
「三べん回って」
その場でぐるぐる回る。
「ワン」
「アウォーン!!」
ね? という顔でルナを見た。
「すごいでしょ? ぐうの音も出ない?」
「すごいっていうか……」
突然ルナが、バシッと背中を叩いてきた。
「痛い! 何するの!」
「すごいじゃない!」
「だから、すごいでしょって言ったじゃん」
「すごいどころじゃないよ。狼としゃべる令嬢。人類史上初じゃない?」
「そんなことないわよ。男爵様は、普通にペットの犬としゃべってたよ」
「おじさまは特別。とにかく、特殊能力なのは間違いないよ」
男爵様は、才能と呼んでいた。犬が本当に好きで、心が極めて純粋できれいなら、犬と話ができると。
ということは、私は狼が好きだったのか? その自覚はなかったが、私は自分の容姿ゆえに、子供の頃から犬には特別なシンパシーを抱いていたので、犬の仲間である狼とも心が通じ合うのかもしれない。
「特殊能力ね。そんなものが自分にあるなんて、夢にも思わなかった」
「今日まで全然気がつかなかったの?」
「昨日、チョコと話せたんだけど、私の秘めた才能が、この屋敷に来て一気に開花したんだろうって、男爵様は言ってた」
「なるほどねー。新月館は、別名黒犬館だもんね。犬との距離がグンと縮まったのはわかる」
わかるような、わからないような理屈だったが、会話できるようになったのは事実だ。
「ねえ、お嬢様」
ルナの口調は弾んでいた。
「私は何の役にも立たない捨て犬令嬢だなんて、ウジウジしてばっかりいたけど、この特殊能力を活かしたらとんでもないことになるんじゃない?」
「とんでもないことって?」
「仕事にするのよ」
ルナの目が、エメラルド色に輝いた。
「犬と会話できるって宣伝するの。貴族連中は珍し物好きだから、きっと見に来るわ。それで報酬を得れば、おじさまに申し訳ない気持ちも減るでしょ? せっかくの能力なんだから、堂々と使って!」




