風の扉
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おおっ、風が出てきたかねえ、これ。
晴れてんのに、ここまで窓をゆすられるのって、久しぶりだな。初嵐、と呼ぶにはちょっと遅いかな?
つぶらやは風に吹かれることって好きか? さすがにこれほど強い風に吹かれると、物とかが飛んできそうなんで危ないが、そよぐ程度の風を受けながらだと、ついついどこかに腰かけてまどろみそうな空気さえ醸し出してくる。
風の正体は、水平方向に移動してきた空気。俺たちを取り巻いているせいで実感が薄いが、空気にも重さがあるわけで、風が吹くとき、俺たちはそいつらから猛烈な体当たりを受けているんだな。
そうしてぶつかってくるそれらは、ひょっとすると移動するだけでなく、俺たちへメッセージを送ってくれていることもあるかもな。
俺自身が前に体験した不思議なことがあるんだが、聞いてみないか?
俺が下校際、全力疾走で家へ向かっていたときだ。
速く動けば、身体は強い風にさらされる。自分から空気へぶつかりに行っているんだ。当然の結果だろう。
そして、そのときの空気は、素直に俺にかき分けられるばかりじゃなかった。
いきなり、俺の前進は妨げられる。そればかりか、足を止めてこらえざるを得ないような突風が正面から吹き付けてきたんだ。
たまらず、顔の前に手をかざして耐える姿勢になる俺だが、ほんの数メートル横。歩道から少し外れた砂利道を平然と通る、杖ついたばあさんの姿を見て、不審さを覚えた。
張り付く服の感触さえ覚える強い風に、足がほぼ止められて、じっくり観察することができたのもある。
ばあさんは、この風を苦にする様子なく歩いていた。いや、それだけじゃない。
ばあさんの着ている服は、「前へ」なびいていたんだ。俺が受けているのは向かい風で、当然、服は後ろへ後ろへ引っ張られることになる。
つまり、ばあさんは追い風の中を進んでいるってことだ。
――まさか……俺とばあさんの間に、風の境目があるっていうのか?
ほどなく、向かい風は弱まってしまうが、完全に止んでしまうより前に。
ひょっこりと、一匹の猫が近くにあった駐車場の、低いフェンスから飛び降りてきた。この辺りでは見かけない、真っ白な毛並みの猫で、ばあさんの斜め後方から、ちょうど俺の方へ向かって歩いてくる。
何か関心を引くものがあるのか、周囲をうかがいがちな猫にしては、珍しくうつむき加減だ。ひょっとすると、俺のこともばあさんのことも見えていなかったかもしれない。
その猫が、ちょうど俺とばあさんの間に滑り込んだとき……姿を消してしまったんだ。
いや、厳密には消えたとはいえないかもしれない。
消え去る直前、俺は猫の足が離れて、前方へ大きく吹き飛ぶような姿勢になったのを目にしたんだ。
だが振り返った前方には、猫の姿は影も形もなかった。立ちどころにいなくなったわけじゃない。あの境目に吹く、追い風と呼ぶのさえはばかられるような、別次元の風。
あれが猫の身体を猛烈な勢いで運んだから、目で追いきれずに見失ってしまったんだと思ったんだ。
家へ帰った後、夕飯で食卓を囲んだ時に、この話をしたら両親が驚いた顔をしていたよ。
そいつは「風の扉」というものらしい、とな。
二人とも子供のころに見かけたことがあったらしい。追い風と向かい風、それらの相反する風が、同じ場所で一緒に吹く条件が整ってしまうことが、まれに存在するのだと。
それが、本当に空気の流れによって起こる「風」なのかは分からない。だが、その追い風と向かい風のちょうど境目では、異なる二点をつなぐ「扉」が開くことがあるらしいのさ。
両親は、自分の親たちから、それが神隠しの原因のひとつとも教えられたとか。どの二点がつながったかは、誰にも予測や観測をすることができず、もし巻き込まれたらどこへいくのか分からない、とも。
「だが、その扉は多くのものを取り入れることはできない。
お前が話したような猫一匹を最低の大きさとして、何かひとつを引き入れれば、腹いっぱいになって満足する生き物のように、扉もまたその口を閉じるだろう」
数日後。
体育の持久走があって、男女に分かれて走ることになった。
女子が1000メートルで、男子が1500メートル。200メートルのトラックだったから7周半することになる。
一定の人には不人気な種目だが、俺は走ることそのものに抵抗はない。運動部特有の顧問からの圧力もなく、あまり苦しくない程度にペースをおさえながら、6週目までを終えたんだ。
そして7週目。残り100メートルともなると、脚をうまいこと残した奴なら、あとの300メートルを一気に終わらせようと、ペースを上げ始める。
俺もそのクチで、脚を早めるものの、ラスト直前のストレートで外側から陸上部のひとりが追い抜きにきた。
順位を競うものじゃない。だが、横を抜かれそうになると、抜かれたくないと動いてしまうのは、やはり心の奥の負けず嫌いがうずくのか。
ちらりと横目で、抜きにかかった奴を見る。頭に巻いたハチマキが大いに後方へなびき、服もまたおおいに引っ付きながら、あまった生地が後ろへ引っ張られている。相当な加速だ。
だが、俺自身はあまり風を感じていない。下校の時と同じとは行かないまでも、あいつに追い抜かれない程度の速さなのに、服が引っ付いてこない。
もしや、とトラックの内側を見る。待っている女子のうち、熱心な何名かは自主的なアップをしている。
そのうちのひとり。俺とほんの数メートル離れたトラックの内側を走る彼女もハチマキをしているが、その先は前方へ前方へ流されている。服もまた同じで、隣の男子とは反対方向だ。
追い風と向かい風のすき間に、俺は立ちかけている……!
とっさに、内側へよれた風を装って、等間隔に置かれている三角コーンのひとつを蹴り飛ばした。
うまいこと前方へ蹴り出したとき、それなりに大きな音がしたし、それを耳にしてこちらを見てきた奴もいるだろう。
だが、ことによると耳の錯覚と思うかもしれない。なぜなら俺の前方へ蹴り出したコーンは、その動きを止めることさえないまま、あっという間に姿を消しちまったからだ。
驚いたであろう陸上部の足が鈍り、ずるずると下がっていく。そのまま持久走を終えた俺だが、何人かは俺に尋ねてきたよ。あの奇行とコーンの行方をな。
それも、すぐに寄ってきた体育の先生へ散らされて、授業の続きが始まる。ただ先生は俺にひとこと、「大事なくてよかったぞ」と耳打ちしてくれたっけ。
先生が話をしたのか、俺にコーンのことを尋ねてくる奴は、もういなくなったよ。
ただ俺は風の気配がすると、いまでも敏感に向きを探っちまうようになっちまったけどな。