エピローグ
最終話、エピローグ、人物紹介を同時に更新しています。
「多分大丈夫だけど、大丈夫じゃなくてもハルト様の所為じゃないから、絶対に傷つかないでください」
右上がりの丸い文字の手紙に導かれて修道院を訪れたのは、晩夏の午後だった。
本当は夏の初めに来たかったんだけど、野暮用が長引いてしまった。この先、イリーナが安心して生きていくために必要な処置だから、念入りにしなくちゃだったしね。
王都を照りつけていた灼熱の太陽は、辺境では嘘みたいに弱々しい。
一年を通して冬の初めみたいな気候の寒冷地だけど、この頃は野山の草が赤く紅葉する。
霜のおりた大地と、宝石みたいな赤のコントラストは、イリーナの髪と瞳みたいで美しかった。
イリーナは、温室の掃除をしていた。
薔薇色の頬に優しげな横顔。
慣れた手つきで箒をはく、きびきびとした動作。
腰まであった長い髪は、顎の位置でさっぱりと切りそろえられている。
あんなに綺麗な人だったかな。
温室の外にいるのに、顔があつくなってきた。
学園にいた頃は、美しいというより病的だった。
青白いほど白くて、折れそうに細くて、胸ばかりが不自然に豊かで。いつも物憂げで、どこまでも儚げで。
まるで、すぐ隣に死があるみたいに厭世的だった。
今もまだまだ細いけれど、当時の危うさはない。
性根のおかしな人間を惹きつけてやまなかった、ある種の狂気、退廃美が消えて、良い意味で普通の女性になった。
温室の窓が、大きく開いている。
「イリーナ」
それなりの声量で呼びかけると、ハッとして小さな顔をこちらに向けた。
アナスタシアや医師から、彼女の容体は聞いている。
極限状態で気を張っていた人間は、安全な場所に来てふっと糸が切れてしまうことがある。
彼女はまさにその状態だから、ゆっくり回復を待とう、と。
逃げるかな。
泣かれるかな。
逃げられたらショックだけど、恐怖で足がすくんでしまうよりは、よっぽど良い。
泣かれると弱いけれど、感情を殺して愛想笑いされるよりは、絶対に良い。
だけどイリーナの唇は「ハルト様」とつぶやき、次に満面の笑みを浮かべ、こちらに駆けてきた。
「ハルト様! ハルト様!!」
懐かしい声。はちきれそうな笑顔が、溢れる涙でくしゃっとなっている。
可愛い。
こんな表情もできるんだ。
目頭を抑える指先が、ちゃんと丸い。鶏がらみたいじゃない。青白かった爪がさくら色になってる!
すごい、すごい!
両手を広げて、いたいけな体をぎゅっと抱きしめた。
イリーナには言わなかったけど、鉱山の掘立て小屋でも夜になるとたびたび立ち歩いていた。
たいていは声をかけるときょとんとして、「寝ようか?」と促すと素直にベッドに戻って、眠っていた。
何度か「殺して!」と絶叫して泣き喚く日があった。一度は、自傷しようとするので一晩中羽交い締めにした。
朝になって何も覚えていないことが、どうか演技ではありませんように。
この子の心が、はやく回復しますように。
どこの誰とも知れない神に、何度祈っただろう……?
今の彼女もまだまだ細いけれど、小さいけれど、強い力で僕を抱きしめてくれる。
僕が必要だって、全身で教えてくれる。
「髪を短くしたんだね」
「うん。……おかしくない?」
「似合ってるよ。可愛い」
すくいあげるように、短くなった髪を撫でた。指通りがサラサラしていて、気持ちいい。
「長いより好きかも」
「私も」
泣き笑いの笑顔が、とても眩しい。
「ハルト様、来てくれて、ありがと……」
「来るに決まってるだろ」
声を落として耳元で「愛してるから」と、囁いた。
イリーナはぽかんとしてから、ワッと泣き出して、めちゃめちゃに抱きついてきた。
もらい泣きを堪えながら顔を近づけた。
至近距離も可愛いな。
キスして良いか聞いたら、「ハルト様も泣いてる」って。
あれ? いつの間に???
「うるさい。返事は?」
「……喜んで」
僕の天使が、涙をぬぐいながら頷いてくれた。
この唇も、ぬくもりも、生涯誰にも渡さない。
〜 fin 〜




