期待は気体のように消えていく
先輩のお陰で俺の遅刻は免れ、なんとかギリギリで着席に成功した。
ギリギリって言っても本鈴は鳴っていたけど……。
しかし先生がまだ教室に到着していなかったようで、表面上はセーフだったというわけだ。
その数秒後に先生が汗だくのままドアを開けて、ペコペコと頭を下げながら皆に謝る。かなり信頼を寄せられている人だからか、誰一人も先生を責めるマネはしなかった。
ろくに運動をしないので、階段を上るだけですっかり息が上がってしまった。少しは運動の時間を設けた方がいいな……。
息を整えるのに必死で全く先生の話は聞けなかったが、特に重要な話はしていないだろう。
ルーム長が号令をすると俺は頬を机に付けて、大きく溜め息を吐く。
「疲弊したように見えるけど、なんかあったの?」
「平気だ……。朝早く目が覚めて寝不足でな……」
俺の目の前に、アナウサギが巣穴から顔を出すように、机の下からひょっこりと朱色の艶めく髪をした女の子が現れる。
髪型は肩ぐらいまでの長さのボブカット。成長途中なのか胸は控えめ。しかし、その点をカバーできるほどの素晴らしいスタイルだ。
しかもバスケ部のエース。成績は俺より上。天真爛漫という四字熟語がよく当てはまる、俺の幼馴染だ。
名前は「木野陸人」という。
……この名前を聞いて、母親の昔のホストの名前を子供にそのままつけたと感じる人はいるだろう。
否、断じて否である!
「なら~……元気注入!」
ふにゅんと未発達の胸が俺の背を優しく包み込む……と、思いきや……。
ゴツンと鉄板に似た衝撃が俺の背に駆け巡った。めちゃくそ痛い。
決して、貧乳の蔑称ではない。ガチもんの鉄板だ。
そう。彼女……彼は男だ。
困惑するのも仕方ない。俺だって最初こいつの変貌ぶりを見たときは、愕然として開いた口が塞がらなかったもの。
昔は俺となんら変わらん男の子だったのに、中学生くらいになった途端に男の娘だ。
しかも姿だけじゃなくて、仕草まで女の子そのものだよ。意表を突かれたら普通にドキドキする。
「そんな容姿なんだから、少しはボディタッチは自重した方がいいぞ?」
「でも、これからのナオの人生でこんなシチュエーション楽しめるの、高校生活で最初で最後じゃん?」
なんだとこら。
俺だってゆくゆくはハーレムを築き上げてやるさ! そんな失礼なこと言うなら、お前入れてやんねぇーよ! ぶわぁ~か!
……負け犬の遠吠えはこれくらいにして、こいつは俺と比にならないほどモテる。
ある女子グループの会話を小耳に挟んだとき、どうやら女子は私生活とバスケ時のギャップに惹かれると話していた。
しかも社交性が高く、男子からも慕われている凄いやつだ。
バレンタインデーでは漫画のイケメン男子のように、机いっぱいにチョコが詰め込まれており、毎朝最低一枚はラブレターが入っている。
しかも、送られてきたラブレターの返事まで書くんだぜ?
律儀に断られるとショックが少ないことを理解しているのか、女子のメンタルまでに気を遣っているとのこと。
文字通りの優男。異性しか好きにならない俺でも、こいつには惚れる自信がある。
「そんなまじまじと見つめないで……」
ポッと顔を紅潮させる。ホント、こいつが女の子だったら狂喜乱舞するレベルなんだがな……。
なんか色々と冷めた俺は、一時限目が始まるまで眠ろうとしたのだが、
「あ~! ナオがなんかのチケット持ってきてる~!」
「ちょ、おまっ!」
陸人は俺のポケットから二枚のチケットを、意気軒昂に引き抜いた。
説明が遅れたが、先輩からもらったあのチケット。あれは動物園のでも水族館のチケットでもない。
あのチケットは俺の住んでいる市で年に二回催される『生物祭り』という行事の特別参加を認める、とてもレア値が高いアイテムだ。
生物祭りでは各都道府県から生粋の生物好きが集まり、各々出し物をするという、いわば文化祭のようなもの。
もちろん俺は毎年参加しており、一つ残らず出し物を見て回っている。
生物好き初心者から上級者、興味が全く無い人でも楽しめる数多の出し物があり、祭りを大いに盛り上げる。
が、ある一つの出し物からしたらそれらは余興に過ぎない。
それがこの、特別参加チケット所有者のみが参加を許される『生物王決定戦』だ。
生物王決定戦とは幾万もの大衆が見る中、ホールのど真ん中で自分の生物愛を語るという、なんとも夢のある生物祭り最大の出し物だ。
しかし、生物王決定戦はそれだけではない。
生物「王決定戦」とあるように、一番生物愛のある演説をした人物はその年の「生物王」となる。
生物王となれた者は、生物祭りの会場にある巨石に名前を刻まれることになっている。
そんな生物王決定戦に出場する権利を意味するチケットは、生物好きの人達からしたら喉から手が出るほど欲しがっていると言っても過言ではない。
手に入れるだけでも難しいそのチケットを、ノーリスクで手に入れた。俺の身が思わず後退してしまったのも納得できるだろ?
「これって生物祭りの特別参加チケットじゃん! 僕を誘ってくれるの!?」
チケットの表面を確認した陸人はヒラヒラと俺を挑発しているように、チケットを揺らす。
くっそ……一番バレたらめんどくさそうなやつに見つかっちまったな……。
「すまんが別の人を誘うんだ。次回一緒に行ってやるから我慢してくれ」
いたずらっ子のようにニヤニヤしている陸人は、プクーと頬を膨らませて俺を睨んでくる。
「僕以外の子とデートなんて酷いや! ナオのいけずー!」
なんでお前もメンヘラちゃんみたいな発言してんだよ。高校生の間でメンヘルブームでも到来してるのか?
はぁ……ここまで来たら噓はつけないな。勝手にチケット取った罰として、陸人にも手伝ってもらおう。
と、先にデートではないと説得しなくては。
「デートじゃねぇよ。美琴と出かけるだけだ」
「なるほどー」
「というわけで、お前に手伝ってもらう」
「というわけ? 使い方おかしいでしょ」
「とにかく勝手にチケット取った罰だ。少し協力してもらう」
「えー」
陸人は反論したそうに唸っていたが、結局それらしい言葉が浮かばなかったのかガクンと首を垂らした。
「でも、具体的にはどうすればいいの?」
「そうだな……どんなスポットが綺麗なのかを詮索するとか?」
「何? 告白でもするの?」
んなわけないだろ! と言いたいところだが、美琴に告白したいことはある。
語弊が生まれそうなので訂正しておくが、恋人になるとかの告白ではなくて、俺の秘密を告白するという意味だ。
秘密というよりかは、思い出話とかいうやつかな? その話で美琴の心境に変化があればなーと思っている。
「え、マジでするの!?」
「…………」
「その沈黙怖いんだけど!?」
そんなやり取りをしているうちに休憩時間が終わり、一時限目担当の先生が教室に入ってきた。
陸人が釈然としない表情で帰って行くのを見た俺は、机から数学の教科書を出す。
数学はかなり好みが分かれる教科だが、俺は好きな部類に入る。
ささっと午前中の授業を終わらせて、陸人に詳らかな説明をしよう。このままではヤバイ人に思われてしまう可能性がある。