個性
「実はね……」
そう言うと先輩は空を見上げて、首元に着けているリボンをギュッと握りしめた。
そよ風が、先輩の川のように煌めく清楚な髪をたなびかせた。
その魅力的な姿に動悸してしまうが、いつもこんな感じなので一瞬で冷める。
はぁ……俺も本来はこのシリアスな雰囲気を楽しめたはずなんだがな。どうも先輩の素性を知っていると邪推していしまう。
それじゃ、昨日のように未来予想してみるか! ズバリ――!
「ダイオウイカの触手で乱暴にされたいって思ったの」
ダイオウイカの触手で乱暴にされたいと思った!
……な? 銀華ちゃんではなく俺がエスパーだったのかもしれない。
これで毒のモンスターに襲われたときサイキネで対抗できるね! やったー!
「またそれですか……」
「いいや! いつもは体内から侵蝕されるのに対し、今回は体外からの侵蝕! そして、私の心に永劫癒えぬ傷を……」
はぁ……一体誰がこんなふしだらな女性に仕立て上げたのだろうか。
マジで人間性疑うわー。こんな容姿端麗な女性の心を汚すなんてないわー。
……しゅまん、俺だ。
いや、調教とか凌辱を受けさせたわけでもない。ただ単に俺は水生生物の素晴らしさを教えただけ。
昔は聖域に住む聖人のように、邪な思考とは無縁の存在だったはず。
それが、俺が提供した水生生物という名の小道具によって、聖域を性域に変えて聖人から性人になってしまったのだ。
開拓したのは先輩だ。純粋に水生生物を楽しんでいればこうならなかったはずだ。俺に非はない。免罪符とかでもない。
よって無罪! せめて執行猶予付きの判決で! 異議ありとか言わないでくれ。
「そんなどうでもいいことだけのために、今日俺を呼んだんですか?」
「イグザクトリー」
ホントに何がしたいんだよこの人!? 折角いつもより三〇分早く来てやったというのに、触手フェチを露見しただけ!!
「返せ! 俺の三〇分返せ! マジで時間遡行をできるなら昨日に戻して!」
俺はできるだけ平静を装っていたのだが、流石に今回の憤慨は抑えきれない。
そんな俺を見て、先輩は反省の色なしに淡々とあしらった。
「オニイソメみたいに怒らないで。私も直人の悩み聞いてあげるから」
なんだその等価交換!? 俺に悩みなんてこれっぽちも……。
あった。
一度深呼吸をしてから、先輩の方を向く。
「実は……妹の動物嫌いを直そうと思ってるんですよ」
「だから直人って名前なの?」
「一ナノメートルも関係ありません」
淡々とした口調で先輩のボケを流して、俺はスマホの画面に映る美琴の笑顔を見て言葉を紡ぐ。
「わがままみたいになってしまうんですが、昔みたいに二人で動物について楽しく話してみたいんです。でも、俺にはどうすればいいか分からなくて……」
今考えてみれば、本当に俺のわがままだ。
美琴が好きな動物を語るときの満面の笑み、動物と触れ合うときに星のように目を輝かせること、俺はそれをもう一度見たいだけ。
美琴はそんなことどうでもいいだろう。今でも十分笑顔を見れる。物悲しい雰囲気も全く見れない。
でもどこか違うんだ。
俺の好きだった美琴はなんにでも興味を抱き、後先考えず気になる好奇心を率先して、行動に移した。
そんな美琴を影で支えたかった。見守っていたかった。
しかし、これは俺の身勝手な言い分だ。
美琴のためじゃない、俺のために必死になっていたんだ。
「そうね。確かに直人のわがままだ」
「そう……ですよね。あはは……俺ってバカみたいっすね。すいませ――」
「自虐的な謙遜は嫌いって言ったよね?」
圧のある言葉が先輩の口から出た。
いつもとは違う先輩の表情に、俺は戦慄が体全体を駆け巡ったのを感じた。
「直人はわがままだとしか思っていないが、私はそうは思わない。素晴らしいお兄さんだと感心する。なのに何故、胸を張って言えない?」
「それは……」
「その態度は直人の個性でもあり、致命的な欠点とも言える。それに振り回されているせいで、いつまで経ってもくすぶったままなんじゃないの?」
「…………」
先輩の発言には幾つか心当たりがある。
一度美琴と動物園に行こうとした際に「俺なんかと一緒に行ってもなぁ」と、思ってしまったこともある。
そんな感じの出来事が何回も。
本当だ。俺は自分の個性に振り回されていたんだ。
自分に自分が制限されている。だから俺は今まで……。
「それは決してわがままではない。わがままなら他力本願という哀れな行動しかできない。でも、直人は全身全霊で妹さんの動物嫌いを克服させようとしている」
聞いたことのない先輩の重々しい口調。
だけどどこか温かみを帯びていた。その言葉に、俺は不安が募っていた気持ちの断片が剝がれた気がした。
「それは直人の『使命』だ。もう一度妹さんの笑顔を取り戻すための使命なんだ!」
「俺の……使命……?」
下唇を噛んでさしうつむいている俺は、気がついたら顔を上げていた。
「そう! だから、このチケットを使って妹さんの動物を思う気持ちを変えてきなよ!」
先輩が胸ポケットから取り出したのは二枚のチケット。
それを見た俺は、反射的に体が後退してしまう。
「い、いやいや! 流石にこれは受け取れませ――」
そこで、朝のホームルームの開始五分前を伝える予鈴が聞こえてきた。
連絡橋から下を覗くと、生徒達が校門をダッシュで通過していた。
「ほらっ! 直人は新校舎の奥の方の教室でしょ? 早く行かなきゃ遅刻してしまうよ!」
「えっ! えーと……」
俺は小考してから先輩が差し出してきたチケット二枚を両手で丁寧に受け取った。
「すいません先輩! 有難くちょうだいします!」
「いいよいいよ! それより、そんな消極的にならずもっと胸張って生きなよ! 堂々としてた方が得だからね!」
「――はい! 今度必ずお礼するんで!」
そう言って、俺は手を振りながら新校舎の内部へ走って行った。
その後ろ姿を見ていた先輩は、リボンがぐしゃぐしゃになるほど強く握りしめた。
「ホントは直人を誘うために呼んだんだけどね……。恥ずかしがっているから、先を越されちゃったなぁ……」
本懐を自らの手で握りつぶしたのを悔やんでいるのか、先輩は複雑な気持ちでその場を去っていった。
先輩が旧校舎に戻って行く姿を、踊り場に付いてある小窓から確認した俺は、階段を二段飛ばしで教室へと向かって行った。