巻の八 裏切り
「……ここは?」
「私の秘密基地だ」
尻餅をついて着地したところは薄暗く、ひんやりとした空気で満ちていた。
天井からはポツリポツリと水滴が落ちてくる。
頭上を見上げた高経は、幽かに射し込んでくる陽の光に目を細めた。
「このようなところを鍾乳洞と呼ぶのだそうだ。何年もかけて水滴が岩を侵食し、形成された洞窟だ」
「神秘的なところね……初めて見た」
「母上は私を生むとすぐに亡くなった。父上は政務に忙しく、私は一人で遊ぶことが多かった。よく城を抜け出しては、この鍾乳洞まできたものだ」
秘密基地と豪語するだけあって、蝋燭まで用意されていた。
二人は滑らないように互いの手をとり歩みだす。
地下水が滴ると、洞内に水琴の音が響き渡った。
清水によってつくられた川は幻想的な青緑色をしている。
「あのね、左京の手裏剣って、私のモノに似ていたと思わない?」
「それはそうであろう。左京は音羽の忍だから」
「うえっ? お医者様のはずでしょう!?」
「左京に出会ったのは十年以上前だな。ヤツは薬草収集に凝っていて、天津の薬草園と知らずによくやってきた。その頃、薬師達から薬草が盗まれるという苦情が報告されていて、捕まえてみたら左京だった。私に仕えるかわりにお咎めはなしということになった。頭領も了承済みだ」
左京が忍で薬草泥棒だったとは……。
「左京は薬草に加えて、狭くて暗いところも大好きでな。もとが忍だから天井裏、屋根、床下と徘徊しているうちに偶然、家老達の会話も聞いてしまったというわけだ」
高経は楽しそうだが、小春はため息をつく。
「……ふつう任務以外でそんなところ歩かないし」
やがて滔々(とうとう)とした流れは大きな地底湖に辿り着く。
そこは地上へと吹き抜けになっており明るい光が射し込んでいた。
湖には地上からの水流も荒々しく注がれており、滝となって飛沫をあげている。
そこから更に下方へと水は流れているようだった。
「忍法、赤雷炎」
二人が滝に見とれていると、天井の氷柱石が炎に溶かされ落下してきた。
間一髪で氷柱石を避けた二人の前には、仮面をはずした蔵乃介の姿があった。
「小春、なぜ殺さない。裏切るのか!!」
「頭領も里の皆も無事です。それに高経は里を襲ってはいないと言っています」
「お前の本来の任は、高経の暗殺だろう」
言葉に詰まった。確かにそうだ。
里の皆が無事だからといって、任務が終了したわけではなかった。
だが、小春は高経を殺さない──というより殺せないのだ。
(そういえば……なぜ蔵乃介さまが任務について知っているの?)
「高経さま……この任務は極秘で、私と頭領しか知らないはずです」
「うるさい黙れ、この役たたず! そいつを殺して秘伝の書を手にいれる!」
蔵乃介の目は血走り、恐ろしい形相をしている。
「裏切り者は貴様だ、蔵乃介」
「……裏切り者?」
隣で不安げな面差しをしている小春の頬を、高経の骨張った指が安心させようと優しく撫でる。
「蔵乃介は秘伝の書を奪う為、音羽の里に忍び込んだ甲賀忍だ。何年も前からずっと機会を窺っていたらしい。頭領はとうに気づいていたようだが……」
「あぁそうさ、俺は蔵乃介なんかじゃない。蔵乃介を殺してずっと成りすましていたんだからな。あのくそ爺、なかなか秘伝の書の在り処を教えない。屋敷に火を放っても、秘伝の書を持ち出す気配はなかった」
小春の胸中を怒りとも悲しみとも言い難い感情が渦巻いた。
「里に火を放ったのは蔵乃介だ。頭領はうすうす察していたのだろう。里の者はうまく逃げ出せたようだから」
蔵乃介は無言だが、今まで見せたことがない薄気味悪い笑みを浮かべている。
「貴様が欲しいのはコレだろう?」
高経は懐から何かをチラリと出して見せた。そしてまた隠してしまう。
「それを……よこせっ!!」
悔しげに歯軋りする蔵乃介を睨みつけたまま高経は語った。
「小春……そなたに私の暗殺を依頼したのは私自身だ」
「はっ? 天然だしバカだとは思っていたけれど、自分で自分の暗殺を依頼するなんて……やっぱりアホね」
高経はヒドイなぁと苦笑した。
「あの日……音羽の里から帰る途中、柿を採りにきたそなたに出会ったのだ。頭領に帳簿を預けて暗殺の依頼をし、換わりに秘伝の書を預かった」
あの日、高経が供を率いていなかった理由を小春は知った。
「そなたを守りたかった。蔵乃介が焦れていたのは明らかで、秘伝の書を手に入れる為ならば、手段を厭わないだろうと危惧していたのだ。案の上、音羽の里に火を放ったではないか。そなたを守るために天津の国へと招いたのだ」
小春は自分を庇うようにじりじりと動く男を見つめた。
確かに里が燃やされた時分、小春は高経暗殺の任で里を離れていたのだ。
「それから、先ほど追尾してきた忍だが、家老のイヌというだけではなかったらしい。当初の目的は裏帳簿だったのだろうが、途中からまるで矛先が……」
「その通り。偶然にも俺の知り合いがいてね、俺の秘伝の書探しに協力してくれた。つまり奴らは裏帳簿と秘伝の書の両方を求めてあんたの城に侵入していたのさ」
「知り合いというだけでは協力するまい。カネで買収したか?」
蔵乃介はあり得ないと肩を竦めてみせた。
「俺に忍に根回しできる程のカネがあるわけないだろう。奴ら伊賀モノに別な指令が下ったのさ。奴等は暗殺の仕事を新たに請け負った。その情報を求めてきたのさ。ひとりの少女の…」
「この…っ、ゲス野朗っ!!」
蔵乃介が話終えるのを待たずに、激情にかられた高経が刀を手に斬りつけた。
洞内には、キン!! という耳障りな音が響き渡った。
「天津の殿様がなぜ怒る」
「貴様にはわかるまい! ずっと守ってきたのだ。人知れぬ山奥に里をかまえ、天津では関所の数を増やした……!」
足下が滑るのか、バランスを崩した蔵乃介の肩を高経の刃がかすめた。
蔵乃介は肩を庇うように背後へとトンボを切って距離をおく。
「くらえっ!!」
ボンッ! と蔵乃介の投じた閃光弾が破裂して、高経はその姿を見失った。
その隙に蔵乃介がクナイを手に背後へと回りこむ。
「高経、危ない!!」
仕留めたと思った蔵乃介は、目の前にクナイを重ねて立ち塞がった少女の姿に驚いた。
「小春、邪魔をするなっ」
「この人を殺すのですか! 私はあなたをお慕いしておりました。あなたは優秀な方です。秘伝の書を手に入れてどうするのです? 蔵乃介さまには必要ないでしょう!?」
蔵乃介とクナイを交えた小春は震えていた。
それは腕力で負けているというだけではなく、まだ蔵乃介が甲賀忍であるということが信じられなかったからだ。
共に音羽の里で過ごした日々はすべて偽りだったのか。
(小春に蔵乃介は殺せぬ)
小春の怯えを感じとった高経が、得物を手に二人の間に割り込んだ。
「そうか俺を好いているから殺せないのか。小春、だからお前は半人前で手裏剣術すら上達しない。俺はおまえの下手くそな訓練につき合わされてうんざりだったよ」
高経が怒りにまかせて刀を振りかざすと、蔵乃介が身体を離してクナイを八方へ投げる。
「どこを狙っている!」
「狙いどおりさ!」
あっさりとクナイをかわした高経だったが、突如、背後から水飛沫があがった。
「なにっ……!」
振り返ると咽喉元に吹き矢が突き刺さった状態で、小春が水中へと倒れこむ姿があった。
クナイを出鱈目に投じたように見えたが、真の狙いは小春だったのだ。
沈んでいく小春へと手を伸ばした高経に、更に無数の手裏剣が迫る。
刀で払いきれない手裏剣が胸にグサリと食い込んだ。高経は低く呻いて倒れこむ。
蔵乃介は這い上がろうとした高経の首に、容赦なく手刀を叩き込み押さえつけた。
「邪魔者は消えた。秘伝の書はもらうぞ」
馬乗りで高経の懐をまさぐっていた蔵乃介は、巻物を手にすると歓声をあげた。
「やっと…やっと…手に入れたぞ!!」
「貴様…っ! 小春は関係ないだろうが」
「何を言う。小春は賞金首だ。伊賀モノがなしえなかった暗殺に成功したから、それなりのカネが入る。それに秘伝の書があれば俺は新たに甲賀の里を起こし、頭領として君臨できる」
「貴様のような男のどこに小春は惚れたのだ。忌々しい……!」
一国の主が口惜しげにしているのを見て、蔵乃介は満足げに嘲笑した。
(賞金だと……ふざけるなっ!! 小春を助けねば……!!)
今度は高経が手裏剣を浴びたとは思えない力強さで、蔵乃介に足払いをかけた。
「うわっ」
勢いよく飛び起きた高経は、お返しとばかりに蔵乃介の胸に肘鉄をくらわせ転ばせる。その動きは忍以上に素早かった。
「小春……っ、今、助ける!!」
「逃がすか!」
蔵乃介が渾身の力をこめてクナイを放ったのと、高経が飛沫をあげ湖へと飛び込んだのは同時だった。