巻の七 逃走
小春は再び天津の天守閣へと侵入した。
以前、高経が城の外へと逃がしてくれた抜け道から逆に侵入したのだ。
(バカな男……。自分で自分のクビを絞めるなんてね)
音羽という故郷を、家族と呼べる仲間を失った少女には、蔵乃介しか残されてはいなかった。小春の生きる術は高経への憎悪だけだ。
今宵もまた高経はひとり天守閣にいた。
「……小春か?」
突然、名を呼ばれて思わず後退った。
身を起こした高経が蝋燭に火を灯すと、炎が煌々と二人を照らし出した。
高経は寝間着ではなく、髪を結い上げた袴姿をしていた。待ち伏せされていたのだ。
「そう……起きていたのね」
「そなたが来るような気がした」
背の忍刀を鞘から抜いた小春を前にしても、高経はどうじなかった。
「やはり──私を殺すか?」
暗殺者を前にしても落ち着き払っている高経に、小春の感情が爆発した。
「殺すかですって!? あなたは……! 私から大切なものを奪ったのよっ!? 卑怯だわ……里を襲うなんて卑怯すぎるっ、狙うなら直接私を狙いなさいよ!!」
「何を言っているのだ、狙うとは……」
「とぼけないで! 私が暗殺にきた報復に、音羽の里を襲わせたくせに!」
瞳にあふれんばかりの涙をためている少女に、高経は初めて動揺したらしい。
「私は里を襲ってなどいない。音羽の里を襲ったものが何者なのかは……今は言えぬ。だが、先刻、城内に忍びこんだクセ者と関わりがあるのかもしれない」
「口ではなんとでも言えるわ!」
「私が小春を狙うことなど絶対にありえない。そなたになら──殺されてもよい」
小春は最後まで聞かず、得物を手に高経の胸元へと踏み込んだ。
だが、高経の顔を見たとたん、刀を咽喉元に突きつけたまま凍りついてしまう。
彼は逃げようとしなかった──本当に殺されるつもりだったのか。
見つめあう二人をよそに、突如、城内が騒がしくなった。
ここは最上階の天守閣。侵入者だろうか。続けて怒鳴り声、罵声、悲鳴にまじって、刃物を交える音までもが聞こえてきた。
「騒がしいな……」
高経の呟きを聞きながら、小春もまた脳裏に蔵乃介の援護という言葉がよぎったが、忍術に長けた者が、これほど派手なたち回りを演じるとは思えなかった。
「帳簿を渡していただけますかな」
背後からの声に振りかえる。
いつの間にか二人の前に、家老・山中丹後守とその従者がひとり佇んでいた。
「山中……やはり貴様か。帳簿があろうとなかろうと、私が不正を許すと思うか」
「ほう〜。帳簿を回収すれば証拠は残らないとお見受けしますが」
「ヒトは悪い事をすると証拠を残してしまうものらしいな」
ぽかんとした小春の前では、捕り物帳が開幕したらしい。
「私を侮るな。取引先も含めて証拠はすべてつかんでおる。観念しろ」
「なれば口を封じるまでよ、和泉!」
「はっ」
家老に命じらせて、和泉と呼ばれた侍が主君に牙をむく。
「高経さま!」
頭上から左京の声がしたかと思えば、和泉は床に倒れこみ、手裏剣で身体を固定されてしまった。
また天井かいっ! と小春は心中で叫ぶ。
うまく急所を避けた左京の手裏剣は、不思議なことに音羽忍のものにそっくりだった。
「うぬぅぅぅ、人質じゃ!」
今度は家老が切っ先を小春へと向けた。
それに気づいた高経が左京より先に動く。
刀で家老の切っ先を軽くかわし、すばやく一閃させたかと思えば、家老の手首ごと斬り落としていた。
「ぎゃあぁぁっ!!」
「命まではとらぬ。裁きをまて」
あたりに鮮血が飛び散っても、小春は悲鳴をあげることすら出来なかった。
「この騒がしさはなんだ。いよいよ家老の手下がのりこんできたか?」
「小春様を連れてお逃げください。忍が複数名こちらを目指しております。彼らの狙いはもはや帳簿ではないようです」
「《秘伝の書》などくれてやればよい」
「事はもっと重大です。最も恐れていたこと。狙いは……」
二人はそこで背後で縮こまっていた小春を見つめた。
「おいで」
嫣然と微笑む高経の声はなぜか耳に快く響いた。
小春は高経暗殺の任をいつしか忘れていた。
左京を先頭に、抜け道である地下道を三人は走った。
「帳簿とか、不正とかって……」
「家老は公金を横領していた。河川の工事をしていると申したであろう? その公金を使い込み、発覚を恐れて今度は他の公金にまで手をだす始末……」
「も、もしかして他の公金って、畳とか天井とかに使う為のお金? あっ、それからコイの餌代もでしょ?」
高経は迷惑千万という顔をして頷いた。
ようやく貧乏の謎がとけた小春である。
「天津高経!! 秘伝の書を渡せ」
あと少しで城門というところで、再び仮面忍に出くわした。
「蔵乃介さま……?」
覚えのある声だと尋ねた小春だが、仮面忍からの返答はない。
高経が不愉快だと眉間にシワをよせる。
左京が緊張した面持ちでクナイを構えた。
「ここは私におまかせください」
左京と仮面忍を残し、中庭の方へと抜け出した二人のもとへ、疾風のように新たなる刺客が迫ってきた。
二人は馬を操り城外へと駆け出した。
「家老の刺客は帳簿だけじゃなくて秘伝の書も狙っているの?」
「いや、今は目的が変わったらしい。おそらく奴らの狙いは──そなただ、小春」
「へ……? なんで私!?」
小春は馬上にもかかわらず間抜けな声を発した。
背後から複数の忍が執拗においかけてくる。
二人の前方に鬱蒼とした森が見えてきた。高経は森の中へ逃げ込むつもりらしい。
小春は背後からキナ臭い香りが漂ってくることに気づく。
「高経!!」
「なっ……」
小春が馬を捨て、並走する高経の身体を奪い取り茂みに落ちると、すぐ後方で炸裂音が響き渡った。
「小春は積極的だのぅ、馬上で抱きついてくるとは油断した」
高経はこの緊迫した事態に、かなり的外れなコトを呑気に言う。
地面に転げ落ちた際、足に傷を受け小春は顔をしかめていた。
「どうした、大丈夫か」
「このくらい平気」
高経は懐から一枚のハギレを取り出して小春の傷口に巻いた。それは以前、彼を手当てしたハギレ。城をでる際に持ってきたらしい。
辺りには煙幕のように煙がたちこめている。
気配を消しているつもりだろうが、同業者の小春にはわかってしまう。
「私におぶされ、急ぐのだ」
「でも……」
「忍でなくとも殺気ぐらい感じ取れる、さぁ早く」
高経は小春を背負い、森の中を駆け抜けた。
どうやら勝手知りたる森らしく、なにか目標でもあるように進んでいく。
高経の背は思いのほか広くて温かい。
(そういえば……幼い頃、こんな風に誰かに背負われたことがあった……あれは誰だった?)
逃げきれたかと思いきや、いつの間にか周囲を囲まれていた。
高経は小春を樹木の陰におろすと、刀を手に歩みだす。
「お前達の目的、帳簿だけではあるまい」
仮面忍は二十人を超え、その数はもはや尋常ではない。
木の上から気配を殺している者や鎖のついた鎌を構えている者もいた。
「……親というものは子の為ならば、鬼にもなれるというのか」
「さすがは天津の御当主……他国の内情であっても詳しいとみえる。一人子のあなた様には鬼に思われましょうが……。どちらにせよ、そちらの女忍、渡していただきましょう!」
高経は雨霰と投げられる手裏剣を刀で薙ぎ払うと、すばやく踏み出して相手の懐に跳びこみ袈裟斬りに一刀した。
断末魔の悲鳴と共に紅の雨が降る。
返り血を浴び、うっすらと笑みを浮かべている高経に、仮面忍達は驚愕したようだ。
小春もまた一国の主とはいえ、忍相手に鮮やかな剣捌きを見せたことに衝撃を受けていた。
(実は立派な殿様とか? で、でも単なる剣術バカかもしれないし……)
小春の高経に対する評価は、あくまでも厳しかった。
車手裏剣を忍ばせた小春の近くで、霧を生み出す忍術を唱える声がした。
慌てて手裏剣を投げつけるが狙いは外れてしまう。
「高経っ、忍術よ! 木に背をあずけて、背後をとられないようにして!!」
「忍法、霧隠れの術!」
やがて森の中に霧がたちこめてしまい、視界がきかなくなった。
「まずいな……そなただけでも逃げられないか」
「私だけ逃げるなんてイヤっ」
二人は杉の大木を頼りに身をよせあっていた。
小春は忍術がうまく使えない。だが、このままでは八つ裂きにされてしまうだろう。
(小春だけでも逃がさねば……亡き父上にも頭領にも面子がたたぬ)
なんとかして状況を見定めようと、高経が踏み出した時だった。
「忍法、疾風嵐!」
静寂の中に若菜の凛とした声が響き渡った。
突然、突風が吹いたかと思うと、あたりをおおっていた霧が一瞬にして消しとんだ。
仮面忍たちよりはるか頭上の木々に仲間たちの姿があった。
「若菜姉さんっ、忠弥さまっ、みんな! 無事だったのね」
音羽忍の面々は、ふたりの無事を確認して喜色満面だ。
「あんた方は朱里に仕える伊賀モノとは違うな……どこの伊賀モノだ? 誰に雇われた?」
忠弥が仮面忍に尋ねても、彼らは返答しなかった。
その隙に若菜が小春たちのところへ降りてきた。
「若菜姉さん、あの人たちは何者? わからないよ、どうして私が狙われるの」
「落ち着きな。詳しいことは後だ。ここはあたしらが引き受ける。高経さま、緊急事態なので……ご無礼をお許しください。小春を頼みます」
「わかっている」
高経は小春の腕を掴み、無言で歩き出した。
「私だけ逃げるなんてイヤ! はなして!」
「斬斬舞!」
背後で忠弥の忍術が繰り出された。カマイタチのように風が刃となって切り刻む術だ。
それを合図に双方一斉に躍りかかる。
敵陣が乱れたことに乗じて、高経と小春は一気に突破した。
(小春を安全なところに隠さねばならぬ……なんとしてでも守りぬく!!)
小春は傷ついた足を引き摺りながらも懸命に高経について走った。
森のはずれまでくると目の前に巨大な御神木があらわれた。
その幹には人が入れる大きさの穴が開いており、高経は中を覗き込んでからニヤリと笑った。
「行くぞ」
「行くってどこに?」と尋ねる前に、高経は小春の身体を抱くようにして御神木の中へと飛び込んだ。
「ひえぇえぇぇぇっ、バカたかつねぇぇぇぇー!!」
神木の中は空洞になっており、二人はひたすら滑り落ちていく。
怖くて怖くて小春はしがみついたまま、ひたすら悪態をついていた。