巻の六 再び、小春見参!!
町外れの寂びた邸──天津国主が使用する別邸である。深夜、寝静まった邸内の床下を小春は這いつくばっていた。
昼間の茶会には参加しなかった。
平屋建ての邸は、構造からすると床下から侵入した方が安全だ。前回の天井からの落下が良い教訓となっている。
頭の中で主の寝室をさぐりだす間も、クモの巣がまとわりついた。
(いやっ、大キライ――っ)
床に頭をぶつけたり、背中の忍刀が床に引っかかったりして変な音をたててしまう。
ひたすら前進を続けて、ようやく寝室の真下へと辿り着いた。
(それにしても、高経はどうして殺されるのかしら?)
下忍である小春は依頼主からの詳しい話を聞かせてもらえない。そもそも頭領以外の者は、依頼主について詮索してはいけなかった。
静まりかえった邸内、月の光だけが差し込む寝室で、高経は小刻みに肩を震わせる。
床下からは何かが這いつくばる気配。
硬いものが床に突っかかり擦れる音や、時折、小さな悲鳴が聞こえて騒がしい。
寝たふりをしていた高経はたまらず腹を抱えた。
小春はそっと床の間の板をはずして室へとあがった。
布団の上に男が眠っている──高経だ。
静かに寝息をたてている男を見ても、なぜか殺意が湧いてこない。
(なにをためらう必要があるの)
彼の屈託のない笑顔が頭をよぎる。それでも気配を殺してそっと近づく。クナイを握り締める掌に力が入る。息がつまり、背に冷や汗が伝った。
(それでも殺すしかない)
決意して布団の上に跳びのった瞬間。
畳がグニャリと折れ曲がり、床板が抜け落ちて二人は布団ごと落下した。
「ひええぇぇ〜」
「うおっ」
小春は高経に抱きつくような格好で固まっていた。
「小春……。せっかく饅頭を用意したのになぜ茶会にこなかったのだ。昼間こないかと思えば……なにも夜にこなくてもよいではないか。昼間の方が、そなたの可愛い顔がよくわかるのに……」
(高経って命を狙われている自覚がない? ほんとに天然だわ……こんなんでこの先、生きていけるのかしら?)
唇を尖らせ拗ねた様子の高経に、小春は真っ赤になって反論した。
「それよりなんでっ? どうしたら畳が朽ち果てるの? 床が抜けるなんて信じられないっ」
「すまぬ。わけあって貧乏なのだ金がない。だから畳も反すことはあっても取り替えることができず……床は廃材を使うことでかろうじて体裁を整えているのだ」
「なっ…なんて貧乏なのっ! そういえばお堀のコイもやたらとガツガツしていたし! 確か去年は豊作だったでしょう!?」
高経は小春を抱き上げながら、しみじみと呟いた。
「私一人なら、床は抜けなんだが……」
「失礼ねっ!! 私が太っているとでも言いたいのっ」
「そなたは柿をたくさん食べるようだし……」
「こ、今年はまだそんなに食べてないもん」
二人はいそいそと穴から抜け出した。
「怒っているのか? さぞ怒った顔も可愛いだろうな。どうせならもっと色よく忍び込んで欲しいものだ。これではまるで暗殺者のようではないか」
「……」
「……そうなのか?」
「な、なんだと思っていたのよ」
「夜這い」
「夜這いなわけないでしょおーっ!」
(ああっっっ、信じられないバカ殿! なんか殺る気も失せるぅぅぅぅ)
ふと気づくと、なにやら表が騒がしい。
バリバリッ!! 突然、障子を破って仮面をつけた忍装束の男が転がり込んできた。
「貴様っ、私の邸を壊すな!!」
「突っ込むところはそこじゃないからっ!」
高経は小春を背後に庇うと、鞘からすばやく刀を抜いた。
「天津の国主、高経様に相違ござりませぬか」
「なに用か」
「帳簿を渡していただきたい」
「家老のイヌめ。否と言ったら?」
「……力ずくで頂くまでよ」
小春はクナイを握り締めたまま動くことが出来ずにいた。音羽以外の忍に遭遇したのは生まれて初めてだ。
「高経さまっ、ご無事ですか!!」
なぜか天井から左京が舞い降りて、仮面男が連投する手裏剣を刀で薙ぎ払った。
どうして天井!? と小春が突っ込む隙はまったくなかった。
不意打ちをくらった仮面忍は慌てて退却する。
「畜生……っ! 障子を貼り直すこっちの身になりやがれっ!!」
「障子は私が直しておきますから! 高経様は急ぎ城へお戻りください。国境でなにやら諍いがあったらしく、山が燃えております」
「やはり仕掛けてきたか」
国境、山と聞いて、小春は妙な胸騒ぎを覚えた。
「まさか……音羽の……」
「おいっ、待つのだ、小春!」
小春は高経らの制止を振り切って邸を飛び出した。
音羽の里までどのくらいの道のりがあっただろう。馬屋に繋がれていた馬を無断で拝借し忍装束のまま街道を駆け抜けた。関所を避け、山へと入っていく。
(みんな…みんな無事でいて!)
高経と左京以下、数名も小春のあとを追いかけていた。
「邸が襲われようとは……迂闊だった」
「申し訳ございません。邸の方ならば安全かと思ったものですから」
「だが、小春には気づかなかった。我々の思い過ごしかもしれぬ」
「ええ。音羽の里に直接仕掛けたのですから……目的は秘伝の書でしょう」
馬上からでもはっきりとわかる。山が燃えているのは単に紅葉のせいではなかった。高経の目にはいつしか懸念の色が浮かんでいた。
(小春……!!)
里へ到着した時、あたりはすでに火の海とかしていた。
大声で叫んでも誰一人として姿が見当たらない。
「若菜姉さーん、蔵乃介さまーっ」
悲鳴のような声は轟く炎にかき消され、ただ呆然とするしかなかった。
「里が……っ、みんな……!」
「小春、小春」
誰かが小春の名を呼んでいる。しかし、その声は徐々に聞こえなくなった。
追いついた高経が抱きとめたことも知らぬまま、小春は意識を手放した。
陽光の眩しさで小春は目を覚ました。
「よかった……。気がつかれましたか」
穏やかな声の主を見上げると医師の左京が座っていた。
見慣れた天井は小春の潜伏先『美都屋』のものだ。
「もう少し寝ていらしたほうが……」
起き上がろうとするのを、左京がやんわりと制止する。
「里は…音羽の里はどうなりましたか」
無言のままの左京は苦しげな表情を見せた。
昨晩の出来事を思い起こそうとする。おぼろげだった記憶が鮮明になってくるにつれ、小春の瞳から、とめどなく涙があふれた。
(音羽の里は燃えてしまった……みんなも……私の思い出も……)
「夕刻、また来ますので、今はゆっくりしていらしてください」
布団に顔をうずめるようにして嗚咽を漏らす少女を残し、左京はそっと退室した。
二階から通りを行き交う人々をぼんやりと眺めていた小春は、軒下に見慣れた姿を発見して驚いた──蔵乃介だ。
「蔵乃介さまっ」
裏通りにまわった小春は、嬉しさを隠しきれずに抱きついた。
「ご無事だったのですね、みんなは……」
「わからない。あの炎の中、生き延びた者がいるとは思えない。僕はたまたま別な任についていて里から離れていたから……」
蔵乃介の腕が、力強く抱きしめる。
「ごめんなさい。……私……任務に失敗したのに生き延びている……」
「命があれば、復讐できる」
耳元で囁かれて小春は固まった。
「どういうことです?」
「里を襲ったのは天津高経──ヤツは小春の任に気づいていた」
その瞬間、反射的に顔をあげると、沈痛な面持ちの蔵乃介を見つめた。
(高経が……音羽の里を襲った? 私が暗殺者として送り込まれたから?)
高経は天然のフリをしていただけかもしれない。小春は一度暗殺に失敗している。二度目の暗殺失敗と同時に里が襲われたのは明らかだ。
(許せない……私から……何もかも奪った男──!!)
小春の大きな瞳が憎悪と悲しみに歪んだ。
蔵乃介は小さな身体を抱きしめたまま、額に軽く口づけ囁いた。
「殺せ、小春。今度こそ………天津高経を殺せ」