巻の伍 いざ、極秘任務へ
翌日は朝から雨。
日中することがないので店の手伝いを申し出てはみたものの、大切な客人にそんなことはさせられないと、女将に断られてしまった。
小春が色茶屋『美都屋』に逗留してから初めての雷雨。それは今晩が決行日となることを示唆していた。
(殺すか──殺されるか…)
高経の顔を知らない小春にとって、左京のくれた情報は貴重なものだった。
天守閣──目指す場所はただひとつ。
国主・高経はひとりそこに眠る。
(失敗したら生きてはいられない。蔵乃介さまや若葉姉さんにも会えなくなる……)
静かに降り注ぐ雨と、時折轟く雷鳴。それはまるで、小春の平静心と攻撃的な感情が激しく葛藤しているかのようだった。
「ふんぬぅ〜、すっ、滑るうぅぅ」
城の石垣にへばりついているのは、柿染色の忍装束を身に纏った女忍だ。
深夜となって雷は過ぎたが、雨は相変わらず降り注いでいた。石垣に手甲鈎をひっかけてはみたものの、滑ってはずり落ちてしまう。
日中、観察した時の様子では、堀は色浅いから深くはないはずだ。だが、腕力のない女忍はものの見事に堀へと落ちた。冷たい水に思わず悲鳴をあげそうになったが必死にこらえる。すると、何かが腕や足に吸いついてきた。
(ひいいぃぃーっ、かんべんしてよぉぉぉ)
水蛍と呼んでいる水中照明を使って、確認できたのは群れをなすコイ。
腹をすかせているのか、やたらチュウチュウと吸いついてくる。
飢えているっ、明らかに飢えている!
胸元から左京にもらった金平糖の包みがこぼれ落ちると、彼らは容赦なく貪った。
(ヒドイ…っ、楽しみにとっておいたのにーっ)
再び石垣へ手をかけると、今度はクナイを石の隙間にさしこんで前進していく。
城内は室の灯りはほとんど消えていたが、廊下や庭園の燈篭には灯りがともっていた。小春はかぎ付きの縄を使って、さらに上の天守閣を目指した。
たどりついた小春は、すぐさま天井裏へと転がり込んだ。そこは雨漏りしているらしくかなりの湿りをおびていた。
暗闇の中、不意に誰かの視線を感じたのだが、息をころしても自分以外の気配はない。
(気のせいだったのかしら……?)
小春は天井板をはずして下を覗いた。
蝋燭に照らされた室内では、見台の前に男が一人座っていた──天津高経だ。 長い髪を下ろした寝間着姿の国主は書物に読みふけっているらしく、こちらに気づく様子はない。
今が絶好の機会だ。背中の忍刀に手をかけては躊躇する。しばらくそれを繰り返してから、刀ではなくクナイを握りなおした。
(今夜……はじめて人を殺すんだわ)
見台の前の男が、蝋燭の灯りが風をうけ揺らめいたことに気づく。
ほぼ真上から見下ろしている小春から、その表情はわからなかった。
(それにしても……こんなにたくさん盥が必要なわけ?)
室内のいたるところに置いてある大・小の盥に気をとられた小春の耳に、ミシミシと天井板が軋む嫌な音が響いた。
バキッ!
突然の鈍い音。次の瞬間、小春の小さな身体は天井ごと室内へと落下していた。
「きゃあぁぁぁ」
着地した気配に面を上げると、ちょうど男の膝の上に落ちたらしく、間近で目があってしまった。
「そなた……」
「うそ……っ!」
なんということだろう、もっと早くに気づくべきだった。小春の眼前には天然柿サムライこと左京がいた。
「左京が……高経?」
「……そうだよ。私が天津高経だ」
小春がクナイを構えるより早く、突然立ち上がった高経が、壁にかけてあった槍を天井へと突き刺す。
天井裏からは何かが立ち去る気配がした。
物音を聞きつけたのか、家臣たちが回廊を駆けてくる足音が聞こえる。
(失敗だ……!! もう死ぬしかない)
クナイを自らの咽喉元へと突きつけた小春を、慌てて高経が止めた。
「自害など許さぬ!」
「離してっ!」
「そなたには助けてもらった恩がある。おかげで傷も癒えた。これで貸し借りはなしだ」
「でも……」
力なく床にへたりこんだ身体を高経はそっと抱きしめた。
「可哀相に……こんなに冷えきっておる」
ふと小春は視線の先にある漆の盆に気づいた。その中に小春のハギレが置いてあった。血痕などはなく綺麗な状態だ。
(捨てなかったの? 安物なのに……)
「高経さま」
「入れ。他の者はさがらせろ」
襖が静かに開けられ男がひとり入ってきた。彼には見覚えがあった。家老から助けてくれた医師──左京だ。
「大きな音がしたかと思えば……とうとう天井が抜けましたか」
「朝から降り通しだからのぅ。それよりドブねずみが紛れ込んでいたぞ」
ドブねずみと聞いて、小春の身体がすくみあがった。確かにずぶ濡れで汚らしいかもしれない。
「おや、昨日お会いしましたね」
左京は微笑みながらこちらを見下ろす。
「ドブねずみとは失礼でしょう。むしろ子猫と言ったほうが……」
「バカ、小春のことではない。槍で突いたが手応えがなかった。すぐに捜しだせ。それから小春は子猫ではなく、小猿だからな」
主の命をうけ、左京は足音をたてることなく退出した。
「帰るのだ小春。あぁ、ただし屋根裏はダメだぞ、雨漏りがひどくてな。ふぅむ……。仕方がない私が送ろう」
どこに暗殺に向かい失敗したあげく、送ってもらう忍がいるのだろう──いや、ここにいた。
高経は小春の手をとり石造りの地下道を進んでいく。
手元の蝋燭が長い影を二つ作っていた。
「ここは城が落ちたときに使う逃げ道だ。一部の者しか知らぬ」
どうやら高経は抜け道を使って、外出していたらしい。そもそも小春と出会った時だって、家臣を一人も連れてはいなかった。偽名に左京を名乗っていたのは、殿様だと悟られないための自衛手段だったのだろう。大失態を演じたことに、小春はひたすら項垂れていた。
「小春───ぅ」
真っ昼間、遠くから大声で名前を呼ばれて小春は絶句した。色茶屋『美都屋』の店前で高経に呼び止められたからだ。
「そなた用事はすんだのか?」
「は?」
用事もなにも、昨日、天守閣に忍んで任務に失敗したのだ。一体、何をしにいったと思っているのだろう。
袴ではなく着流し姿の高経は、なぜか両脇に盥を二つ抱えている。
「昨日のなごりか雨漏りが酷くてのぅ。出入りの商人は高くふっかけるので、こうして直接買いにいくのだ。そうした方が節約できる」
「だからって、殿様が買いにこなくても……」
そう呟いてから小春はハッとした。
(まさか貧っ……)
声をあげそうになって、小春は慌てて口をふさいだ。
いやいや、一国の主がそんなはずはない。
着物だって品が良いし、金平糖だってくれた。でも柿を巡って熊と戦っていたし……天井は抜け落ちたし……雨漏りがしていて、大・小の盥が置いてあった。おまけに色茶屋にはツケもある。
うーんと唸る小春に、高経は口元を掌で隠すようにして小声で話しかけた。
「殿様とは呼ぶな。高経と呼んでくれ」
「高経と呼んだ時点で、バレるわよ」
「そうだ、これを渡しにきたのだ」
ひとの話を聞かずに差し出したのは、上質の和紙に書かれた手紙だった。
(フッ…。気のせいね。さすが殿様、いい紙使っているし)
「明日、城の者と茶会を開く。身内だけの茶会だからそなたもくるとよい」
盥を抱えた殿様を見送り、手紙を開いた。その手紙には茶会の日時・場所・参加者の名前・屋敷のことが詳細に書かれていた。
胸の奥で再び闘志が湧き上がる。これは絶好の機会だ。このままだと里へは帰れない。甘んじて死という制裁をうけるつもりは更々なかった。
(月が出ようと出るまいと、雨が降ろうと降るまいと、この際関係ないわっ、決行よ!)
小春はさっそく手紙に書いてある茶室へと下見にでかけた。
その様子を背後から立ち去ったはずの高経が見つめていた。
「ネズミは捕えたか」
「それが……」
いいよどんだ左京に、高経は瞳を細めた。
「逃がしたか、おまえらしくもない」
「追い込みましたが──自害いたしました」
高経の視線の先では、小春が饅頭屋の前で立ち止まり指を銜えていた。クスリと笑う高経の隣で、左京は首をひねる。
「昨晩のネズミは帳簿が目的でしょうか?」
「さぁな。帳簿だけとは限らぬ。目的が他にあるかもしれん」
「音羽に伝わる《秘伝の書》ですか? それだけならよろしいのですが……」
「帳簿が見つからない、秘伝の書が手に入らない、そろそろ痺れをきらす頃だな。奴らは動くぞ」
「はいはい、おまかせ下さい。あなたの臣下になってから、休まることがありませんよ」
ふぅ、と二人はため息をつく。
「許してくれ、小春。これから起こる事、そなたには……まこと酷かもしれぬ」
高経は小春が再び歩きだす姿を、いつまでも見送っていた。