巻の参 忍の道
早朝、里に近い杉林の中で稽古は開始された。
「そうじゃない、間合いをはかれといっている」
若干二十歳で中忍となった蔵乃介の指導は厳しかった。手裏剣の投げ方ひとつにもコツがあるらしく、一切の妥協は許されない。
「狙う場所は両眼だよ。眼をつぶせば次の一手が容易になる。どのように顔を隠そうと、眼だけは隠せない」
小春の前には杉の大木にかかげられた練習用の的がある。的は顔の大きさを考えて作られたものだ。
「はっ!」
渾身の一投は見事に的からはずれてしまう。
「声をだしたら居場所がバレてしまうよ、それに……」
蔵乃介はなにかを思い出したらしく、楽しそうに笑った。
「蔵乃介さま?」
「夏にはあそこにハチの巣があったよね、覚えているかい?」
(ええ、覚えていますとも)
小春にとって忘れたくても忘れられない忌まわしい出来事だった。
夏にもこの場所で稽古をつけてもらったことがあるのだが、杉の木には巨大なハチの巣が完備されていて、小春の放った手裏剣が見事、命中してしまったのだ。その後は大惨事となった。小春のみならず一緒に稽古をしていた仲間が全員刺されてしまい、大変だったのだから。
「さて、次は術の稽古としようか」
蔵乃介は沼へ歩み寄ると、片膝をついて水面に両手を軽く浸した。
「忍術の勝負は一瞬で決まるし、機会を逃しては命とりになるよ。沼の水をすべて凍らせるのは難しいことだが、表面だけなら僕でもできる。忍はありとあらゆることに対応しなければならない」
しばらくすると沼の表面に白く霜がおりはじめた。
「忍法、不動氷」
蔵乃介が手を離した時には、沼の表面は氷の膜でおおわれていた。
「次はおまえだ、こちらにきなさい」
先輩と同じように精神を集中させていく。
「忍法、氷雪花」
叫んでみたものの、その後はうんうんと唸っているだけで、いっこうに沼が凍る気配はなかった。忍の術は基本的なことは教えてもらえるが、人それぞれ向き不向きがある。忍術は自身で試行錯誤しながら作り上げていくものだから、体術と異なり他人と同じになるとは限らなかった。
「ダメか…。じゃあ、炎術を試してみよう」
今度はあらかじめ用意しておいた枯葉の山へと蔵乃介が近づいていく。
「自然の中に自らの気を溶け込ませ……すべてを無に等しくさせる……」
蔵乃介は枯葉の山に両手を重ねるようにして、精神を集中させた。
「赤雷炎!!」
次の瞬間、枯葉の山が灼熱の炎に包まれた。
蔵乃介はすべての術に精通しているが、炎術においては里一番を誇っている。小春もまた用意された枯葉の山に挑んだが、十分程してから少し燻っただけだった。
「うん? なんだこりゃ」
枯葉の山を消火した蔵乃介が、木の棒を使ってなにかを掻きだすと、隣にいた小春のお腹がきゅるるぅぅ〜と悲鳴をあげた。
「小春……おまえの仕業だね」
枯葉の中から、美味しそうな匂いを漂わせてサツマイモが転がってきた。
「蔵乃介さまの炎術なら、上手く焼けると思いました!」
腰をおろし、昼飯がわりのイモを嬉しそうにほおばる様子を蔵乃介は横目でとらえる。
「昨晩、頭領の所へは行ったのかい?」
「ふぁい、ひきまひふぁ」
モゴモゴと頬張ったままの応答に、蔵乃介は苦笑した。
「頭領から《秘伝の書》について聞いたことはあるかい?」
「ヒデンノショ? なんです、それ?」
意味すらわからないと小春は首をかしげた。
「気にするな。聞いてないなら……よい」
蔵乃介が物憂げな瞳をしていたことを小春は知るよしもなかった。
午後になると『からくり屋敷』を使っての白黒戦が行われた。からくり屋敷は稽古のために作られた巨大な屋敷だ。
屋敷の中で主(頭領が担当)を守護する組と、屋敷に侵入し主を捕える組の二組に分かれての稽古で、白の忍装束の白組は黒墨を、黒の忍装束の黒組は白粉をつけられた時点で失格、つまり殺害されたことになる。
武器はなにを使用してもよいが稽古なので殺してはならない。
小春は若菜と同じ白組だが、残念ながら蔵乃介とは敵組になってしまった。
「いいな、合言葉はしっかり覚えろ。敵を攪乱するため、二十分おきにかえるからな」
からくり屋敷の外では、忠哉の指揮のもと白組が陣取っていた。
忠哉は三十五になる中忍で頭領の片腕ともいわれ、実質的に里のモノを率いている。
「雪と富士、海と塩、梅と雨、星と月、覚えたか」
「あぁ、簡単で覚えやすいな」
三十人程の忍が互いの顔を見合わせ頷きあっている。
「では平四朗、富士といったら?」
「雪だろ」
「じゃあ小春、梅といったら?」
「塩です」
一瞬の静けさのあと、あたりは爆笑に包まれた。
「バカ小春!! 梅に塩じゃあ梅干しになっちゃうわよっ」
若菜に容赦なく叱られた。
「だって、梅と塩って」
「おいおい、しっかりしてくれよ。梅じゃなくて海だ。海と塩。それから梅ときたら雨だろう?」
林檎のように頬を紅潮させた小春以外、皆がひたすら笑っているので、遠くで打ち合わせをしていた蔵乃介率いる黒組が、何事かとこちらを窺っている。
(ううっ……恥ずかしいよぉ)
うつむき加減で視線だけあげると、蔵乃介と目が合ってしまった。
彼はクスリと悪戯っぽい笑みを浮かべてから、屋敷の中へと入っていった。
(こうなったら失敗は許されないっ、一番の手柄をたててやるぅぅぅ)
忠哉のたてた作戦は、先に突入する組と後から侵入し屠る組。時間差をつけて侵入するというものだった。
「突入組は力技で勝負するとしようか」
すぐ隣で忠哉が腕組みをしながら言った。
「私……幻術を使われたら対処できません」
「幻術を繰り出す隙をあたえなければいいのさ。我々、十五名が黒組の大半を屠れば、残りの奴らが主を捕まえてくれる。行くぞ」
「待ってください! あ、あのっ、煙幕をはるというのはどうでしょうか」
小春のまともな提案に、一瞬信じられないといった表情をした面々だが、すぐに忠哉は賛同の意をしめしてくれた。
「小春にしてはいい案だな。で、煙玉の準備は出来ているだろうな?」
「おまかせください」
胸をはった小春に、忠哉は満足げに頷いた。
突入組が屋敷の土間へと侵入する。それぞれがあらかじめ手裏剣や忍刀に白粉を仕込んだりしている中、小春は帯の隙間に舞扇にみせかけた目潰しを用意していた。中には白粉が仕込んである。
「扇なんて考えたわね、小春」
若菜に褒められて気をよくした少女は、お待たせしましたとばかりに煙玉を取り出した。
瞬間、若菜は驚愕の表情を浮かべた。
少し離れたところで白粉を敵組に塗りつけていた忠哉も、刀で立ち回っていた蔵乃介も驚いた。
(そっ、それは何だ!? 小春──っ!!)
デカイっ、デカすぎる!!
小春の掌にはあまるくらい巨大な塊。
にぎり飯よりはるかにデカいそれは、漬け物石ぐらいはあった。
「よせっ!!」
忠哉が叫んでも手遅れだった。小春は火をつけると気合いをこめ広間へと投げつけた。
瞬時に玉からモクモクとした黒煙が立ち上り、屋敷の中はたちまち煤だらけになってしまった。こうなると敵も味方もわからない。
「この野朗っ」
味方に斬りつけられて慌てる声がした。
「うわっ、オレだって」
「オレって誰だっ」
こうした時こそ合言葉だ。
「塩!!」
「ウメ!!」
「やっぱり黒組じゃねぇかっ」
「やべっ、間違えた! 誤解だぁぁぁ」
小春はというと、咳き込んでいた。煙がしみて目も満足に開けられない。
「危ない!」
その時、一本の吹き矢が頬をかすめた。小春を庇って、あたりを窺っているのは忠哉だ。
「無事か」
「すみません。私…火薬の量を間違えたみたいですぅ…」
「ったく。どうやったらあの大きさになるのか、訊きたいぜ」
忠哉は板壁に突き刺さった矢を見て、瞳を細めている。
「危なかったな。この視界で飛び道具を使うべきじゃないのに……」
これは稽古のはずだ。仮に瞳にでも当たっていれば間違いなく失明してしまう。小春は忠哉の腕の中で身震いする。
程なくして、後から突入した仲間が主を捕えることに成功した。
皆が咳き込み、涙目になりながら這い出してくる。どこに潜んでいたのか、ネズミやムカデまでもが屋敷の外へと逃げ出していた。
両組が全員揃った瞬間だった。突然、大音響とともに屋敷が炎をあげた。
「火薬を仕掛けたのか?」
「まさか、そこまでしませんよ」
それぞれの長である忠哉と蔵乃介が、互いの顔を曇らせている。
あまりの出来事に皆が呆然とする中、頭領の視線だけが小春を追っていた。