巻の弐 出会い
嬉嬉として里をとびだした小春は、着物がめくれるのも気にせず、杉の大木へと跳び移った。
忍は昼間訓練などに勤しみ、夜に仕事をうけおう。
昼間の服装は小袖という村娘の姿をしているし、忍刀や手裏剣などの武器は素性がばれると困るので携帯していない。
杉の枝から枝へと、小春は猿のように移動していった。さらに奥へと進み、やがて目当ての柿の群生地に到着した。
柿の木に跳びうつった時、どこからか唸り声のようなものが聞こえた。
唸り声は明らかに獣の声だが、それと別に人の声も聞こえた気がした。
こんな山奥なのになんだか騒がしい。妙に地面の枯れ葉の擦れ合う音が響くのだ。
(な…なに? あのあたりね)
小春は周囲を見渡し、見当をつけると木の上から様子を窺った。その瞬間、とんでもないものを発見してしまう。
(ありえないっ! こんなの絶対ありえない――っ)
落ち葉の敷布の上では、熊と人間の男が組み合って格闘していた。
正確にはお武家さんが熊に襲われている構図だ。
熊にのしかかられていた男が、転がって体勢をかえると熊を組み伏せる。
今度は熊が負けじと男を押し倒して、地面を転がりまわっている。
(信じられないっ、どうして逃げないの!)
小春は絶句しつつも男を観察した。狩り装束を着ているが、遠くに馬が一頭しかおらず従者らしきものはいない。どこに仕える武士なのだろう。それにしても帯刀しているのだから、戦ってもよいのではないだろうか。
(と…とにかく助けなくちゃ)
見下ろした視線の先に、落ち葉に紛れて無数の柿が転がっていた。
手近なもので間に合わせるしかないと、さっそく枝から柿をもぎとり、熊めがけて思いきり投げつける。一つ二つといわずに手当たり次第にもぎとって、必死になげつけていると、熊が頭上の小春に気づいたようだ。
「よし、こっちよこっち! これでもくらえっ!!」
さらに熊をひきつけようとして投げた渾身の一投は、よりによって男の顔面へとぶち当たる。
「ふげっっ!!」
「うきゃっ!? ごめんなさいっっ」
男はその場にぐったりと横たわってしまったが、熊はこちらへと近づいてくる。
小春は柿を投げつつ、森の奥へ奥へと誘っていった。
やがて熊は頭上の小春に手が届かないと悟ったらしく、大人しくその場を立ち去った。
木をつたい戻ってきた小春は、頭上から男の様子をそっと窺う。
「うーん……」
ふと、綾笠をはずした男が顔をあげたので小春は思わず身をのりだした。その拍子に草履がぬげてバランスを崩し、地面へと落下してしまった。
男は落下音に一瞬ビクリ、としたものの、小春に気づくと身を起こした。
「娘、ケガはないか」
近づいてきた男の顔を見て驚いた。
(……よく見るとイイ男だわ。蔵乃介さまと同じ年くらいかな)
涼しげな目元は意志の強さを感じさせ、整った鼻梁と薄い唇が男の凛々しさを際立たせている。
しばし見とれてしまったが、男が左腕から出血していることに気づいて更に驚いた。
「ってゆーか、あなたこそケガしているじゃないっ、血がでてる!!」
「はて?」
小春は慌てて秘伝の血止め薬をぬってやる。常日頃、生傷の絶えない少女は傷薬だけは肌身離さず持ち歩いていた。汗を拭う布は小さすぎて止血には適さなかったので、仕方なく買ったばかりのハギレを男の腕に巻きつけた。
「……すまぬ。助かった」
そう言った男の顔は口角がわずかに上がり、漆黒の瞳は優しげに細められていた。
「ど……どういたしまして。あのぉ、お武家様ですよね?」
「そうだが……」
小春は訊きたくて仕方がなかった疑問をぶつけてみた。
「でも、どうして熊と? 一体、何をしていたんです?」
「あやつが悪い。私の柿を横取りしようとしたのだ」
「はい?」
「なにも私の柿をとらなくてもよいではないか。しかも、背後から襲うとは卑怯な!」
(この人……柿をめぐって争っていたのね……)
子供のように頬を膨らませる男に、小春は呆気にとられた。
「ふつう柿の実すてて逃げるでしょう!」
小春は迷わずツッコみをいれる。
「やっとのことで採ったのだぞ! 柿はあのとおりたくさんなっているというのに、あやつは私のモノを……」
(信じられないっ!! この人なんかズレてるっ、絶対に!!)
あたりを見ると男の柿は無残にも割りつぶされていた。矢のささった柿もいくつか転がっている。おそらく矢で射落としたのだろう。
それにしても熊に対して刀を抜かない武士など、なんて臆病なのだろう。
とっさのことで気がまわらなかったのか、小春は首をかしげて尋ねた。
「どうして刀を使わなかったんです?」
「あやつは丸腰だった。丸腰のモノ相手に抜刀するのは卑怯であろう」
呆れて何も言えなくなってしまった。熊の爪や牙を立派な武器だと思わないのだろうか。
男は藍色の衣と上質な袴で身なりを整え、長くのばした髪を後頭部で結い上げていた。身分の高そうな品のある装いだ。
「今日は私が柿をとってあげます。これからは熊と戦っちゃだめですよ。それに、お供の人とか仲間を連れてきた方がいいと思う」
小春が柿の木の方へ歩いていくのを、男は呼びとめた。
「そなたには無理であろう、やはり私が……」
「毎年登っているし、あなたよりは上手よ」
「先ほど落ちてきたではないか」
ただの天然かと思ったが、意外にも鋭い指摘だった。
「いいからっ、ケガ人は黙っていてください!」
ピシャリと言ってから、柿の枝へ軽々と跳躍してみせた小春は、男が呆気にとられるのを見て得意顔になった。それから柿をもいで男の方へと放ってやる。
「しかし、身軽だのぅ……まるで猿だ。猿蟹合戦という昔話を思い出したぞ」
「どうせ猿ですよ、落ち着きなくて悪うございましたっ! 渋い柿があったら投げつけてやりたいわ」
小春の拗ねた様子が想いのほか可愛らしかったので、男は笑みを浮かべた。
打ち解けた二人は、身分を忘れ敬語も忘れた。
お互いにたくさんの柿を布に包んだ。男が上等な風呂敷をくれたのだ。
「こんなに上等な布……もったいないかも」
「よいのだ。柿を採ってくれた礼だ。これだけたくさん食べきれるかな。そなたが全部食べるのか?」
「まさか! これは里の……じゃなくて家族と食べるのよ。あなたはどうなの?」
「私に家族はない……」
呟いた男からはなんともいえない孤独が感じられた。
「ご、ごめんなさい」
小春は親の顔を知らない。捨てられていたのを音羽の頭領に拾われ里の者に育てられた。今は頭領はじめ、里の仲間が家族なのだと思っている。
気まずい沈黙を破るように、小春は明るい声をあげた。
「あんぽ柿にすると保存がきくのよ」
「干し柿のことか? 珍味ではないか、簡単に作れるものなのか」
「柿をつるして天日乾しにするのよ」
「なるほど……。あい、わかった」
男は布で包んだ柿を馬へと括りつける。いかにも大事そうにする仕種に小春はふき出しそうになった。
「そういえば……そなたの名を訊いていない」
「小春です。音羽の里の」
「小春……か、よい名だ。小猿の小春……覚えやすくてよいな」
「小猿じゃなくて、音羽の小春ですってば」
ぶうぶうと文句を言う小春に艶やかな笑みを残して、天然男は去って行った。
「ああっ、名前訊くの忘れたっ!」
天然で柿が好きなお武家さん…天然柿サムライ。小春の脳にはそう記憶された。
柿を手に帰村した小春は、その夜、頭領の屋敷を訪れていた。
「お館さま。小春が参りました」
「通せ」
案内の者がさがり、室は小春と頭領の二人きりになった。
静寂の中、囲炉裏にかけられた鉄瓶が湯気をたてる音だけが聞こえている。
「小春、こちらへ」
呼ばれるままに、頭領の傍へと近づいた。
音羽の頭領──藤七朗は五十近くになる里で唯一の上忍。捨てられていた小春を拾い育ててくれた人でもある。
「榊の件はご苦労。まぁ何事も経験だな」
「はぁ」
藤七朗の小春を見つめる眼差しは優しい。初めての任務が散々であったことは知っているはずだ。
「新たな任についてもらいたい」
一瞬にして頭領の顔になった藤七朗に、小春は身をひきしめた。
「これは極秘の任務なので、私とお前以外に知られてはいけないよ」
「はい。しかし…なぜ私に?」
小首を傾げた仕種はまだ幼さを感じさせた。
「余計な詮索はするな、黙って従えばよい」
「もっ…申し訳ございません」
藤七朗は、改まった顔で告げる。
「隣国、天津の領主・天津高経のクビをとれ」
可愛らしい瞳が驚きに大きく見開かれた。
「ここに天津城の見取り図がある。頭に叩きこんでいくがよい。一週間の準備期間を与える。天津の国に潜入次第、決行は雨の日を狙って行え」
忍のお勤めは夜に行われるのが常識だ。月のない夜や雨の降る夜が好まれる。
月の光がなければ発見される確率は低いし、雨音は物音や人の気配を消してくれるからだ。
「失敗は許されない──よいな」
「承知」
藤七朗の屋敷から戻った小春は、忍具の手入れをしながら考えこんでいた。
(私に…できるかしら)
明日は訓練のひとつである白黒戦があるから、忍具の手抜きは許されない。
小春は眼くらましに使う『閃光玉』や『煙玉』などの火薬を調合していた。
次第に手元の煙玉が大きくなってきても、考え事はつきなかった。
明日は蔵乃介さまが稽古をつけてくれるというのに、心が沈んでゆく。
一週間で準備をして、人を殺しに行くのだ。
「小春ぅ、行灯がもったいない」
「はぁ〜い」
若菜の小言がくりかえされないうちに、さっさと床についた。
新米忍に与えられた二回目の任務は人を殺すこと。
失敗した者には死という制裁がまっている──それが忍びの掟だ。
小春は久々に眠れない夜をすごした。