序
目を開けると暗闇だった。地に足が着いているということは、空間ということはない。部屋だ。今俺は真っ暗な部屋の中に立っている。意識して踏みしめると、フローリングのような感触だった。
「どこだ、ここ」
痛いくらいの沈黙に思わず声を出した。響くでもなく、そのまま暗闇に吸い込まれる。もちろんそれに対する返事もない。
「俺、死んだ、のか?」
言葉にしてぞっとする。いやいやいや、そんなわけないだろ。ほら、体とか動くし、声も出る、呼吸もできる。それになにより、内側から響く心臓の音が一番の証拠じゃないか。
―――じゃあ、ここは? さっきのは?
夢? 講義中に寝てたとか? それにしては現実感がありすぎだ。バイトに行こうとしたのは確かだし。もしかして、あっちが現実でこっちは夢か? それならば納得できる。きっと意識不明の重体にでもなっていて、病院かどこかにいるんだろう。こういうのドラマとかアニメとかで見たことある。まさかそれを体験するとは思わなかったけども。……どうすればいいんだ、これ。
「起きる? でもどうやって……」
「残念ながらそれは不可能です」
独り言に返事が来た。高い、子どもの声だ。声のした方を見ると、いつの間にか暗闇の中に眩く光る何かがいた。その光は闇全体を照らすようにだんだん強くなり、俺は目を開けていられず咄嗟に瞑る。少しして恐る恐る目を開けると、暗闇だった空間が星空に変わっていた。
「は? ……はっ!?」
混乱の中辺りを見回すと、あの光が人の形になっていると気づいた。白い子どもだ。色素が無い髪は星の光を受け輝いているし、白魚のような肌はそれに負けない真白い衣装に包まれている。暗い闇の中でその存在は内側から発光しているみたいに思えた。唯一ある色といえば蜂蜜のような金の瞳だけ。顔は美しすぎるほどに整っていて、年齢も性別も判断がつかない。(たぶん、恐らく自分より下の)それが人間じゃないことはすぐに分かった。それの頭の上に輪っかが浮いている。それの背中に4枚の翼がある。それだけで自分とは違う存在だと認識する。人ではないなにか。得体が知れないのに恐怖を感じないのは、その見るからに天使な容姿と穏やかな微笑みが原因かもしれない。真綿に包まれているような錯覚に陥る。天使は緩やかに口を開く。
「海原蒼海原蒼さん、ですね」
天使が問いかける。断定的な口調だった。確認として聞いただけで俺の答えは特に求めてはいない、とでも言いたげだった。いつの間に出したのか、片手に本を持ち、パラパラと捲っている。捲る、というよりも流すという方が合っているかもしれない。辞書ほどありそうな分厚いページを最後まで流し終えると、天使は口を開いた。
「信号無視したトラックに轢かれ即死、ですね。路上での歩きスマホはいけませんが、数秒の出来事だったので今回は不問とします。10:0で向こうの過失。保険金も支払われています。葬式やその他もろもろは、ご家族と高校、大学の友人の数名ほどで恙なく終わっていますのでご安心を。貴方の人間関係と照らし合わせても妥当でしょう」
意味が分からなかった。そくし? そうしき? 終わっている? 待ってくれ、それは、いったい。
「そして、もう一つ。貴方は神の思し召しにより転生者に選ばれました。これから向かう世界で第二の生を全うした後、貴方が死後、天国に行くか地獄に行くかを決めさせてもらいます」
狼狽える俺を無視して淡々と言葉を紡ぐ。まだ先の意味も受け入れてないのに、そんなに畳み掛けられても困る。天使だと思っていたけど違うのか? 宇宙人か?
質問はありますかだ? あるに決まってんだろ。
「まず、俺は生きてる。心臓も動いてる。なのに死んだってどういうことだ」
「先ほど貴方はこう思いましたよね。あっちが現実でこっちは夢か、と。半分正解です。正確には、あっちも現実でこっちも現実なんです。貴方がいた横断報道で貴方の肉体は確実に死にました。こちらの貴方は魂だけの状態です。心臓は、ただ単に動くものと思い込んでいるだけですね」
試しに自分の心臓は止まったと思い込んでください。すぐ止まります。
それは笑顔で言い切った。震える手で左の脈を図ってみた。汗が出る。呼吸が荒くなった。もう内側の心臓は聞こえなくなってしまった。
死んだ、死んでいる。なら、さっき言われたことも事実なのかもしれない。生きているのに死んでいる。
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