なお残る問題
後始末としての最終章。
話数は少ないですが、一話の長さが少し長めになりそうです。
妊娠のついての話があります。
敏感な方はご注意下さい。
「……実ったわね」
ノルトの塩害を受けた畑を見て、アドリアーナは呟く。目の前に広がるのは、いつかズートレヒテンで見たような青い稲。
「ええ。今年は納税の分だけでなく、領民の分もライ麦を賄えそうです。これで冬越えも楽になるでしょう」
いつもよりも数段穏やかな表情でキルケは頷いた。数年前の凶行をみすみす見逃してしまったことに強く責任を感じていた彼も、こうして畑の復活の様子が見られて、少しは肩の荷が下りたことだろう。
ライ麦だけではない。ブラックベリーも甜菜も好調なのだそうだ。
ブラックベリーは着々と収穫数が増えており、昨年は少数だがコンフィチューレを作るに至った。シャハナー経由で売りさばいて、越冬の資金の足しにしたそうだ。因みに砂糖は、いつか甜菜糖ができたときに城に納めるのを条件に、アドリアーナが輸入品を提供した。
甜菜のほうは昨年砂糖作りを試して上手くいったので、今年から本格的に増産体制に移行するらしい。専用の畑作りや砂糖製造設備の設置などを整える必要があるから大忙しだ、とキルケは言う。
こうも嬉しそうにしてくれるとは、ウルリヒに払わせた賠償金を注ぎ込んだ甲斐があったというものだ。
「これでようやく、このノルトが自らの力で生き残る術が見えてきました」
「それは良かったわ。本当はもっといろいろな野菜もできると良いのだけれど……」
農業の経験も少なく、甜菜と果物で手一杯だったこの領では、さすがにそういくつも作物を試すことはできなかった。だからこの領には野菜の類いは相変わらずほとんどないのだ。
「それは、これから検討していくことにいたします。妃殿下も、またいろいろなさっているのでしょう?」
「ええ。国内の食流通に、食料保存技術の研究、それから備蓄食糧の計画などをね」
食料の供給の安定性が見通せるようになったら、次はどれだけその食料を国中に行き渡らせるかが課題になってくる。その対策の検討を、今アドリアーナの主導でやっていた。
「やることはたくさんあるわ」
嫁いできて今年で七年目。ようやくアドリアーナの扱い方を心得たブルクハルトは、こうして兼ねてより進めてきた食料問題に関する仕事を任せてくれていた。おかげで、次から次へとやりたいことが見つかるアドリアーナは、充実した日々を送っている。
アドリアーナ自身はとてもこの生活に満足していた。
しかし、周囲はそうではないようで、このキルケもまた他の皆と同じように、アドリアーナに対しての不安を口にする。
「ですが……その、御子は如何されるのでしょう?」
「……そうね。そちらの問題があるわね」
最近周囲からひっきりなしに訊かれる台詞に、アドリアーナは憂鬱そうにため息を吐いた。
※※※
あのノルトの塩害騒ぎから三年。その間、天災、人災が及ぶことなく、ザルツゼー各地での農作物の収穫率は向上していった。古くより育てられていたじゃがいもやライ麦は輪作の効果により収穫量は改善。他にも、ほうれん草やクレソンをはじめ、りんごやブドウなどの果樹も含めて新しい作物を栽培し、この一年は成功していた。
その一方で、キルケも懸念している通り、この国には未だ後継者はいなかった。寝台共にしていない王妃アドリアーナは言うに及ばず。側妃コリンナにも、未だ懐妊の兆しはなかった。
父が起こした事件に巻き込まれた形で南方の城で幽閉となったコリンナは、アドリアーナの宣言通り、その年の年越しの宴で恩赦を受け解放された。そしてその際、王はコリンナに城へ戻ってくるように乞い願い、彼女はそれを受け入れ、側妃として戻ってきたのである。
やはり二人の愛が本物だと感じたアドリアーナは、コリンナが戻ってきた後も二人の間を邪魔立てするようなことはせず、エミーリアに指示していた避妊薬の投与もこれ以後行うことはしなかった。
二人の睦まじさから、子はすぐにできるだろうと思っていたのだが。
「コリンナ様、最近陛下とは睦まじくしていらっしゃいますの?」
コリンナの居室で行われた茶会で、アドリアーナは部屋の主に尋ねた。コリンナが戻ってきて以来、彼女との関係は良好で、今ではこうして頻繁にお茶を飲む仲だ。正直に言うと、王よりも仲が良いくらいだった。
「ええ。私たちは相変わらずですわ」
受け答えるコリンナ。以前のように自信に満ち、けれど寵愛を受けていたことから滲み出ていた傲慢さがなくなっていた。慎ましやかな様子が彼女の大人の魅力をますます引き立てていて、同性のアドリアーナも見とれるほどである。
「そうですか……」
ぽつりと応えて手元に視線を落とす。今日の菓子はチョコレートのスポンジにリキュールの入ったクリームを塗り、サクランボを載せたトルテ。アルコールが使われた菓子が用意されている辺り、本当に妊娠の兆しはないのだろう。
「私が妊娠しないのを憂いてくださっているのでしょうか」
こっそりため息を溢したのを気付かれてしまったのだろうか、年上らしい気遣いで尋ねたコリンナに申し訳なくなって、アドリアーナは謝罪した。
「大変失礼しました。女性にとっては繊細な問題ですのに……」
「いいえ、お気になさらないでください。というのも、私が今妊娠することは、まずないでしょうから」
ぴたり、と菓子に伸ばしたアドリアーナの手が止まる。
「私、実は最近、エミーリアさんからお薬をいただいているのです」
聞き慣れすぎた名前ととんでもない言葉に、背後を振り返る。エミーリアはすました顔で立っていた。何をしてくれているのだ、と叫びたくなるのをぐっとフォークを握って堪えた。
この流れなのだから、薬とは間違いなく避妊薬。言い方からしても体調不良というわけでもあるまい。どうしてエミーリアに薬を提供してもらうことになったのかという疑問はあるが、とにかくそれを自ら飲むとは、本当に、本当にどういうことだ。
「どうやら私、子供ができにくい体質のようです。このままでは、いつになるか分からない。もしかしたら、できないかもしれない」
あくまで平静にコリンナは言うが、アドリアーナは顔を歪めてしまいそうになるのを必死で堪えた。いつまで経っても子ができないというのは、子を産むことを求められる立場の女性にとっては本当に辛いことだろう。何も呵責を感じていないはずがない。
「なので、王妃様に陛下のお子を産んでいただけないかと思いまして」
「わ、私がですか!?」
がしゃん、と食器のぶつかり合う音がする。もうとうに諦めていた事柄が自身に降りかかってきて、アドリアーナは握っていたフォークを落としてしまうほどに驚いた。
「王妃様はまだ若くていらっしゃるのですもの。たくさんのお子を作って差し上げることができますでしょう?」
確かに、アドリアーナはコリンナの五歳下。単純に計算するなら、アドリアーナの方が子供をたくさん作れるだろう。実母も子供を三人産んでいるのだから、遺伝的にできにくいというわけでもないはずだ。
「でも、だからといってコリンナ様が妊娠を諦める必要は……!」
ブルクハルトは今年三十四。現役で働くのが四十五歳くらいまでのこの国で、その歳になっても後継者が一人もいないというのは、由々しき事態だ。仮にアドリアーナがブルクハルトと子を作ることになっても、コリンナが妊娠を諦める必要はない、いやむしろ諦めてはならないはずなのに。
「だって、そうでもしなければ王妃様は陛下のお子をお作りにならない。そうでしょう?」
ぐ、とアドリアーナは押し黙った。
「王妃様のご兄弟のこと、陛下からお聞きしました。王位継承の争いを危惧されて、私が子を産むならご自分は諦めようとなさっているのですよね?」
ケレーアレーゼでは、母が違う所為で、アドリアーナたち兄弟は本人たちが望まない争いの中心に放り込まれたのだ。そういう面倒事を回避するためには、母親の違う兄弟など作らない方がいい。
アドリアーナが身を引いたのは、それも一つの理由だった。
「でも、王妃様がお産みになったお子が長男であれば、そのような争いは回避できることでしょう。ですから、陛下と相談して決めましたの。少なくとも王妃様が後継者をお産みになるまで、私は子を産まないと」
「いや、でも、だからといって……!」
ここまで説得されてもなお、アドリアーナは躊躇いを覚えてしまう。
――だって、本当に今更だ。
これまでどれほど迫っても、義務だけの行為も拒絶されて。
それでも昔は、子を生すのが王族の義務なのだから、と自らを奮い立たせることもできた。自分の立場とプライドを守るための手段だったからだ。
だが今、その必要はなくなった。アドリアーナは自らの働きで、アドリアーナが望んだ通りの形で周囲に王妃として認めてもらうことができている。もうこれで満足なのだ。
なにより、お互いにコリンナに罪悪感を抱きながらブルクハルトと触れ合う、そんなうすら寒い光景をできるだけ回避したいという気持ちのほうが今は大きかった。
「コリンナ様は、本当にそれで良いのですか」
嫌だと言ってくれるのを期待しながら、念押しするようにアドリアーナは尋ねた。
コリンナは一度瞑目すると、冷めてしまったお茶を口に含み、穏やかな目をアドリアーナに向けた。
「どんなに激しく燃え上がった恋も、いずれ埋み火のように小さくなりますけれど、芯は確かに熱く燃えていて、穏やかな温もりとなるのです」
問いの答えなのだろうか。コリンナの意図が読めなくて、アドリアーナは訝しんだ。そんな彼女に、コリンナは淡く微笑んだ。
「私たちは、その温もりを貴女と共有したいと思っています」
ぽかん、とアドリアーナはコリンナを見つめた。つまりブルクハルトとコリンナのいる空間に、アドリアーナを受け入れたいということか。
これまでに聴いた話や読んできた物語から、女の恋は独占欲というのがアドリアーナの認識だ。愛のない結婚をしたアドリアーナにコリンナが突っ掛かってきたのも、その為だと思っていた。
しかし、それを覆そう、と彼女は言う。
きっとコリンナは諦めたのだ、とアドリアーナは推測した。自分に子供ができないから、側妃という立場をわきまえて、自分の感情でなく国を優先させたのだと。
長年ブルクハルトの寵愛のみを支えにしてきた彼女にとって、それはとても辛いことだろう。それをアドリアーナを受け入れることによって誤魔化そうとしているとしか、アドリアーナには思えなかった。
だが、その一方で故国にいた頃を思い出す。
仲の良かった父と実母と、それから継母。夜の談話室で一つのテーブルを三人で囲い、優しい表情で子供たちを見守っていた光景は、アドリアーナの中で今も鮮明に焼き付いている。
どちらの母も政略で父と婚姻している。だからできたことだとアドリアーナは思っていたのだが、もしあの日々をこの国で作り出すことができたなら……。
ぼう、と考え込んでしまったアドリアーナを見て、コリンナはやれやれとため息を吐いた。
「まったく、陛下も口下手でいらっしゃるわね。三年もあったのに何をやっているのかしら」
まあ、そこがお可愛らしくもあるのですけれど、とコリンナが呟く。
「ともかく、少しお考えになってみてくださいね?」
でも、私のことを思うのであれば、なるべく早めにご決断くださいね、と言われて、アドリアーナはますます途方に暮れた。