初雪は別れを呼んだ
粉雪がはらはらと舞う曇天の下、ザルツゼーの晩秋の園遊会は開始された。枯れ葉も散りきってはいないというのに外気はしんしんと冷え込んで、まるで水の中にいるようであったが、貴族といえどもさすが雪国育ち。皆平然と庭の中に立って、王の宣言を待っていた。
その中でただ一人寒さに慣れていないアドリアーナは、温かい毛織物のマントの中で密かに震えていた。王妃であるから、当然この中で一番豪奢な深緑のドレスと月白色のマントを身に纏っているわけだが、主な構成としては他の貴族の婦人令嬢とは変わらない。それなのに一人だけみっともなく寒さに凍え、頬を赤くしているのがなんだか情けなくなってしまう。
そもそも何故この時期にわざわざ外で交流会を行うのか。文句を言いたくなったことは何度もあるが、長年続いてきた慣習をあまりぶち壊してばかりいても仕方がないので、こればかりは粛々と受け入れている。
寒いが、着るものを着れば耐えられないほどではないのだし。
はあ、と溜め息が出る。隠しきれなかった白い息の向こう側に見えた側妃の姿が少し気になった。政治的には重要な立ち位置には居られないため、王や王妃であるアドリアーナよりも少し離れたところにいるコリンナ。相変わらず蠱惑的で自信に満ちた表情を浮かべている彼女は、この中でも一際目立つ衣装を身に着けていた。青紫のベロアのガウンの下、薄く重なった白地の上を走る銀色の細かな鎖のレース。繊細ながら硬質さを感じる模様は、近年東の国で流行っているものではなかったか。
ヴォイエンタールの最先端のドレスを娘のために探してくるなんて父親の溺愛ぶりも相当だ、とぼんやりと思っていると、隣に立つ王がぼそりと話しかけてきた。
「大丈夫か?」
どうやらぼうっとしていたのを、寒さの所為だと勘違いしたらしい。
「……ええ。どうぞお構い無く」
「すぐに終わらせよう」
気遣う言葉を怪訝に思って、アドリアーナは王を見た。しかし王は気付くことなく前へ一歩踏み出すと、朗々とした声で開会宣言を行った。
口の字状に中庭を囲った建物の壁に声が反射し、王の声が周囲に響き渡っていた。王の冷たい色彩と堂々とした姿はまさに冬の王さながらで、このときばかりは私情を捨てて、絵画を鑑賞するが如くアドリアーナも見とれていた。
そうして参加者同士の歓談がはじまり、一通りめぼしい相手との挨拶を終えた後、アドリアーナは城内へと引っ込んだ。
庭園で開かれる交流会だからこそ園遊会なのだが、さすがにこの季節ずっと外にいるのは無理がある。だから、温かな料理を冷まさないためという名目で、エントランスホールも会場として開かれていた。ここで過ごす人は半々といったところか。からだの冷えを気にする女性は中。活動的な男性は外。女主人であるアドリアーナは、そのどちらにも目を配らなければならない。
できればずっとエントランスに居たい、と思いながらお茶を含む。行き来しやすいように大扉は開放されたままだが、やはり外と中では風の有無が変わってくるので暖かさが違った。
飲み干したカップを給仕に渡し、ホール内を歩き回る。ダンスはないので、女性たちはいくつかのグループに分かれて、流行や噂話に興じる。男性は政治や趣味の話を語り合う。腹の探り合いなどなく故国に比べればずっと穏やかな社交場は、存外気分が良いものだった。
何人かに声を掛けて回り、そろそろ中庭にも出ようか、と思い立った頃。隣に誰かが立った。
「お久しぶりでございます」
振り返り、目に入った人物に、アドリアーナは感嘆の声を上げた。
「ドレスラー! 貴方、帰っていたの」
「はい。カリカンヌでの仕事が順調に進みまして。ラチエ殿がこの国で最後の年越しを迎えるように、と帰国を許可してくださいました」
穏やかな笑みを浮かべて語るドレスラーの言葉に引っ掛かるものがあった。
「最後の年越し」
「はい。実は、ラチエ殿のご令嬢と結婚することとなりました」
アドリアーナは目を見張った。たった半年出向している間に婚約の話が出てくるなんて。異国の官吏を迎え入れようとするとは、彼は現地でよっぽど気に入られたようだ。
なんでも、カリカンヌの外交官ラチエの邸宅に招待された際に、そのご令嬢と出会ったのだという。聡明で穏やかな気質のその娘と話が合い、交流しているうちに、婿に来ないかと言われた。ラチエには跡取りがいなかった。
はじめは異国出身だから、と断っていたドレスラーも、相手の令嬢と気心が知れていたというのもあって、粘り強いラチエの説得にとうとう折れた。婚姻を結んだ後は、ラチエの仕事を引き継ぐ一方で、今しばらくザルツゼーの駐在員として働くつもりなのだという。
婚約者のことをはにかみながら語るドレスラーを見て、アドリアーナは安堵した。
「おめでとう、ドレスラー。友人が遠くへ行ってしまうのは残念だけど、どうかお幸せにね」
「妃殿下こそ、貴女に幸運が訪れますように。いつかまたこの国を訪れたときは、妃殿下の料理を楽しみにしようと思います」
「ええ。任せて。出ていったことを後悔するくらいに美味しい料理をこの国に広めて見せるわ」
そうして王妃は忙しいでしょうから、とドレスラーは挨拶をして去っていく。その背をアドリアーナは微笑みながら見送った。
「よろしかったのですか?」
そっと背後から声を掛けられ、アドリアーナは目を大きくして振り返った。今日はオリヴァーはおらず、テオだけが傍に控えていた。
「テオまでそんなことを言うのね」
オリヴァーとは違って、普段無駄口を叩かない騎士である。その彼が業務に関係のないことを口にしたばかりか、アドリアーナの私事にまで触れてくるなんて、これまでに一度もなかったことだ。
「ご不快になられましたら、申し訳ございません」
生真面目な騎士は、神妙に謝罪した。それが妙におかしくてアドリアーナはくすりと笑う。
「良いわ。そう思わせたのは、私に隙があったからですもの」
主君と臣下の線引きを取り払って親しくしていたのは事実。そして性別が違うというだけで、関係性を邪推する者が出てくるのは想定の範囲内だ。
しかし目の前にいるのは、警戒すべき敵ではない。アドリアーナは率直に答えることにした。
「素直に言って、良かったと思うわ。どうか幸せになってもらいたい。だって、彼は一番はじめに私を理解してくれた人なのですもの」
でも、とアドリアーナはもう一度ドレスラーのいた方に目を向ける。彼の姿はもう人混みに紛れて見えなくなってしまった。
「やはり寂しくはあるわね……」
気兼ねなく話ができる、ただ一人の友だった。早々にボロを出してしまったので飾る必要もなく、話せば楽しい。異国に来たアドリアーナの孤独を埋めてくれた人。
もう、今までのように会うことはないのだ。
「何かございましたら、いつでも我らにお話しください。どのようなお話もお聴きいたします」
アドリアーナの寂しさを敏感に感じ取ったのか、テオが真摯にそう言ってくれるので、アドリアーナは嬉しくてつい声をあげて笑ってしまった。
「ありがとう。貴方をはじめとして、優秀で信頼できる臣下に恵まれて、私はとても幸せだわ」
晩秋の園遊会が終われば、次は年越しの準備に追われた。新しい年を迎えるめでたい夜に開かれる宴の準備は、これまで専門の部署がやっていたのだが、こちらもやってみないか、と王に提案されたのだ。することのなかったアドリアーナは当然引き受けた。
招待状の作成から進行、料理の手配、出席者の確認、国王陛下が述べる新年の挨拶の内容の確認、見回りの配置などなど、目まぐるしく準備に追われていたので、年末などあっという間に過ぎてしまった。気付いたら夜会の当日で、かといってパーティーの間中は問題が起きないように神経を尖らせていて、気を抜く暇すら有りはしない。そうしたまま年明けを迎え、未明にお開きとなってようやく、アドリアーナは解放された。
ドレスラーと最後の対面を迎えたのも、この宴の合間だった。儀礼的な挨拶でもってのお別れ。呆気なく寂しくはあったが、その一瞬たりとも責務を放棄できなかったアドリアーナだ、仕方のないことと諦め、その幸福をそっと祈った。
※※※
年が明けると、とたんにアドリアーナはすることがなくなった。社交シーズンだからといっても、王妃という立場の人間を気軽に招待する家は多くない。かといって、こちらもまた頻繁に茶会や夜会を開くのも躊躇われるので、結果時間を持て余すことになる。
食事の件は落ち着いていた。もはや料理人たちが勝手に試行錯誤を重ねていて、口を挟む余地など有りはしない。下町の方もイルメラとシャハナーがしてくれているので、アドリアーナの手を離れた。あとはもう、成り行きだ。
王から正式に任された農法の方も、当然冬の間にできることなどあるはずもない。せいぜい上手くいったときに、次に何を育てるかを考える程度である。
「退屈だわ……」
と自室で嘆くアドリアーナの前には、一つの菓子があった。パイ生地とナッツとバタークリームのケーキ。アドリアーナの知っているそれとは違い、こってりとして甘すぎるくらいだが、最近はこれが貴族の婦人令嬢の間で「懐かしい味」と人気らしい。
まあ、渋めのお茶と一緒に少量つまむ程度であれば、確かに美味しい。子供が喜びそうな味だ。
「相変わらずお転婆でいらっしゃいますね」
アドリアーナの配善をしていたエミーリアが冷めた声で言う。アドリアーナもそろそろ二十一。いい加減落ち着けと言いたいのだろうが。
「何かしていないと気が済まないのよ。でも、できることもなくなってしまったわ」
折を見て孤児院の訪問など奉仕活動なども行っていたのだが、冬は行動が制限されてしまうため、城下町に限られた。となれば行ける場所も少なく、そう頻繁には行えない。結局暇な時間ばかりが残った。
「春が恋しいわ……」