いつから天秤は傾いて
夕方になり、打ち合わせの報告を、と王の執務室に顔を出したアドリアーナは、珍妙な顔をしないよう無表情を貫くのに必死だった。
「礼を言う」
執務机の前に座ったブルクハルトは、疲れた表情で頭を下げた。そう、頭を下げたのだ。アドリアーナに向かって。まず我が目を疑い、次に夢を見ているのかと疑った。王の前でなければ、自分で頬を摘まんでいたかもしれない。
「……いえ、お手紙を書いただけですもの」
「だが、そなたが提案してくれたお陰で、解決の兆しが見えた」
これまであり得なかった言葉を次から次に贈られて、狐に抓まれた気分だった。喜ばしいことなのだろうが、二年近くいがみ合ってきただけに――あんまりな言い方だとは思うが、気味の悪ささえ感じていた。
身の置き所のない感じに苛まれ、早くこの部屋から立ち去ろうと挨拶しようとすると、
「農法の件だが」
ぴたり、とアドリアーナは動きを止めた。何を言われるのか予想がつかない。あの迂闊な農政官フェルカーが輪作の事を王に暴露したのは、とうに知っているが、まさか今更そのことに対して文句を言ってくるのだろうとも思えなかった。その機会はこれまでにいくらでもあったのだから。
――なら、「これ以上口を出すな」? そちらの方がしっくり来る。
「そなたに一任する」
「…………はあ」
答えは百八十度違っていた。気の抜けた声しか出ない。
「ただ、報告や連絡はもらいたい。私も成果は気になる」
「ええ、それは、もちろんです」
釈然としないのをどう言葉に表したものか、と考えているうちに、下がって良い、と王に言われ、従った。消化不良ぎみであるが、何を言えば良いのかわからない以上、いつまでも邪魔するわけにもいかない。
退室し、扉を閉めたところで、アドリアーナは終始一緒にいたエミーリアに目を向けた。
「どうしたのかしら、最近」
アドリアーナへの接し方が軟化した、なんてものではない。一変した。会話が喧嘩腰でなくなれば良いほうかと思っていたものが、その先を行って、仕事まで任された。これはもう、何かあったとしか思えない。
「さあ。メルキオッレ王太子殿下が何かおっしゃったのかもしれませんね」
確かに振り返ってみれば、その頃から王の様子がおかしかったような気がする。
となれば、二人で酒を飲んだときか。今にして思えば、交渉のとき兄は妙ににやにやしていた。下らないことでも考えているのでは、と思ったが、まさかこの事だったか。
「……調子が狂うわ」
いつも王に会うときは決闘に向かう心構えでいただけに、今回のように当たり障りのない態度を取られると肩透かしを食ってしまう。おそらくアドリアーナにとって良い変化なのだろうが、こうも急変されてしまうと戸惑いしかない。
果たして、こちらも態度を改めるべきなのか、それとも今まで通りに素っ気ない態度で良いのか、判断に困ってしまうアドリアーナであった。
※※※
城は、言うならば王の家であるのだが、ブルクハルトが帰る場所は、他でもないコリンナのところだ、と彼女自身は思っている。
実際、ブルクハルトは毎晩コリンナの寝所にやってくる。夜間の営みの有無に関わらず、だ。朝夕の食事も普段は共にしている。その普通の夫婦と変わらない習慣にコリンナは安らぎを覚えているし、ブルクハルトもそうだろう、と思っている。
しかし最近、ブルクハルトの様子が少々おかしい。なにやら物思いに耽っているようである。そして、コリンナと接するときも何処か上の空だった。長い付き合いだ、そんなことが全くなかったわけではないが、今回のそれはいつもと違うことを、コリンナは肌で感じ取っていた。
「どうかされたのですか?」
王妃と鉢合わせないよう部屋で取っている夕食で、ブルクハルトの手が止まりがちなのを見かねて、コリンナは声を掛けた。ブルクハルトはなんだか白昼夢でも見ているかのように、ぼんやりとした表情をしているのだ。
「王妃に」
ピクリ、とコリンナの片眉が動いたのだが、ブルクハルトはそれに気づかない。
「仕事を任せてきた」
ザワザワとコリンナの胸の奥がざわめいた。
「まあ……王妃様にお仕事を?」
「ケレーアレーゼでは、王妃や王女をはじめとして、女人が直接政治に関わることも多分にしてあるようだ。王妃もそのような環境で育ったから、あのようなことを言ってきたのだと今なら思う。ケレーアレーゼの王太子に、何か仕事を任せてみてはどうか、と言われて、そうしてみたのだ」
女が政治に関わる。身の回りの世話をする使用人以外の働く女性を城で見たことがないので、その国の慣習の違いにも驚いたが、今はそれ以上にブルクハルトが王妃を気にしているというのが、コリンナには気に掛かる。
「それで、どうなのです?」
「さあ……農業に関しては、すぐに結果が出るものではないから分からない。だが、もともとは王妃の提案であるらしいし、足を引っ張ることはないのではないかと思う」
もう、とても聴いていられなかった。
だって、ブルクハルトはコリンナだけを愛しているのだ。王妃は大国から押し付けられただけのお邪魔虫。王妃としての立場を尊重することはあれど、心を砕く必要なんてないはずなのに。
それなのに、あの王妃を認める発言をしている。
コリンナは恐ろしくなった。厨房の料理人、外交官、農政官、貴族たち。それに、ノルトの領主もだったか。みんなみんな、あの小娘の存在を受け入れ始めている。はじめはあんなに疎ましく思っていたというのに、ただ料理の味を変えたというだけで。
ブルクハルトが愛しているのは、王に愛されているのは、コリンナの方のはずなのに、どうして。
どうしてみんな、あの小娘を気に掛ける。
「ブルクハルト様」
カトラリーを放り出し、今すぐ抱き締めて、と飛び付きたくなったが、今は食事中だ。そんなはしたないことはできない。
ぐっとナイフを強く握って心を落ち着かせ、ぎこちなくも笑みを浮かべてみせる。
「……本日のヴルストは、如何でしょうか。父がズートレヒテン領から取り寄せてくださいましたの」
「ふぅん……そうだな」
少し塩辛いな、という言葉を聴いて、コリンナはナイフを握る手を震わせた。このヴルストは、毎年のように食べているもので、コリンナの舌ではいつもと変わらない味がする。
それを塩辛い、だなんて。
彼の味覚が、王妃の好みに染まりつつある、ということに他ならないのではないか。