輿入れの経緯と現状
王妃に与えられた部屋に戻ると、就寝の準備を整えてくれていたらしい、侍女長がアドリアーナを出迎えた。
「おかえりなさいませ」
三十代半ばと意外に若い侍女長パウラは、慇懃に頭を下げた後、ちらっとアドリアーナの背後に目を向けた。
「今宵、陛下は?」
「あら、分かりきったことを訊くのね」
「コリンナさまのところでございますか」
そうだろう、と満足げに頷くパウラに、アドリアーナは苦笑する。このお堅そうな侍女長は、丁寧に振る舞ってこそいるが、王妃を軽んじていることを隠そうともしない。あまりにあけすけで、失礼だ、と腹を立てることもなくなった。
コリンナとは、王の側室にあたる女性の名である。アドリアーナが嫁ぐ前から城にいて、現在もなお王の寵愛が厚かった。その所為か、このパウラは側妃の方を支持しているらしい。
やるべきことはきちんとやっているので、側妃を支持してようとどうでも良いが。
あとは自分たちでやるから、と侍女長を下がらせる。故国から連れてきた侍女に湯浴みの仕度をさせ、アドリアーナは窓の傍へと寄った。レモン色のカーテンに手を掛けて、そっと持ち上げる。
窓の向こうに、月明かりに照らされた神秘的な湖が広がっている。
ザルツゼーの都ザルツァンは、このザルツァン湖の湖畔にあった。山麓に位置するためか湖岸は狭く、街並みは山の斜面に及ぶ。城は一番高いところに位置し、街と湖を見下ろしていた。
湖は清く美しく、木造づくりの建物もまた芸術的で美しい。嫌なことが多い中、アドリアーナにとってはこの景色は数少ない“良い事”だった。
景色に慰められながら、アドリアーナは嫁いだばかりのことを振り返る。
※※※
ここまででお分かりのことと思うが、アドリアーナとブルクハルトは、政略結婚である。
ここ数年、故国ケレーアレーゼでは内部抗争が勃発していた。側妃を母に持つ第一王子と正妃を母に持つ第二王子、どちらを王位に据えるかで、貴族たちが揉めているのである。
多くの派閥が生まれ、互いに競い合い、騙し合っていた。
そんな国の内情を鑑みてだろう、アドリアーナの父であるケレーアレーゼ王は、二人の王女を国外に出すことにした。王女と婚姻した家は、国の中枢に関わることのできる権力を持つ。現在力のある家はより強大に、そうでない家は彼らに匹敵するだけの力を。そうなればケレーアレーゼのパワーバランスは崩れてしまう。これ以上の混乱を避けるための措置だった。
そうして検討に検討を重ね、アドリアーナが十六になったときに嫁ぎ先に決まったのがここ、ザルツゼーである。
ザルツゼーは百年ほど前に東の大国から独立した小国で、王女一人与えたところで、ケレーアレーゼに影響を及ぼせるだけの国力はなかった。何かあってもこちらからの圧力をかけやすい。これが決め手となった第一の理由。
第二の理由は、国王ブルクハルトはアドリアーナの十歳上で、婚姻には無理のない年齢差であったこと。
そしてここが一番肝心、第三の理由は、塩である。
ザルツゼーは、岩塩坑を抱えていた。寒冷地帯の厳しい気候で、数少ない国民の食糧も自力で賄えなかった小国は、塩の輸出で糊口をしのいでいた。それがこの国に実害も招いていることはさておいて、その産出量は国内経済を支えるほどであった。
一方で、あらゆる資源に恵まれていたケレーアレーゼは、塩の産出がなかった。岩塩坑はもちろんのこと、海に面してもいなかったためにそちらからも塩を入手することができない。貿易で何とか得ることはできていたのだが、確実な入手ルートは確保できていなかったのである。
まさに渡りに船。
そういうわけで、婚約が決まって一年後、アドリアーナはザルツゼーに嫁いできたわけなのだが、この国は大国の王女を歓迎しなかった。独立して年月が浅いと言うのもあるのだろう。大国の言いなりになるのは耐えられないようだった。しかし、ケレーアレーゼの方が国力が遥かに上回る事実は変えられず、結局仕方なしに迎え入れるしかなかった。それが不満となって現れたのだろう。
また、すでに国王に側妃がいた、というのも一つの理由だ。
だが、それはアドリアーナにとっては大したことではなかった。半ば強引に進めた縁談である。この程度の事は予想の範疇だった。
問題はそのあと。
この国はアドリアーナから、王妃としての尊厳を奪い取ったのである。
この国に嫁いできてから一月ほど過ぎたある日のことである。引っ越しの荷物の整理も終わり、城の構造を覚え、ザルツゼーの状勢やらしきたりやらを一通り学び終わって時間を持て余すようになったアドリアーナは、そろそろ王妃としての役割をこなそうと、王のもとを訪れた。歴代の王妃がどのような政務を行っていたのか、自分は何をすべきなのかを尋ねたのである。
しかし。
「王妃は何もせずとも良い」
「……はい?」
「そなたにしてもらうような政務は何もない。唯一、客人が訪れたときだけ顔を出してくれればそれで良い」
それはつまり、王妃としての立場は与えても、権限を与える気はない、ということであるらしい。
屈辱だった。故国でも王女として、様々な公務を行ってきたアドリアーナだ。王族である以上、国に奉仕するのは当然のことであり、それを誇りとしていた。
敵が多いのは構わない。そもそも政治はそういうものである。
寵愛を得られないのも構わない。恋愛をするために嫁いできたわけではないのだから。ただ、王との間にいずれ子は為さねばならないが。
しかし、王妃としての仕事は与えられず、城の奥に引っ込んでのうのうと過ごしていろ、というのは、とても受け入れがたい処遇だ。
かといって、ザルツゼーの内部事情がわからない以上、こちらから強引に入り込むこともできず。
現状に甘んじたまま、気が付けば一年の月日が流れていた。
その間も努力しなかったわけではない。唯一与えられた国賓の接待という役割は、精一杯務めようとしていたのだ。
それなのに、外交の場で口を出せば、余計なことを、と言われ。塩辛すぎて賓客に受けの悪い食事に関してフォローを行えば、この国の文化を馬鹿にする気か、と怒鳴られ。
その癖、アドリアーナが勧めた故国の料理は、雑草だ、と馬鹿にしてきて。
国王ブルクハルトとの関係性は、悪化の一途を辿っていた。彼は初夜以降アドリアーナの寝所を訪れることはなく、顔を会わせば口論に発展。
政略とはいえ、これが伴侶となると、辟易するというものである。
アドリアーナの我慢は、もう限界だった。
食事が不味いのも、仕事がないのも、寵妃がいるとはいえ一応伴侶にこうまで怒鳴られるのも、もう耐えることができない。
だから、一つくらいはアドリアーナの好きにさせてもらおうと決意する。
今回のプラミーユ大使の接待はいい機会だ。他でもないアドリアーナの手で大使夫妻に満足していただいて、アドリアーナの味覚の正しさを証明し、この国の食事を変えてやるのだ。
もう、塩辛いだけの食事は散々だった。
アドリアーナ、元ケレーアレーゼ第二王女。
一部界隈では、食にうるさい姫として有名だった。