棲めない湖に棲む魚
「お魚が欲しいわ」
秋も大分深まった頃。城の広い会議室を出て、自室へと向かっていたアドリアーナは、窓の外から湖を見下ろしてふと呟いた。ケレーアレーゼから呼んだ識者による勉強会の様子を見学した後のことである。
「お言葉ですが、つい一昨日メルキオッレ王太子殿下のお土産がなくなったばかりでございます」
背後からエミーリアが冷ややかに言った。
先日の訪問の折、兄が鱒の燻製をいくつか土産に持ってきてくれた。久し振りの魚に沸いたアドリアーナは、事あるごとに魚料理を出させていたので、あっという間になくなってしまったのだ。
「そうでなくってね、エミーリア。この国の料理に魚がないでしょう? どうしてかしらって思って」
ザルツゼーに、河川の類いはほとんどない。たまにメダカやサワガニが棲んでいるような小川はあるらしいが、山に降り注いだ雨水は大部分が地面の下に流れてしまう。地面を掘れば井戸はできるので水不足には悩まされていないが、食用となる川魚はいないのだ。因みに、農業は雨頼り。
しかし、ここにはなんといってもあの大きなザルツァン湖がある。あれほど大きければ魚も数多くいるだろうに、それを捕っている様子が見られないのが不思議だった。
この疑問には、一緒にいたキルケが答えをくれた。ノルトでそれなりに親しくしたこともあってか、ドレスラーがいなくなった今、機会があるとキルケと話すことが多くなっていた。
「あの湖は、普通の魚が棲めないほど塩分濃度が高いのです」
「そうなの? どうして」
海が近いわけではない、山の中の湖だというのに。
「……妃殿下は、ザルツァンの岩塩坑からどうやって塩を運び出すのかご存知ですか?」
「確か、坑内に流れている川を利用するのよね。小舟に岩塩を載せて……」
あ、と気付いた。
「そうです。その川は湖に繋がっています。そして、岩塩坑内を流れる川は、塩分をたくさん含んでいます」
そうやって、岩塩坑内を流れた川の水がそのまま溜まり込んでしまったことで塩分濃度が高くなり、普通の淡水魚が棲むのには適さない水質となってしまうわけだ。
ついでに言えば、ザルツァン湖には、流れ出る川が存在しない。もちろん川から入り続けているだけでは城下町はとっくに水没しているから、何処か地面から流出はしているのだろうが、それもまた湖の塩分濃度を上げる原因になっていると思われる。
「……なるほど。では、あの湖には何もいないのね。あんなに大きな湖がありながら、魚料理が一つもないのは、そういうわけなのね」
納得すると同時に、残念でもあった。肉は好きだが、魚も好きだ。アクアパッツァにカルパッチョ、単純にソテーやムニエルでも良い。兄の土産で久しく忘れていた魚介の味が恋しくなってしまったのだ。
しかし、この国では望めない。
「いえ、一種類だけですが、棲んでいます」
キルケが言ったので、アドリアーナは期待に顔を輝かせた。
「え?」
「ただ、魔物ですので、食用には不適かと……」
ノルトでのことを思いだしたらしく、キルケは一度言葉を切った。アドリアーナには、魔物を食した前科がある。
「いえ、試したらどうか分かりませんが、ノルトのときとは違い、相手は水中の生き物です。捕るにはリスクが大きいかと」
そして魔物はかなり大きいらしい。正確には長いと言うべきか。見た目は蛇のように身体の細長い魚で、だいたい人間の身長二人分の長さがあるという。その魔物がどんなに温厚でも、捕らえようとすれば大変なことになるのは必至だろう。
「船をひっくり返されたら困るものね。漁のように捕れる保証もないし。……諦めるわ」
と、話はそこで終わると思ったのだが。
「水魔の倒し方、ですか」
ある日、突然王に呼ばれたアドリアーナは、突然の頼み事の内容を繰り返し、それから頭を下げた。
「申し訳ございません。ケレーアレーゼの湖沼は、他地域と比べると小さく、魚は居ても魔物の類いはおりませんので……」
「そうか……」
目に見えて王は落胆する。
なんでもここ数週間の事、ザルツァン湖に棲む魔物が増え、悪戯でもしているのか岩塩を運び出す小舟が沈むという事態が続いているのだそうだ。幸い犠牲者はいないが、塩の出荷量は減少してしまい、国庫に影響が出始めている。
そこで、その魔物を討伐しようと考えたのだが、その前例がなかったため対処に困っていたらしい。だから異国出身のアドリアーナに尋ねてみたようだが、その当てが外れてしまったというところか。
「ですが、プラミーユでは、大きな銛を使うのだと聴いたことがあります。他にも、沿岸国のレアルータや、海や大きな湖を持つヴォイエンタールでも、水魔の狩りが行われていると聴いたことがありますわ」
しかし、そんな乏しい情報だけで討伐に乗り出すのは危険だろう。
「近隣諸国に伺ってみますか?」
「そうだな……あまり時間は掛けたくないが、他に手がない」
それほどまでに差し迫った状況であるらしい。国を支える収入源であるのだから、深刻になるのも当然か。
「この国に、魔物ハンターは滞在しておりませんの?」
以前にも少し話題に上ったが、この世の中にはハンターと呼ばれる者たちがいる。指す言葉は同じでも、野山で野性動物を狩る猟師とはまた違って、彼らは魔物だけを専門的に狩っていた。流れ者の集団だが、厄介な魔物を狩ってくれるとあって各国で受け入れられているのだが……そういえば、この国でハンターの噂は聞いたことがない。
「あまり、この国には来ないようだ」
王は苦々しくそう答える。ノルトでも、魔物は現地の猟師が対処していたくらいだから、本当に居ないか、国が把握できないくらい数が少ないのだろう。現地の猟師が対応できるような魔物しかいないというのもあるのかもしれない。
「では、同時に、故国に経験のあるハンターがいないか訊いてみましょうか。ケレーアレーゼであれば、来てもらうにはまだ近いですから」
「……頼む」
沈んだ声で神妙に王は頭を下げる様子を、少し奇妙に思った。らしくない。国の一大事に見栄に囚われるような人間だとまでは思っていないが、態度があまりに殊勝なので、すわりが悪い。
「……最近、どうかなさいましたか?」
「どうか、とは?」
「いえ、なんというか……普段に比べて覇気がないように思いまして」
アドリアーナへの接し方が軟化したというか、こちらの様子を窺いながら話している気がするというか。以前はこうした事柄を話すときは事務的に淡々と話していたというのに。
「……歯向かってこない、が正しいのではないのか?」
少し辛辣な台詞を吐かれて落ち着く辺り、アドリアーナも大概だ。
返事は適当に誤魔化しておいて、そもそもの話題に戻る。
「書簡は私が書きましょう。それでよろしいですか?」
「ああ、任せた」
やっぱり調子が狂うな、と思いながらアドリアーナは執務室を後にした。
地理的にあり得るのかなぁと思いますが、さらっと流していただけると助かります。