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その花は決して実らぬ

 約束の三週間も過ぎ、アドリアーナは名残惜しくも城へと帰還した。出る前は夏盛りに深緑に色濃かった景色も、晩夏を迎えてか心なしか落ち着いた色合いに変化して、秋の気配を感じさせた。

 山を越え、青く輝く懐かしい湖沿いを走り、城へと辿り着く。

 城門広場に停車した馬車を降りて見えた友人の姿に、アドリアーナは思わず声をあげて駆け寄った。


「ドレスラー!」

「お帰りなさいませ、妃殿下」


 たった三週間。それなのに彼の姿が懐かしくて仕方がなかった。丸眼鏡の向こうにある垂れ下がった碧い瞳。相変わらず気弱そうに見えるその表情。ノルトの地で不安なことなど何一つなかったはずなのに、彼の顔を見ると何故か安心してしまうのだから不思議だ。


「わざわざ出迎えに?」


 尋ねた声が上擦った。胸が高鳴っている。城に戻って真っ先にドレスラーに会えたのは、自分でも意外に思うほど嬉しいことだったらしい。思わず彼の手を取りたくなったのを、自分の手首を掴むことでぐっと堪えた。


「ええ。到着予定の時刻は聞いておりましたので」


 彼は柔和な笑みで答えると、ふと表情を曇らせた。


「実は、妃殿下と入れ違いに、カリカンヌへ赴くことになりました。それで、出向く前にお別れの挨拶をと思いまして」


 浮いていた心が着地した。がっかりしたが、ドレスラーは外交官だ。他国に行くことなど頻繁だろう。むしろこの一年何処にも行かなかったことのほうが珍しいのだ。


「いろいろ話したいことがあるのに、残念だわ。いつ帰るの?」

「半年後、になるかと」


 予想よりも長い期間に、アドリアーナの表情が一瞬だけ強張った。しかしすぐに気を取り直して、いつもの笑みを浮かべて見せる。


「そう……大変ね。カリカンヌというと、銅製品の技術提携についてかしら? 成功を祈っているわ」


 銅は、塩に次いでこの国の命を繋ぐ資源だ。これまでは銅鉱石を主に輸出していたが、ここ数ヶ月、加工品にも力を入れていくことを検討していた。その関係で、工業技術国であるカリカンヌへ視察に行くらしい。

 カリカンヌは、赴くまでに国二つを越えていかなければならないような遠方だ。馬で駆けても片道に二週間は要するので頻繁に行き来はできない。半年の滞在も無理からぬ事だ。


 寂しさを頭の隅に追いやり、アドリアーナは背後を示した。そこには、ノルトから連れてきたキルケがいる。彼は同僚やニコライに農園を任せ、今後の農業方針の打ち合わせや、これから来るケレーアレーゼの他の農学者たちとの勉強会のために、春まで王都に滞在することになっていた。


「出立までまだ時間があるのかしら? もしそうならキルケと話すと良いわ。久し振りなんでしょう?」


 ええ、とドレスラーは返事をする。久し振りに尊敬する先輩に対面するというのに、なんだか浮かない様子だった。

 しかし、アドリアーナはその理由は追及せず、背後のキルケを振り返る。


「では、私は陛下に帰還の挨拶をしてこなくてはならないので、失礼しますわ。キルケは、今日はゆっくりとお過ごしになって」


 一礼し、荷運びの手配はヨハンナとテオに任せて、城内に入った。エントランスホールを足早に通り過ぎ、舞踏会用の大広間や謁見の間に通じる階段のアーチを潜り抜け、中庭へと出る。


 貧しい国であるとはいえどもさすが王城というべきか、王城の中庭は大広間に負けず劣らずの広さを持ち、その中にありとあらゆる季節の木々や花々が植えられていた。どの花も美しく華やかに手入れされ、見る者を楽しませてくれる。

 まっすぐ執務室に行けば良いものを、わざわざこんなところに来たのは、思いがけず動揺してしまった心を鎮めるためである。

 空を仰ぎ、早くもひんやりとした。数回呼吸を繰り返すと、胸のなかがスッとして、はやっていた心臓が落ち着いたような気がした。


「アドリアーナ様」


 いつも以上に固い声に呼びかけられて、ただならぬ気配を感じアドリアーナは振り返った。侍女として付いてきたエミーリアはいつも通りの無表情。しかし、こちらを見つめる瞳は、ぬばたまのように暗かった。


「どうしたの、エミーリア」

「ドレスラー外交官のこと、どのようにお想いでしょうか」


 問い詰める声に、アドリアーナの心臓は凍りそうになった。


「どうって……」

「アドリアーナ様は王妃にございます。もし、あの御仁に心惑わされるようであるのなら……」


 アドリアーナは目を伏せた。エミーリアはそれ以上続けることはなかったが、何を言いたいのかすべて察した。アドリアーナの傍に付き従い、影のように動いてきたエミーリアがアドリアーナのことを理解しているように、アドリアーナもまたエミーリアのことを理解している。

 彼女は、アドリアーナの為なら、ドレスラーを処分することも躊躇わない。例えアドリアーナの意に沿わない行いであっても、王妃であるアドリアーナを守るためには、どんなことでもしてみせる。


「……私、そんなに浮かれていたかしら」


 エミーリアの他、オリヴァーにも目を向けると、彼は気まずそうに目を逸らした。それほどまでに判りやすかったらしい。うまく取り繕えなかった自分が意外で、苦笑いする。

 アドリアーナは花壇へと歩み寄った。晩夏の花を引き立てるように植えられた小さな紫色の花がひっそりと咲いている。ムラサキツユクサと呼ばれるその花は、日暮れ近いからだろうか、若干萎れているようにも見えた。


「……分かっているわ。これはただの"気の迷い"よ」


 花を見ながら、きっぱりと言い聞かせるようにアドリアーナは言った。


「この国で初めて私を認めてくれたのが彼だったから、少し舞い上がってしまったのね」


 だからついついドレスラーを見かけると、寄って行ってしまうのだ。他人にも分かる形ではしゃいでしまったことに、恥ずかしさを覚える。

 アドリアーナは庭から視線をはずして、エミーリアとオリヴァーをひたと見つめた。


「大丈夫よ、きちんと自覚しているわ。私はザルツゼーの王妃。誰に認められずとも、支えるべきは陛下であり、この国。守るべきはこの国の民」


 王妃であるアドリアーナに、恋の相手など居ないのだ。


「彼はただの友人よ。だから、何もする必要はないわ」


 左様でございますか、とエミーリアは静かに応えた。



 ※※※



 アドリアーナが立ち去った後で、ドレスラーは久し振りに対面する学生時代の先輩に頭を下げた。


「お久しぶりです、先輩。如何でしょうか、試験のほうは」


 キルケはといえば、相変わらず仏頂面で頷いただけだった。愛想の欠片もない様子は学生時代から変わらない。


「ニコライ氏が非常に意欲的で、あれこれと提案してくれている。これから着手するのだし、作物は育つのに時間が掛かるから、どうなるか分からないが……見込みはある」

「それなら、良かったです」


 普段あまり変化しない表情に、少し期待の色があるのが見えて、ドレスラーは安堵した。どうやら王妃の意見はノルト領では受け入れられたようだ。


「もっと早く、我々がそういう知識を仕入れてくれば良かったのですが……」


 思い出されるのは五年前。天候不順でどの地も作物が実らず、あのときドレスラーはなんとか近隣国から援助を取り付けようと忙しく飛び回っていたが、差配人として農園を管理していたキルケの苦労はその比ではないだろう。


「妃殿下がいらっしゃらなければ、どうなっていたことか……」

「……さっきから思っていたんだが、お前、妃殿下に懸想していたりしないだろうな?」


 眉を顰めるキルケに、ドレスラーは答えなかった。その様子に、キルケは目に見えて判るほど気色ばむ。


「相手は王妃だ。そこらの貴族の奥方とは訳が違う。火遊びじゃすまないんだぞ!」

「分かっています」


 人目を気にしながらも声を荒らげずにはいられなかったキルケに対し、ドレスラーは静かに応じた。


「道ならぬ恋など不幸なだけです。……だから僕はカリカンヌに行く」

「お前……本当に……」


 呆然と呟かれ、信じられないものを見るような目で見られて、ドレスラーは苦笑した。自分でもどうかしていると思う。すでに婚姻した女性を好くだなんて。


「はじめはただの同情でした。あちらからねじ込んできた婚姻であることを考慮しても、陛下に省みられないあの方があまりにも哀れだった」


 まだ少女を抜け出したばかりの年頃だ。王族で政略結婚の意味を理解していたとはいえ、結婚に少しは夢を見ていたに違いない。それなのに、王は側妃に夢中で、王妃を省みないばかりか邪険に扱った。

 結婚して早々にできた深い溝を見て、彼女は何を思ったのか。それは輪作の提案がアドリアーナのものであることを、自ら率先して隠そうとしたことからも窺い知れる。


「でも、あの方は、食事のこととなると非常に生き生きとするのです」


 それこそ、年相応の娘のように、楽しそうにメニューを考えたり、新しい食事を前に目を輝かせたり。城下に下りるときも楽しそうにしていた。その姿がとても――眩しく見えた。


「良い歳をして九つも年下の女性に恋なんて、まして横恋慕だなんて、あまりの愚かさ加減に自分でも呆れてしまいます。だからこそ、僕はカリカンヌへ行って、頭を冷やしてきます」


 でも、とドレスラーは目を伏せる。目蓋の裏に浮かぶのは、いつか見たピンク色の儚げな姿。意見を拒まれて傷つけられたアドリアーナを見て、嫁いできてからずっと彼女が孤独の中で過ごしてきたことに思い至った。確かに大国から押し付けられた婚姻だ。でも、だからといって人柄も知りもせず、蔑ろにして良いものか。


「陛下がコリンナ様の半分でも、妃殿下のことを見てくだされば良い、と心からそう思います」

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