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離れた地の友に感謝を

 翌日、キルケの案内のもと、ノルトの畑を見て回ることになった。輪作を行うことで収穫高を上げられるかどうか調べるためのものだったが、アドリアーナも一緒についていくことにした。この国の農業の実態というものを見ておきたかったのだ。

 案内されたのは、領主の屋敷からもっとも近い農園である。アドリアーナ自身は畑などそう見たことがあるわけではないが、農園というよりは菜園といったほうが良さそうな小さな規模で、育てられているのはライ麦だけ。小作人は今見えるだけでたった十人ほどしかいない。

 

「ここでは、納税用のライ麦を育てています」


 キルケは小さな農園を指し示し、説明した。


「ノルトには他にも二つ農園がありまして、そちらでは領民の食事のためのジャガイモを主とした野菜を育てています。規模は何処もこのような感じです。育てている作物は少なく、収穫できる数はなお少ない。ですから、領民たちのほとんどは、猟をするか、山菜を採って暮らしています」


 畑に入っているのは、怪我などで獣を追えなくなった男や、女子どもが主なのだという。この地で如何に畑作が重要視されていないのかがよく分かった。その意欲が低下するだけ、この地の実りは悪いのだ。


「この規模では、とても領民の食事など賄えませんわね」

「ですから、猟師の獲った毛皮などを買い取り、加工して他領に売っているのです。お陰様でそちらの技術は伸びましたが……」

「自力で生きていくには、厳しいものがありますわね。売り先の領に飢饉などが起きてしまったら、当然食料は売ってもらえないでしょうし」


 と指摘すれば、同じく見学についてきたリーベルトの瞳が暗く沈んだ。


「……五年前、実際にあったのですよ。子どもや年寄りを中心に、多くの領民がなくなりました」


 もちろんここだけに限りませんが、と続ける。だが、口振りからしてこの地が一番被害を受けたのだろう。悲嘆ぶりは相当なものだった。

 どうにかしなければ、とアドリアーナは強く思う。アドリアーナの望みを叶えるための農業試験だが、今は自分の望み以上に、国民の生活をどうにか変えていかなければ、という使命感にも駆られている。


「ニコライ、どう?」


 アドリアーナは地面にしゃがみこんだニコライに尋ねた。農学者は服が汚れるのも構わずに、辺りの土を掘り返しては調べている。


「大丈夫です。やり方次第で、収穫数は伸ばせるでしょう。キルケ統括官から気象条件を聞く限りでは、甜菜も栽培できますよ」


 何よりの報告だった。

 それでは、早速準備に取りかかるように、とアドリアーナは命を下した。




 そうして、キルケやニコライたちが試験の準備に追われる一方で、アドリアーナは暇をもて余していた。ここでの滞在はあくまで旅行の名目で、期間は三週間。早く切り上げることも考えられるが、すると今度は城側が迎え入れるのに大変な思いをするだろうから、やはり宣言した期間は滞在するべきだと思い、リーベルトの邸宅でのんびりと過ごさせてもらっていた。

 もちろん、一人でぼんやり過ごしているわけではない。家政の合間を縫ってリーベルトの奥方であるキセラがアドリアーナの相手をしてくれた。お茶を飲み、庭を歩き、散策にも出掛けたりと、退屈しないよう色々と考えてくれている。ときにはリーベルト当主も加わって、領地の話を聴いたり、遠乗りに出掛けるようなこともあった。

 もはや食客でしかないアドリアーナ相手に、実に良くしてくれていると思う。


 しかし、その日の昼下がり、リーベルト邸の庭の四阿で、アドリアーナは珍しく一人お茶を飲んでいた。

 一分もあれば邸とそれを囲う壁との間を行き来できてしまう小さな庭には、タチアオイが咲き誇っていた。一領主の邸のものにしてはずいぶんと小さいものだが、ピンクと白の花は大切に手入れされていて、他の貴族の邸の庭と比べても、見劣りしない。主人の品と仕事の丁寧さがよく現れた庭だった。

 夏空の下、真昼でも何処かひんやりとした空気の心地よさに浸っていると、キルケが足早に庭を歩いているのが目に入った。この領主の邸は、領地を管理するものの仕事場にもなっている。だから彼が庭を歩いているのも不思議はないが、アドリアーナはなんだか様子が気になって、彼を呼び止めた。


「妃殿下。ごきげんよう。失礼します」


 呼び止められた方は、そんな風に短く言葉を発したあと、せかせかと立ち去ろうとしたので、もう一度引き留めた。


「どうやらお疲れのようですわ。少しお休みになっていきません?」

「しかし……」

「貴方、ご自分の顔色をご覧になりました? 顔が真っ白です」


 そればかりか、目の下には隈も見え、窶れて見えた。彼には間違いなく休息が必要だ。それがほんの数分、立ち止まって飲み食いするくらいの時間であっても。

 できるだけ早く進めたい事項とはいえ、そこまで思い詰めてしなければならないことがあっただろうか、とアドリアーナは疑問に思う。


「命令です。お茶を一杯飲んでいきなさいな」


 そう言うとさすがに観念して、キルケはアドリアーナの向かいの席に座った。


「奥方様は、どちらに?」


 ヨハンナがお茶を淹れ直している間、キルケは目線だけで周囲を見回しながら尋ねる。最近、リーベルト夫人はアドリアーナの側にいることが多かったので、姿が見えないとかえって気になるようだ。


「彼女は使用人に呼ばれていきました。それで私は一人退屈していたというわけです」

「そうですか」


 返事には呆れが混じっていた。付き合わされている、とでも思っているのだろう。しかしアドリアーナは鈍感な振りをして、のんびりとした調子で尋ねた。


「それで、どうかなさったの?」

「ええ。魔物が……」


 と、そこで言葉をつっかえてしまった。ヨハンナが慌ててお茶を出す。熱いお茶を一口啜った後、キルケはもう一度口を開いた。


「東の方で、魔物が出たらしいのです。民が見かけただけですが、里のほうまで降りてきているそうです」


 なるほど、それで忙しく動き回っていたというわけだ。


 魔物。基本的に、よく知られる普通の動物たちに比べ、"驚異的"な生き物たちのことをそう呼ぶ。驚異の定義は様々で、普通より大きかったり(例えばヘルハウンドは大型犬の三倍の大きさを持つ)、特異な特徴があったり(例えば一角獣(ユニコーン)は馬にはない角がある)、果ては口から火を吹いたりなんてものもある。

 しかし扱いは、実はそこらの野性動物たちと変わりはない。人里に下りてきたときに迷惑を被るのは、猛獣だろうと魔物だろうと同じだ。

 ただ、被害の規模が異なるだけで。


 人を襲う魔物か、と問えば、そうではないらしい。しかし草食なので、畑を荒らすことがあるようである。


「今、畑に被害が出ないように農園を回ってきたところです。ただでさえ、収穫が少ないのに奴らに作物を食われては困ったことになりますから」

「なら、一通り対処は済んでいるのですね」


 回ってきて、何もしていないはずがない。


「では、今慌ててすることは、特にないのでは?」


 と問いかけると、キルケの動きがぴたりと止まった。しばらく視線をさ迷わせ、大きく息を吐く。ピン、と反り返るほどに伸ばされていた背筋が弛緩して、肩が下がった。


「……そうですね。何を慌てていたのでしょう」


 どうやら彼は一度せわしく動き出してしまうと、ブレーキを掛けることを忘れてしまう性質らしい。だから自分の疲れにも気づかず、顔色が悪くなるまで動き続けてしまったのだろう。

 ただの堅物ではないらしい。真面目すぎて暴走してしまうだなんて、思ったよりも人間味がある。


「お菓子もどうぞ。甘いので、きっと元気が出ますわ」


 卓に置かれた皿の一つに盛られた菓子を勧める。星や家、人の形にくり貫かれ、こんがりと焼いたクッキー(レープクーヘン)が十枚ほど置かれていた。


「ご相伴させていただきます」


 キルケは一つ口の中に放り込むと、すぐに咀嚼を止めてしまった。


「あら、お口に合わなかったかしら」


 返事はなかったが、眉根が寄っているあたり、困惑しているのは間違いない。


「シナモンという香辛料が入っていますの。慣れると香ばしくて癖になるのですけれど、そうでないと独特な風味が気になるかもしれませんわね。入っていないものもありますから、無理なさらないで」


 別の皿を勧めてみるが、彼はシナモンのほうの皿をしげしげと眺めて言った。


「これは、妃殿下が王都で流行らせたものですか?」

「少し違いますわ。私が関わっていることに違いはないのだけれど。これは、下町の食堂の娘が作ったものです」


 だから是非忌憚のない感想を聞かせてくれ、と付け加える。イルメラの作る菓子は、この国にいずれ流行らせるためのものだ。現地の人間の嗜好にできるだけ添ったものを作る必要があるから、良しにしろ悪しにしろ、評価を求めていた。


「ああ……ドレスラーが言っていました。忍んでまで、街にも行かれたのだとか」

「まあ。貴方には何でも話してしまうのね、彼は」


 学生時代に良くしてくれた先輩だった、とドレスラーは言っていた。きつそうなキルケと見た目は気弱そうなドレスラーが仲良くしている姿は想像しにくいが、ドレスラーの口ぶりからして、尊敬しているようだった。


「学生の時分から、何故か彼は私を慕ってくれています。あちらの方が優秀なのに、どうしてだか……」


 キルケはまた一つ、菓子を手に取る。シナモン入りのものだった。どうやら気に入ったらしい。


「可愛くて仕方のない後輩のようですわね」


 不可解、と言いつつも、キルケの固い表情の中に若干照れが見えた。


「彼には、仕事でも大変世話になっています。先輩としては情けないことですが、有り難くもあります」

「そうね……私も世話になってばかりだわ。彼のお陰で、私はやりたいようにできているのですから……」


 アドリアーナが国外の使者たちに食事を出すようになってから、ドレスラーはずっと力になってくれた。どのように使者をもてなすかを共に考え、出す料理を考案した。城下に下りるようになってからは、計画を支援してくれる商人を紹介してくれた。他愛のない話もした。彼がいなければきっと、アドリアーナは燻ったまま城の奥に引きこもっていたことだろう。

 そう思うと、彼の存在に感謝せざるを得なかった。

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