横たわる溝は深い
「そういうことか……」
これでノルト行きの件は納得が行った。自分で提案した話なら、ヴェンツェルの言うとおり興味を持ってもおかしくはない。
「最近、外交部に入り浸っていると聞いてはいたが」
賓客の接待を行うからそういうこともあるだろう、と放置していたが、いつの間にか農政部にまで関わっていたとは。王妃を庇っている様子からしても、それなりに親しくしていたようだ。いったいいつの間にそんなことになったのか。そもそも何故、王妃はこの国の農業に口出しするのか。
「なにか、企んでいるのか……? それとも気を引きたくて……?」
後者については、自分で言っておきながら馬鹿らしく思う。彼女は時折後継者の問題を口にはするが、媚びたりすがったりするようなことは全くしなかった。婚姻は政略であるし、この国に来ることを王妃自身が望んだという話も聞いていない。後者は絶対にあり得ない。
なら、前者は?
この国に嫁いできた頃は、王妃は国政に加わる気でいたようで、何度かブルクハルトに仕事を任せろと言ってきた。あまりにしつこく言うものだから、そのときは、王妃はこの国をケレーアレーゼの手中に収めるために遣わされたのだと思ったのだが……。
ブルクハルトは、七年前――二十二歳のときにザルツゼー王に即位した。理由は、父が突然身罷ってしまったからだ。政務の途中に心臓が止まった。四十五歳だった。
それ以来、ブルクハルトはこの国を守るために励んできた。王の道は孤高の道だ。臣下たちは頼れるが、王の責任は彼らの比でない。母も父の死後まもなく後を追うようにして亡くなったため、ブルクハルトの孤独を理解してくれるものはいなかった。
六年前に、ブルクハルトを癒してくれるコリンナという存在に巡り逢いこそしたが、王の責務が分散されるわけでもなく。
そんな中で突然乱入してきたのが、南の大国の王女であったアドリアーナだ。
ザルツゼーは建国してから百年あまりの小国。そんな国が、近隣国で一、二を争う大国の王女を突っぱねるわけにもいかず、しぶしぶあの砂糖菓子姫を王妃に据えた。
コリンナを一途に愛することのできない自らの立場と不甲斐なさはさておき――。
確かに彼女を受け入れた見返りは大きかった。岩塩の大きな取引先を得られたのももちろんだが、ケレーアレーゼを後ろ楯にできたことは大きかった。これで隙あらば再びザルツゼーを取り込まんとしているヴォイエンタールに立ち向かうことができる。この国は吹けば飛ぶような小国、悔しいが後ろ楯がなければ彼の国に抗う手段はない。
塩を高値で買い取ってくれ、代わりに食料を融通してくれている。これもまた、こちらの利点とはなった。
が、リスクもまた大きかった、と今のブルクハルトは感じている。ケレーアレーゼの目的が見えないのだ。王女を内紛から逃がすため、と彼の国は言っていたが、なにも岩塩しか取り柄のない貧しいこの国に嫁がせることはないだろう。友好国はたくさんあったはずだ。豊かで平和な国も多い。ただ逃がすだけならば、過酷な環境であるこの地に送り込む必要はないはずだ。
だからこそブルクハルトは、ケレーアレーゼがザルツゼーを取り込もうとしているのではないかと疑っている。吸収はなくとも、属国にされるのではないのか、と。アドリアーナはしきりにブルクハルトとの間に子を儲けることを望み、あまつさえ政務に口を挟もうとしていた。それはケレーアレーゼがこの国を良いようにしようと目論んでいることに他ならないのではないか。
父を失ってからずっと、ブルクハルトはこの国を守ってきた。
アドリアーナは、そんな自分からこの国を奪おうとしている脅威のはずだ。
しかし、それもここに来て分からなくなっている。この国が食糧に困っているのは事実。少しでも改善できる方法があるのなら、是非それを試したい。だから輪作を行うことを承諾したのだが、もしその提案者が王妃であることが事実だとするならば、彼女は何故そんなことをする必要があったのだろうか。
確かにケレーアレーゼの援助を受けることにはなった。しかし、取り込むのであれば、農法に改善策など提示せずに、もっと食糧をこちらへ送って恩を売れば良いのだ。そうすればこちらは、ケレーアレーゼの要求に従わざるを得なくなったというのに。
飴色の冷たい眼差しが脳裏に蘇る。我が儘で身勝手に振る舞っているとしか思えないのに、彼女の振る舞いには見るべきところがあるような気がしてならない。
だが、ブルクハルトにはアドリアーナの真意が解らない。
ブルクハルトは、第三者――とりあえず自分にとって一番身近なヴェンツェルに相談してみることにした。
「私はすれ違う程度ですので、お人柄についてはよく分かりません」
眼鏡をかけた補佐官はそう言った。彼はブルクハルトと王妃がいがみ合っているのを間近で何度も見ているはずなので、王妃の性格についても何か言ってきそうなものなのだが……自分の偏見が過ぎるのだろうか?
「ただ、妃殿下のお陰でまとまった話は、この二年で数多くございます。妃殿下が居られなければ、あれほど多くの国と良好な関係は築けなかったでしょう」
それについては異論はなかった。特にこの一年、王妃が大使の接待をするようになってから、賓客たちは終始機嫌良く、会談もうまく事が運んだ。
王妃の振る舞う料理が気に入らなかったブルクハルトも、彼女の話術と情報量には舌を巻いたものだ。あちらが何も言わずとも情勢を理解し、要求を適切に汲み取り、どちらにも損得のないよう事を運ぶ。ケレーアレーゼでも外交に携わっていたのだろう。経験がなければできないことだった。
彼女が来てからというもの、他国との取引で得た利益は大きい。
……これも、この国を取り込もうというのであれば、必要のないことではないか?
「正直……ケレーアレーゼの属国にされるというのは杞憂だったのでは……?」
先ほどブルクハルトが考えていたことを、ヴェンツェルは繰り返す。彼にまでそう言われると、自分が考えすぎていたような気がしてならない。
……だとしたら、これまでの彼女の言は、どんな意味を持っていたのだろうか。
自分がとんでもない間違いをおかしたような気がしてならなかった。
※※※
王妃が出発するという日、執務室の窓から馬車が見えたので、城門前の広場へと下りていった。
広場には既に王妃がいた。他には、ドレスラーと護衛の騎士二人、侍女二人に加え、もう一人見知らぬ中年の男一人がいる。彼は王妃がケレーアレーゼから呼び寄せた農学者だろうか。
などと眺めていると、ドレスラーと楽しそうに話していた王妃がこちらに気づいて振り返った。
「あら陛下、どうかなさいました?」
「…………見送りだ」
そう言えば、王妃は眉を顰めた。
「珍しいことでもあるものですね」
何しに来た、と言わんばかりである。こちらを煩わしく思っているのは明らかだ。何か不都合があるのかと邪推してしまう。
それは、表情にも表れていたらしい。彼女は小さくため息を吐くと、温度のない瞳でこちらを見上げた。
「ご心配なさらずとも、先方に必要以上の迷惑は掛けませんわ」
また薄く笑みを浮かべる。自嘲ともブルクハルトへの嘲りとも取れる表情から、アドリアーナがどれほど自分を信用していないかが良く分かった。
また、ブルクハルトに信用されていないと理解していることも。
――これが、この国の王と王妃の関係か。
今更ながら、その異常性に直面した。これを間近で見せられていたら、なるほど農政部が懸念するのも無理はなかったのかもしれない。
いくら寵妃が居るとはいえ、ここまで冷えきった王と王妃もそうは居るまい。
如何に自分が情けないことをしてきたのか、思い知らされたような気がした。
「それでは行って参ります。どうぞコリンナ様とごゆるりとお過ごしくださいませ」
冷えた声で形ばかりの挨拶をし、アドリアーナは馬車に乗り込んだ。カタカタ、と音を立て、王妃を乗せた馬車は北へ旅立っていく。
ブルクハルトとコリンナがどうなろうと自分には関係ない、とばかりに告げられた王妃の言葉に、ほんの少しだけ、ブルクハルトの心が締め付けられた。