プロローグ:名前のない村
この世界のはじっこには、地図にも載っていない小さな村がある。
そこは、人間たちが暮らす国からずっと東。
凶悪な魔物が多く生息する『常夜の森』を抜け、魔王の城よりさらに先にある。普通の人間は、決して足を踏み入れようとすら思わない場所だ。
森を出ると広い草原があり、小川が流れている。小動物や、温和で知性ある魔物たちが水を飲みに来るスポットだ。動物と魔物が仲良く戯れるなんて珍しい光景が見られるのは、きっとここだけだろう。
小川を越えて大地の先端まで行くと、氷河の漂う海に面した小さな村がある。
その村の中央には、飲料水として使っている泉が湧き出ているのだが――それが伝説の秘薬、エリクサーであることは誰も知らない。
村以外には、ほかの村も集落も、町もない。
国という概念から外れたそこは争いがなく、のどかで穏やかな場所だ。誰もが幸せに暮らしているため、村から出て行く人間も少ない。
けれど時折、外の世界に憧れを持つ子供が現れる。大抵は大人たちの説得によって村に留まるのだが、一人の少女は頑なに頷かなかった。
村の中――森で伐採して建てられた家の一つに、心配そうにする若い女性と、皺の多い老婆の姿。手元のコップには蜂蜜酒が注がれており、甘くかぐわしい香りが鼻をくすぐる。
若い女性からは、心配そうな声がもれた。
「……はぁ、大丈夫かしら。あの子、どこか無茶をするから……」
「ほっほ。あん子は、強い子じゃて」
「おばば様、そんな根拠のないことを言わないでください。村で一番弱くて、治癒魔法だって得意じゃないんですよ?」
若い女性は机に項垂れて、「もっと鍛えておけばよかった……」とため息をつく。けれどおばば様と呼ばれた老婆は、にこにこと笑うばかりだ。
「心配の必要はないさね。あん子は、この村で一番じゃて」
「一番って、何がです?」
「おやおや。母親だというんに、あん子のことに気付いてなかったのかい」
「?」
先ほどまでとは違い、老婆はカッカッカと豪快に笑う。カップの中にある蜂蜜酒を一気に飲み干して、窓から見える地平線へ目を向けた。
まだ高い位置に太陽があり、森と山々が視界に広がる。それはまるで、精霊たちから祝福されているのではと思うほどの、清々しい景色だ。
「大丈夫じゃて、信じておやり」
「……ええ」
静かに告げるおばばの声に、女性は仕方がないと頷いた。
二人が話していた子供の名は、シーラ。
世界のはじっこにある名前のない小さな村から今日、旅立った少女だ。