9】 ディノン
私が、そう、そこに居るお嬢ちゃん位の時、もう何ヶ月も雨が降らない時期があった。
川も干上がるし、農作物なんて全滅でね。
その頃のグルバは村で、農作業中心で今よりずっと貧しくて、住んでいる人間は少なかった。
城に近いこともあって、蓄えのある城下街へ人がどんどん流れて行ったよ。
私の家族も頑張ったけど、どうにもならなくて城下街へ引っ越そうと父親が決めたのさ。
旅立つ前日、私は家の庭に植えてあった一本の丈の低い木の枝を、城下街の新しい新居に持っていこうと枝を切ったんだ。
父親は「食い物になりゃしない赤い実を付ける樹なんかあっても、しょうがない」とよくぼやいていたけど。
私が生まれる前から、ほとんど年中実を付け、青々と葉を生い茂げ
いつもそこの木陰で遊んだり昼寝したり……。
大げさだけど、引き裂かれるようで離れがたかった。
だから、せめて向こうで挿し木でもしようとね……。
その夜のことだよ。
私を呼ぶ声に目を覚ました。
透き通るような声。
その声に導かれて歩いていくと、慣れ親しんだ樹木の前に着いた。
──そしたら、どうだい?
目の前に、いきなり綺麗な男性が出て来たんだ。
その男性は、私にこう言ったよ。
「私の名はディノン。この樹を出入り口として使わせてもらっている者。
──お前は明日、家族と共に此処を離れるのか?」
「はい、干ばつで農作物が育たなくなり、この村では食べていけないのです」
「……私はお前を赤ん坊の頃から知っているよ。 ──この樹の下でお前はよく遊び、よく寝ていたね。読書もしていたし、刺繍もしていた。
お前の刺繍の柄は好きでね、よく、ハンカチに刺繍をして、お前には悪いがよく失敬したものだ」
「まあ! よくなくなるとは思っていましたが……!」
ディノンと名乗った妖精は、ハンカチのお礼だと自分が出入り口として使っていたこの樹を切って、株ごと抜きなさいと言って姿を消したのさ。
私は父を叩き起こしてね。
夢でも見たんだろうと渋る親を説得して、樹を切って株を抜いてもらったんだ。
──するとどうだろう?
こんこんと、水が溢れてくるじゃないか!
からからに乾いてヒビが入っていた大地が、見る見る潤ってきてね……。
もう嬉しいの何の!
これで、この土地から離れなくて済むのと
此処に居れば、またあのディノンと言う名の妖精に会えるかも知れないのと。
たった、数分間の出会いなのにねえ……。
*
「彼とはもう会えなかったの?」
ディーナの問いに老婆はゆっくり頷いた。
その悲しみを再確認したかのように。
「その後、この辺一帯に水脈が豊富にあることが分かってね。掘れや、水道を作れやになって、一大観光地になっちまった。
──思うんだ。あの御方は水の妖精に違いない。水をこんな無駄に使ってしまっては、化身である、あの御方の命が無事であるはずが無い。儚くなってもう、塵となってるかも知れん。
あの時あの御方は、私と私の家族のみを助ける為に水の在り処を知らせてくれたのかも知れん。
そうだったら、水が出た嬉しさに近所に言い回った私と私の家族に罪がある。言い回らずに、家族だけの秘密にしていたらあの御方は、私の前に今も姿を現していてくれたのじゃろか?
──毎日毎日、そればかり考えてこの場所から離れることができず、恋もせず、結婚もせず、私しゃあこうして自分を責め続けているんだよ……」
西に沈んでいく太陽が、途切れなく湧き出る噴水を濃いオレンジに染める。
過去に一度だけ出会った水の妖精を偲んでいるのだろうか?
老婆は止まる事の無い噴水のしぶきをいつまでも眺めていた。