先輩と私と先輩と
講義が始まる前の講堂で、先ほど先輩に貸していただいたCDを見ていました。
* * * *
4日前、私はやっと行き合えた先輩に意を決してこう言いました。
「先輩お薦めのCDを、2~3枚貸していただけませんか?」
私は、先輩がとても音楽好きでいらっしゃると知って以来のお願いを、勇気を出して言葉にしたのです。
「ボクのお薦め、でいいの? ジャズなら名盤と言われているものがどっさりあるし、レコードガイドもいいものがいろいろあるのに」
「先輩にお願いすれば、必要なときに解説付きですぐ教えていただけると思いますので」
先輩は少し嬉しそうにされていました。
「そこまで言われちゃうと、仕方ないか。分かった。ちょっと時間をくれよ。見繕って、持ってくる。ゼミかどこかで会ったときに渡すよ」
「ありがとうございます」
* * * *
4日後の「西洋音楽史」、つまり今日ここでですが、先輩がこちらまで来てくださいました。
「あれ、タマキ?」
「おはようございます、先輩」
「この講義受けてたの? 知らなかった・・・」
「先輩は周りにまったく無関心だからです。私、1回も休まずに出てますよ。うちの学科からは先輩と私だけみたいですけど」
「そうか。確かにボクは周りなんて見てないし、誰がいるか気にしたことはなかったもんな。タマキはいつもこの辺にいるの?」
「そうですね。講堂の、ほぼ真ん中です」
「何か理由が?」
「だって、いちおう鑑賞もあるんですよ」
「うん」
「でしたら、中央で聴くのがいちばん音響的にいいと思いませんか?」
「ほう、こだわりがあるんだ」
「いちおう、ですよ」
「先生が持ってくるあんな小さなCDセットでも、違うもんかな」
「少なくとも、先輩がいらっしゃる席よりはずっとましだと思います」
「そりゃそうだ。って、ボクがどこにいるのか分かってんのか」
「はい。最前列の、右隅ですよね」
「うわあ、ばれているとは・・・」
「先輩、目立っていらっしゃいますから」
「嘘?!」
「嘘じゃありませんよ。最前列ならうしろから丸見えですし、私、先輩ならすぐ分かりますから」
「そうだったか・・・侮っていた。タマキがいるなんて」
「先輩は私のことなんか、ちっとも興味がないんですよね」
「興味がないってことはないよ。タマキに頼まれたことはちゃんとやってるんだし」
先輩はそうおっしゃって、いつも肩から提げている黒のバッグ(大きな袋と言った方がいいかもしれません)から、何かを取り出されました。
「ほら、頼まれてたヤツ、持ってきたんだ。今渡しても問題ないかな?」
「あ、はい」
「2~3枚って言われてたけど、そんな枚数では足りなすぎだから、とりあえず2+3で5枚持ってきた」
先輩はにこにこしながら、私にタワー・レコードの袋に入れたCDを渡してくださいました。
「5枚だけ選ぶのにかなり苦労した。泣く泣く落としたディスクが山になってるよ」
「なんだかすみません」
「いいさ、全然気にするなよ。タマキの頼みだし、これでタマキがジャズにはまってくれれば、ボクは身近に音楽仲間ができて嬉しいんだから」
「そう、ですか」
あの先輩が、今まで見たことないほど嬉しそうにされて、しかも熱心に答えてくださったので、私も嬉しくなってきました。
「ありがとうございます。私、一生懸命聴いてみます」
「おい、それは違うぞ。リラックスして聴くように。のんびり楽しめばいいんだから」
「あ、はい、そうですね」
先輩は「ボクが初心者向きだと思った5枚なんだ」とおっしゃいました。私は音楽好きなのでジャズに興味は持っていたのですが、知識はゼロで、どこから聴き始めたものか分からず、これまできちんと聴いたことがないままでした。
どんな素敵な音楽が流れてくるんだろう。
私には先輩が貸してくださったCDがなんだかとてもきらきらしているように見えました。
「さっきも言ったけど、この5枚はただの入口で、聴いてほしいものはまだまだたくさんあるんだ。だから、タマキが今回のディスクを聴いて、いいなと思ったら、ボクに言って。また違うのを貸してもいいし、次に聴いてほしいディスクのお薦めリストでも作っておくから」
「それは本当ですか! とても嬉しいです。先輩がそこまでおっしゃってくださるなんて、私、きっと気に入ると思います」
「よし、じゃあリストだけでも作っておくかな。5枚選ぶときに書き出しておいたメモが残っているし・・・そうだな、20枚ぐらいピック・アップしてみるか」
「よろしくお願いします」
私は頭を下げて言いました。
先輩は最前列の右隅へ行ってしまわれました。毎回そこにいらっしゃるので、すっかり指定席です。先輩の周り、10mくらいかと思いますが、どなたも座りませんので、やっぱり先輩は目立っていらっしゃると思います。
先輩が貸してくださったのは、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ『モーニン』、ビル・エヴァンズ・トリオ『ポートレイト・イン・ジャズ』、ジョン・コルトーレン『バラード』、マイルズ・デイヴィス『カインド・オブ・ブルー』、ヘレン・メリル『ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン』の5枚でした。CDサイズとはいえ、ジャケット写真のどれもがクールでかっこよく、それだけでも大人の音楽という気がしました。後日分かったことですが、この5枚は全部がすごく有名で「超名盤」と呼ばれているものでした。先輩曰く「一家に一枚」なのでした。
「あれ、あなたジャズが好きなの?」
突然声をかけられました。いつもエスニック風の服装をしていらっしゃる女性の方で、先輩とは別の意味で、いいえ、本当の意味でとても目立っていらっしゃいました。
「あ、『カインド・オブ・ブルー』。私も大好きなんだぁ。演奏もとってもカッコいいんだけど、ジャケ写もめちゃくちゃカッコいいよね」
その方は「見せてもらっていい?」と他の4枚もご覧になって、「なかなかハイ・センスだね」とおっしゃいました。
「『カインド・オブ・ブルー』以外はけっこう初心者向きって気もするけど、もしかして、ジャズ入門って感じなの?」
「はい、そうなんです」
「そっか。あ、ゴメン、なれなれしく話しかけちゃって。あなたの方が私より断然若いなあと思って。私は2年なんだけど、あなたは?」
「1年です」
「だったらよかったのかな。私、けっこう砕けたしゃべり方だから、失礼だったらゴメンね」
「そんなこと、ないですよ」
「にしても、タワーの袋があるということは、誰か友達にジャズ好きな人がいて、貸してもらったとか」
「ええ、友達ではなく先輩なんですけど・・・」
「へえ、なんかいい先輩みたい。きっとオシャレでカッコいい人なんじゃない?」
「うーん、それはどうでしょうか」
私はつい本音を漏らしてしまいました。
「外見からでは分かりにくいかもしれません。実は」
私は最前列の右隅に座っている人がその先輩です、と正直にお知らせしました。
「ええっ! あの闇の世界にいるように見える男が?」
これ以上ない驚きを感じているようでした。
「やっぱり、世界は不思議で満ちているのね」
私はつい笑ってしまいました。
「あんな怪しげな、ダーク・サイドに落ちてしまったように見える人が、ねえ。う~ん。あ、そうだ。これからあの男のことは『堕落先輩』と呼ぶといいわ。本名よりもその方が楽しいし、あだ名にしておけば本人の前でもとぼけられるし。ね、そうしよ」
「はあ・・・」
こうして『堕落先輩』というあだ名が生まれました。
「それでさあ、堕落先輩って、どんな人なの? あなたならよく知ってるんじゃない?」
「あ、私、タマキといいます」
「分かった。じゃあタマキちゃんは、どう思う?」
「そうですねえ・・・」
ここで講師の先生がお見えになりました。私たちは話すのをやめました。
「残念。続きはまたあとだね」
「はい」
* * * *
── この講義では基本的に年代順に取り上げていきます。
── どの作曲家も1回だけではほんのさわりしか分からないと思いますが、とにかくたくさんの作曲家を紹介したいと考えています。
先生は初回の講義でこのようにおっしゃっていました。前回までにヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデルと続いてきました。
* * * *
この日取り上げられたのはハイドンでした。「交響曲の父」、「弦楽四重奏曲の父」とも呼ばれているそうです。なので、『交響曲第94番“驚愕”』、『100番“軍隊”』、『101番“時計”』から有名な楽章を、『弦楽四重奏曲第67番“ひばり”』から第1楽章をダイジェストで聴きました。
次回はモーツァルトを取り上げるとのことでした。
講義終了後、先輩が・・・あ、この先輩は堕落先輩ではなく、「エスノ先輩」です。私は先ほどお名前を訊きそびれてしまい、今更訊くというのもなんだか気が引けましたので、自分の中でひとまずそう呼ぶことにしたのです。
「タマキちゃんゴメン。今日は私、この後ヤボ用があるから、また来週でいいかな」
「はい、もちろんです」
「じゃあまた来週、この席で」
「分かりました」
それ以来、私とエスノ先輩は、講堂の中央に並んで座るようになりました。
* * * *
何日かあと、研究室の前で「堕落先輩」と行き合いました。
「お、タマキ、ちょうどよかった」
堕落先輩はレポート用紙を1枚、私へ差し出してくださいました。
「これ、例のリスト。ボクの汚い字じゃ読めないかもしれないけど」
「ありがとうございます。こんなに早く・・・平気です。読めますよ」
「よかった。20枚って言ったけど、まだ泣く泣く落としたのがけっこうあるよ」
堕落先輩は笑顔でそうおっしゃいました。
「この前の5枚、聴いた?」
「はい」
「どうだった?」
「どれもとてもよかったです。さすがです、先輩」
「ボクは勉強は教えられないけど、こういうことなら答えられると思うから、じゃんじゃん訊いて」
「ありがとうございます」
「いいんだ。ボクも楽しいし、タマキのためだし」
「そんな・・・」
「ボクのかわいい後輩だからさ」
茶化すようにおっしゃると、堕落先輩は階段を下りていかれました。もちろん、私が「かわいい後輩」だなんて、冗談だと分かっていました。冗談好きな先輩なのです。でも、私はちょっと嬉しかったんです。内緒ですけど。
学校から駅までの道は商店街を抜けると早いのですが、私は帰りにその商店街にあるレコード屋さんに寄ってみました。昔ながらの、町のレコード屋さんだと思います。
堕落先輩にいただいたリストを取り出して、ジャズのコーナーを見てみました。決して品揃えが豊富とは言えませんでしたが、それでも2枚のディスクを見つけることができました。
エラ・フィッツジェラルドとジョー・パスのデュオ『スピーク・ラヴ』、ジョン・コルトーレンとジョニー・ハートマンが組んだ、『ジョン・コルトーレン・アンド・ジョニー・ハートマン』の2枚です。どちらもヴォーカル・アルバムでした。ヴォーカルが入っているのは、初心者の私にはよかったかもしれません。慣れ親しんできたポップスには普通ヴォーカルが入っていますから、その延長ですんなり聴くことができると思いました。
私はこの2枚を買って、わくわくしながら帰りました。早く聴きたいなと思いながら。こんなことはずいぶん久しぶりでした。
* * * *
1週間ぶりの「西洋音楽史」でした。
「あ、先輩、おはようございます」
「タマキちゃん、おはよう」
エスノ先輩はこの日もアジア風の服を着ていらっしゃいましたが、私にはそれがどこの国のものなのか見当もつきませんでした。
「そうそう、タマキちゃん、あの堕落先輩に借りた5枚聴いてみた?」
「はい」
「どうだった?」
「そうですね、私は5枚とも好きになりました。ひとくちにジャズと言っても、どれも個性的な演奏で、同じ曲をやっていてもずいぶん違う演奏になっていて、とても面白いと思いました」
「さすがタマキちゃん。初心者と言いながら、すでにツボを押さえているわね」
「そうですか、嬉しいです」
「どれがいちばんよかったの?」
「どれと言われると困っちゃいますけど、そうですね、『ポートレイト・イン・ジャズ』でしょうか」
「お、エヴァンズのピアノ・トリオね」
「はい。私でも知っている曲が入っていましたから、それで印象に残ったんだと思います」
「“枯葉(Autumn Leaves)”だもんね」
「そうなんです。“枯葉”があんなにかっこいい曲だなんて、思いもしませんでした」
「それに、“いつか王子様が(Someday My Prince Will Come)”とか」
「そのとおりです」
「サームデーイ、マイプリーンス、ウィルカーム・・・」
エスノ先輩は小さな声で口ずさんでくださいました。もしかしたら堕落先輩に負けない知識をお持ちかもしれません。
「もう返しちゃったの?」
「いえ、まだなんです。早くお返ししようと思っているんですけど」
「いいんじゃない、いつまでも借りてれば」
「そうはいきませんよ」
「タマキちゃんかわいいから、きっと大丈夫よ」
「そんな・・・」
かわいいなんて冗談抜きで言われることはないので、私は少し赤くなっていたと思います。エスノ先輩が言われたのも冗談かもしれませんけど。
「そうだ、例の堕落先輩のこと、私が『先輩』をつけて呼ぶのはヘンよね。確か同じ学年でしょ」
「そうです。2年生です」
「なら、私は『堕落マン』と呼ぶことにするわ」
新しいあだ名が派生しました。
「それで、あの堕落マンって、どんな人なの?」
「う~ん、ひとことで言うと、つきあいが悪いですね」
「ははあ、あんな隅っこにいつもいるのは、そういうことか」
「ゼミの飲み会とか、コンパとか、一度も来てくださったことがないんです」
「ええ? 何それ」
「私はまだ1年なのでそれほど機会がないんですけど、他の先輩方にうかがってみると、あいつは来ないのが普通だ、とおっしゃってました。人づきあいが苦手とか、聞いたこともあります」
「ふうん。やっぱりヘンな人なのね」
「そうですね。あ、ひとこと目には、変な人と言えばよかったですね」
エスノ先輩はプッと吹き出されて笑っていらっしゃいました。
「私から見ると、あの堕落マンは闇のようなオーラに包まれている気がするの」
「闇、ですか」
「そう。もちろんホントに闇があるんじゃないけど・・・タマキちゃんのおかげで少し謎が解けた気がするわ」
「え?」
「たぶんね、何が原因かは分からないけど、すごく閉鎖的な人だと思うの。内にこもってるって言った方がいいかな」
「ああ、そうかもしれませんね。私、堕落先輩が他の方とお話をされているところ、見た記憶がありません。あ、研究室の助手さんとか、先生方は別として」
「普通は研究室やゼミには、多かれ少なかれ友達がいそうなもんなのに」
「ゼミの時間には少しくらいお話をされていることがあるようですけど、私なんかでも堕落先輩とけっこうおしゃべりをする方みたいです」
「もしかして、なんか特別な関係なの?」
「いいえ、そうじゃありません」
私はとても強く否定しました。
「私、初めてゼミの集まりに行ったときは緊張しすぎて、助手の方から先輩のみなさんへ紹介していただいただけで終わってしまったんです。でもこれではいけないと思って、それからあらためて先輩方ひとりひとりにご挨拶することにしたんです」
「タマキちゃんすごい熱心、と言うよりも、むしろ大胆だよ。1年生ならまだ『仮』なのに」
「前々から勉強したいと思っていた分野ですから。それに、今から顔を出しておけば確実に入れてもらえるとのことでしたし、入ってもいちばん下っ端なので、まずご挨拶くらいはと思いました」
「偉いなあ」
「やめてくださいよ。あ、それで、いちばん最後に残ったのが堕落先輩で」
「なかなか捕まらなかった、とか」
「そうなんです。お見かけすることは何度もあったんですけど、いつの間にかいなくなられてるんです」
「ヘンな人だわ。ますますあの堕落マンに興味が湧いてきた」
「興味、ですか」
私はドキッとしてしまいました。私以外に、あの堕落先輩に興味を持つ方がいるなんて、思いも寄らないことだったのです。
「そう。私、あんなにヘンな人、他に見たことなかったし、どんな人間ならあんなふうになるのか、知りたい気がするのよねえ」
そこでひと区切りされると、エスノ先輩はさらにおっしゃいました。
「タマキちゃん、私、あの男に近づいても無事でいられると思う?」
「え?」
「ああいう変人に迂闊に近寄ると、返り討ちにあったりしそうだから」
「大丈夫だと思いますけど・・・あ、でも、失礼なことを言われるかもしれないです」
「失礼な? さてはタマキちゃん、被害者なのね」
「あ、はい・・・」
「あいつ、ひどいわね」
「私がご挨拶したときに、『男かと思った』って言われちゃいました。ショックだったです」
「ええっ、それはないわね。タマキちゃん、こんなにかわいい女の子なのに。どこに目をつけてんのよ、堕落マン。フシアナね」
「確かに、そのときの私は、男物のシャツに黒いジーンズなんて服装でしたし」
「いいのよ、タマキちゃん。いくら先輩だからって庇わなくても」
「それから」
「まだあるんだ」
「タマキです、よろしくお願いしますってご挨拶したんですけど、『苗字なのか、名前なのか、両方なのか、よく分からんヤツだ』って・・・」
「はあ? 懲らしめる必要がありそうね。『両方』って、何言ってんのかしら」
「冗談だとは思ったんですけど。私はヒキガエルじゃないのに、ってムッとしちゃいました」
「え、なんでヒキガエルなの?」
「高校の生物で学名について習ったときに、例として出てきたんですけど・・・学名って、人の名前のように、基本はふたつの言葉からできているんです」
「うんうん」
「それで、動物にはトートニムというのがあって、要するに、人の名前に例えると、苗字と名前が同じなんです」
「それでヒキガエルなの?」
「はい。例として出てきたのが『Bufo bufo』で、これはヒキガエルの、正確にはヨーロッパヒキガエルの学名だったんです」
「タマキちゃん」
「はい」
「あなたって、すごく面白い人だわ」
「え?」
「あ、悪く取らないでね。『面白い人』って言うのは、私の中では最上級の誉め言葉だから」
ここで講師の先生がお見えになりました。
「まずはモーツァルトの傑作のひとつ、『交響曲第41番“ジュピター”』から、第4楽章を聴いてみましょう」
先生はそうおっしゃいました。鑑賞から始まるのは初めてでした。
「“ジュピター”、カッコいいよね」
エスノ先輩が小声で話しかけてくださいました。
「私、モーツァルトの曲ではいちばん好きだな。特に第4楽章。さすが先生、分かっていらっしゃるわ」
「先輩はクラシックにもお詳しいんですか?」
「そんなことないと思うけど、ジャンルにこだわらず、気になったものはなんでも聴くからかな」
エスノ先輩は“ジュピター”第4楽章のメロディーを、CDにあわせて小さな声で、少しだけ口ずさまれました。
私はエスノ先輩をずいぶんすごい人だと思いました。知り合えてよかったなって。服装にしても、音楽にしても、自分はこうなんだというぶれない何かをお持ちなのだと、素直に感心してしまいました。
* * * *
堕落先輩に貸していただいた5枚のCDは、夏休みになる前にお返しできました。
いくら気に入ったCDとはいえ、夏休みを挟んでしまうと3か月以上お借りすることになってしまい、長すぎると感じたからです。
でも、厚かましいかなと思いましたが、今度はその際にメンデルスゾーンのCDを貸してくださるようお願いしました。7月第1週の「西洋音楽史」に家の都合で出席できなかったからです。メンデルスゾーンを取り上げたということはエスノ先輩から教えていただきました。『交響曲第4番“イタリア”』、『ヴァイオリン協奏曲ホ短調』を聴かれたとのことでした。私は堕落先輩なら当然お持ちだろうと思いました。案の定、お持ちでした。
「ついでにこれも貸すよ」
シェイクスピアの有名な喜劇に音楽をつけた『真夏の夜の夢』のCDでした。
「聴けば分かると思うけど、『結婚行進曲』が入ってるよ。メンデルスゾーンで最も有名な曲かもしれないから」
こんなふうに何げなくフォローしてくださるのは、堕落先輩の長所だと思います。
* * * *
夏休みが過ぎて、後期になりました。
夏休み中にはゼミの合宿がありましたが、堕落先輩は不参加でいらっしゃいました。ゼミ内でもおられないのは当然のことになっていますから、ご不在をどなたも気にされることはないようでした
* * * *
「タマキちゃん、恐るべきことが起きたわ」
後期第1回目の「西洋音楽史」の際に、エスノ先輩は私を見つけられるといきなり真剣に切り出されました。眼鏡をかけていらっしゃいました。私は「おや」と思いましたが、それどころではないようでしたので、まずはお話をうかがうことにしました。
「どうかされたんですか?」
「現れたのよ」
「何がですか? もしかして、おばけ関係ですか」
「そうね、似たようなもんかもしれないわ」
「そんな・・・」
私はオカルト系は苦手なのです。
「あの堕落マンが、私のバイト先に新入りで来たのよ」
それは確かに驚きでした。
「イヤーッ、て感じでしょ? 絶叫系でしょ?」
両頬に手を当てられて、エスノ先輩はおっしゃいました。やっぱり楽しい人なんだと思いました。
「私、あいつのことはまったく知らないふりして、話したわ。初めまして、そう言って微笑んでみたの。その方がいろいろあいつのことが分かるかもって思ったから。しかもね、私があいつに仕事を教えることになっちゃって」
「先輩の、先輩になられたんですね」
「うん。でもこれで、正体がつかめるかもしれないわ」
エスノ先輩は右手をぐっと握られると、やる気を見せてくださいました。
「ところで先輩、今日は眼鏡をかけていらっしゃいますが、ファッションですか?」
「あ、これね。そっか、タマキちゃんの前では初めてになるのか」
エスノ先輩は、両手で眼鏡のツルを少しだけ上にずらされると、右手の人差し指でブリッジの位置を調整されました。艶のないシルバーのメタル・フレームで、横に長い楕円形のレンズにツー・ポイントのデザインがおしゃれだと思いました。
「私、目が悪くて、普段は実はコンタクトなの。目の調子がよくないときや、面倒なときは、こんなふうに眼鏡をかけてるんだ。眼鏡を外でかけているのはレアなのよ」
今日はイマイチ目の調子がよくなかったから楽な眼鏡にしたの、そうおっしゃいました。
「そうだったんですか。でも、先輩は眼鏡もおしゃれで素敵です」
「そう? タマキちゃんに誉めてもらうと自信になるわ。ありがとう」
エスノ先輩は右手でツルを押さえられ、左手を腰に添えられ、ポーズをとってくださいました。
私がエスノ先輩を「楽しい人」と思ったのは、正解だと確信できました。
この日はシューベルトの交響曲“未完成”と“ザ・グレート”が取り上げられました。どうしてシューベルトがよりのちの年代になるメンデルスゾーンよりもあと回しになったかというと、先生のご都合なのでした。
前期、本来シューベルトの予定だったときに、先生はこうおっしゃったのです。
── すみません。予定したディスクがどうしても見つからなかったので、シューベルトはまた今度にします。
「“未完成”は、完成しなかったのがポイントよね」
エスノ先輩は鑑賞中に前を向かれたままでおっしゃいました。やはりメロディーを小さな声で口ずさんでいらっしゃいました。
* * * *
「お、タマキ久しぶり」
研究室の前で、堕落先輩とやっとまともに会うことができました。後期初でした。
「あ、先輩こんにちは。そうだ、ちょっと待っててくださいね。メンデルスゾーンのCD、お返ししますので」
「そんなに急がなくてもいいのに」
「いえ、いつ先輩を捕まえられるか予想ができないので、常に持ち歩くようにしてました」
私はバッグからCDを取り出して、堕落先輩にお返ししました。
「それは悪かったなあ」
「いえ、私が頼んだことですし、おかげで楽しむことができました。ありがとうございました」
「相変わらず律儀なやつだな」
「『ヴァイオリン協奏曲』がよかったです」
「なるほど。3大ヴァイオリン協奏曲と呼ばれるうちのひとつだしな」
「『結婚行進曲』も、楽しかったですよ」
ふむふむと、堕落先輩はうなずいておられました。
「タマキが結婚するときは使うといいよ」
「ベタすぎです」
「ワーグナーの方を使うという手もあるけどな」
堕落先輩はワーグナーにも「結婚行進曲」があると教えてくださいました。
「ワーグナーのも、聴けば分かると思うよ。『ローエングリン』っていうオペラの中の1曲なんだ。今ここにはないけどね」
堕落先輩は無意識でおられるのかもしれませんが、こんなふうに少しずつ世界を広げてくださいます。私も見習いたいと思っている点のひとつです。
「先輩がきちんと『西洋音楽史』に出ていらっしゃることは分かってたんですけど、講義が終わったと思ったらもう先輩はいらっしゃらないんですから、困っていました」
「なんだ、言ってくれればよかったのに」
「いつだってどこにいらっしゃるのか分からないのに、どうやって言えばいいんですか?」
「あ、そっか」
「電話番号くらい、教えてくださってもいいのに」
「教えてなかったっけ?」
「教えていただいてません」
「そうだっけ」
堕落先輩は苦笑いをされると、話題を替えてしまわれました。
「それで、タマキはなんかいいことでもあったの?」
そのときは気がつきませんでしたが、堕落先輩の手口にはまっていました。電話番号をうかがうことができなかったのです。ごまかされてしまいました。私は先ほど堕落先輩に会えたとき、ついにやにやしてしまったので、堕落先輩はそこに目をつけられたようでした。
「いえ、特にいいことはありませんでしたけど、敢えて言えばこうして先輩にお会いできたことですね」
「うまいね。嬉しいことを言ってくれるなあ」
私がにやにやしていたのは、もちろん、エスノ先輩からアルバイトのことをうかがっていたからでした。
「ボクの方はこの間いろいろあった、って言えるのかな」
「いろいろ、ですか?」
「実はバイトを始めたんだ」
お、来ましたね、と思いました。でも、堕落先輩が自分から外に出て行かれるのは珍しいと気がつきました。
「そそくさといなくなる原因のひとつはこれだな」
「そうは思えませんが・・・」
「そこにはうちの学校で、ボクと同級生のヤツがいたんだ」
堕落先輩はなおもおっしゃいました。
「なんか、インド哲学専攻だとか言って、そんな学科がうちの学校にあるなんて知らなかったよ」
「先輩はご自分に関係がないと思ったことに、興味がなさすぎです。私は知ってましたよ」
「女の子なんだけど、同級生とは言えバイト先では先輩だから、敢えて『先輩』と呼んでいるんだ」
その子に仕事を教わっている、と堕落先輩はおっしゃいました。
「個性的な子なんだけど、気さくに話してくれて、人づきあいの苦手なボクはとても助けられてるよ」
「先輩が誰かを誉めるなんて、どうしちゃったんですか?」
「あれ、ボク、タマキのことだってよく誉めてるよね」
「先輩、ご自分の都合がいいように真実をねじ曲げないでください。私を誉めてくださったことなんて、ないくせに」
「あれ、そうだっけ? 口に出して言ってなかったかな」
「え?」
「いや、なんでもないよ」
堕落先輩は少し恥ずかしそうにされていらっしゃいました。私にはしっかり聞こえていたので、「少し」嬉しくなっちゃいました。
「そうだ、『西洋音楽史』を受講してるって言ってた。眼鏡をかけてて、ボクはインドかどこかの留学生がいるって思ってたんだけど、そのよく目立つ服装の子が、『先輩』なんだ」
はっきりと、エスノ先輩の登場です。
「音楽に詳しいようで、ボクでも仲よくなれる気が・・・」
堕落先輩がこんなことをおっしゃるなんて意外でした。私はびっくりしたので、冷やかしてみました。
「惚れたんですか、先輩?」
「そんなことはない。でも、楽に話すことができる女の子は、タマキ以来の人かもな」
私の方がドキッとしてしまいました。堕落先輩はやっぱりずるい。私はそう思いました。
* * * *
再び「西洋音楽史」の日がやってきました。
「タマキちゃん」
「はい」
「あの男、もしかしたら堕落していないかもしれないわ」
エスノ先輩はこれまでと打って変わった言葉をおっしゃいました。「堕落マン」とはおっしゃいませんでした。
「バイト先で、何かあったんですか?」
「んー、特にどうということはなかったと思うんだけど、なんでだろうな」
エスノ先輩は右手の人差し指をこめかみに当てられながらおっしゃいました。
私には、ご自分でもよく分からないというように見えました。
「いずれにしても、まだ正体がつかめないから、もう少し探ってみる必要がありそうだわ」
エスノ先輩が堕落先輩をどう評価されるのか、楽しみになりました。
「面白い人かもしれないの」
エスノ先輩にとって、「面白い人」は最上級の誉め言葉のはずです。
私とエスノ先輩はいつも早めに講堂に入って話をしていたのですが、この日は堕落先輩も早めに来ていらっしゃいました。
「ちょっと行ってくるわ」
エスノ先輩は自分のバッグを持ったまま、最前列の右隅へと向かわれました。エスノ先輩と堕落先輩は何か話をされていました。すると、堕落先輩は突然荷物をまとめられ、急いだ様子で講堂から出て行ってしまわれました。エスノ先輩は私の隣に戻って来られました。
「何よあの男。逃げ出すなんて、やっぱりひどいヤツだわ」
エスノ先輩は憤慨された様子のまま、腕を組んでうつむいてしまわれました。どんな言葉が先輩方の間で交わされたのか興味のあるところでしたが、エスノ先輩は何事か考えていらっしゃるようでしたので、私は遠慮して話しかけないでおきました。
「そうだ、タマキちゃん」
「はい」
エスノ先輩は急に顔を上げておっしゃいました。
「私、来週来られないから、あとで講義の内容教えてくれる?」
「はい。・・・どうか、されたんですか?」
「実はね、友達とバリに行ってくるんだ」
エスノ先輩は内緒話をされるように、ひそひそとおっしゃいました。
「バリ島ですか。なんか、先輩らしいです」
「そうでしょ」
エスノ先輩はにこりとされておっしゃいました。少し得意げにお見受けできました。
「おみやげ買ってくるね。高いものは無理だけど」
* * * *
次の週、エスノ先輩は予告どおりいらっしゃいませんでした。堕落先輩は例によって講義終了後、あっという間にどこかへ行ってしまわれました。
この日は先週のリストに続いて、ワーグナーが取り上げられました。ふたりは義理の親子で、既婚だったリストの娘のコジマを、ワーグナーが略奪した形で結婚したのだそうです。ワーグナーの曲は有名な『ワルキューレの騎行』を筆頭に、かっこいい曲が多いと思いますが、人間としてはかなりの悪だったらしいです。『結婚行進曲』は残念ながら鑑賞できませんでした。
* * * *
さらに次の週、エスノ先輩は帰って来られました。いつものバッグの他に、大きくて平べったい紙包みをお持ちでした。
バッグから小さな包みを取り出されると、私にくださいました。
「タマキちゃん、これ、おみやげ」
ポスト・カードのセットとお菓子をいただきました。
「どうもありがとうございます」
「いいのよ、気にしないでね。タマキちゃんには仲よくしてもらってるし、ほんの気持ちだから」
エスノ先輩はそのまま堕落先輩の方へ行かれました。大きくて平べったい紙包みは、堕落先輩へのおみやげだったようです。
そのちょっとあとのことです。
「なんで逃げたのよっ」
大きな声が講堂に響きました。エスノ先輩の声でした。講堂にいた誰もがエスノ先輩の方を見たと思います。相変わらずユニークな服装をされているので、どこにいらしてもすぐに分かるのです。しかも大声です。
すると今度は、堕落先輩がエスノ先輩の手をつかまれて、おふたりで講堂を出て行かれました。堕落先輩の大胆な行動にはすごく驚かされました。ところが堕落先輩はすぐに一度戻られ、大きくて平べったい紙包みを持たれるとまた出て行かれました。せっかくのおみやげを置き忘れてしまわれたようです。かっこ悪いところが堕落先輩らしいと思いました。
おふたりの間に、何かあったのは間違いありません。でもそれがなんなのかは、私に分かるはずはありませんでした。
この日はブラームスが取り上げられました。『交響曲第1番』と『第4番』のさわり、『ピアノ協奏曲第2番』の第3楽章、『ハンガリー舞曲第5番』を聴きました。『ピアノ協奏曲第2番』の第3楽章は今頃の季節に似合いそうだなと思いました。
* * * *
数日後、堕落先輩が声をかけてくださいました。研究室の前でした。
「探したよ、タマキ」
「え? 熱でもあるんですか、先輩。先輩から声をかけてくださるなんて」
堕落先輩は私の突っ込みに応えてくださいませんでした。
「ちょっと場所を替えていいかな」
「はい」
中庭へ移動しました。並んで歩きながら、堕落先輩がおっしゃいました。
「タマキは、ボクの先輩と仲がいいのか?」
「先輩の、先輩ですか」
エスノ先輩のことだとすぐに分かりました。
「そうですね、『西洋音楽史』ではお隣りですし、バリのおみやげもいただきましたし」
「そうか・・・」
堕落先輩は何か考え込んでおられる様子でした。
「なんか様子がおかしいとか、感じたことはなかったか」
「特別そんなふうには・・・先日の『なんで逃げたのよ』は別ですけど」
「そっか」
堕落先輩は顎に右手を当てられ、左手は右肘を押さえていらっしゃいました。
「ありがとう、タマキ。時間を取ってくれて」
「いいえ」
行ってしまわれました。先輩方の間で、深刻なことがあったのかもしれないとは思いましたが、もちろん私にはそれが何かは分かりませんでした。堕落先輩にそのことをうかがうのは、先ほどのご様子からはばかられました。
* * * *
次の「西洋音楽史」では、スメタナとドヴォルザーク、チェコを代表するふたりの作曲家を取り上げることになっていました。
いつもの席に座っていると、エスノ先輩の声がしました。なんだか元気がなさそうに聞こえました。
「タマキちゃん、おはよう」
「おはようございます」
と、私はエスノ先輩を見てびっくりしてしまいました。肩を越えるくらいの長さだった髪を、ショート・カットにされていたからです。服装もいつものような民族的なものではなく、ダーク・グリーンのジーンズの上に、茶色の短いコートを着ておられました。服装については、だんだん寒くなってきたからかもしれませんが、髪を切られたことは寒くなってきたからではないことは明白でした。
いつも目立っていらした先輩がここにおられるなんて、私以外は誰も気づかないのではないかと思いました。でも、実際は私の他にもうひとり、堕落先輩は気がつかれたようでした。こちらをしばらく見ていらっしゃったので。
「タマキちゃん、私、どうしよう」
「え?」
エスノ先輩はとても弱気になっていらっしゃるようでした。こんなエスノ先輩を見たのは初めてのことでした。
「何があったんですか、先輩」
何かあったのは間違いないので、私はこう訊いていました。
「ごめん、タマキちゃん」
エスノ先輩はうつむかれたまま、小さな声でおっしゃいました。
「私から話しかけたのに、今は何も言えないや」
「先輩・・・」
エスノ先輩は、この日はほとんどうつむかれたままだったと思います。スメタナの『モルダウ』が流れても、ドヴォルザークの『交響曲第9番“新世界より”』の第2楽章と第4楽章のさわりが流れても。ご存じなのは間違いないと思いましたが、口ずさまれることはありませんでした。
講義終了後、堕落先輩がこちらにいらっしゃいました。
「よう、タマキ。元気か」
気のせいかもしれませんが、少し声がかすれているように聞こえました。
「はい、おかげさまで」
堕落先輩はエスノ先輩の方に向き直られると、耳元で何かおっしゃいました。私には「今日は学食に来てくださいね」と聞こえました。
おふたりには申し訳ないと思いながらも、どうしても気になってしまい、私は昼休みに1号館の学食へ行ってみました。学内には3箇所ほど学食と呼べる場所がありますが、堕落先輩が言われる学食は1号館のものであると私は知っていました。
学食でお昼を取るつもりはなかったので、私はクリームパンを食べながら、小さいパックの牛乳を飲みながら、通路側から中をのぞいてみました。
混んでいる時間帯だったので、どこにいらっしゃるのか分からずにきょろきょろしてしまいましたが、やがて学食内のうしろ側にあるふたりがけのテーブルに先輩方がいらっしゃるのを見つけました。堕落先輩は元気な様子で話されているようでしたが、エスノ先輩は朝と変わらず元気をなくされているようでした。何を話されているのかはもちろん分かりませんでした。
私は研究室に用事があったことを思い出し、ほどなくその場を離れました。エスノ先輩が元気をなくされているのには、堕落先輩が関係されているのは間違いないようでした。私はエスノ先輩が大声で「なんで逃げたのよっ」とおっしゃったことを頭に浮かべていました。
* * * *
今回の「西洋音楽史」は、バルトークとグリーグを取り上げることになっていました。
エスノ先輩は私より先に講堂にいらしてました。
「タマキちゃん、おはよう」
「おはようございます」
「なんだか頭が寒いわ」
エスノ先輩は先週よりも元気そうにされていましたが、それでも私が先輩に抱いているイメージにはまだ遠い感じでした。
「私、しばらく来られなくなると思う」
「え? またどちらかにご旅行でも」
私は明るく返していました。
「今回は違うの」
エスノ先輩は笑顔になろうとしていらっしゃるようでしたが、うまくいったようにはお見受けできませんでした。
「先輩」
「何?」
私は少し間を置いてしまいましたが、思い切って言いました。
「私は先輩に何があったのか分かりません。でも、先輩が何かをすごく悩んでいるんだと思っています」
「タマキちゃん・・・」
「私にとって先輩は、尊敬できる、憧れの人なんです。いつも元気でいらっしゃって、堂々とされていて、自分というものをしっかりとお持ちで、こうだと思われたならその道をまっすぐに歩いて行かれる、そんな人だと感じているんです」
「誉めすぎだよ、タマキちゃん」
「いいえ、そんなことないです。だから、私が言うのはたいへん僭越だと思うんですけど、先輩には、そんな顔していてほしくないんです。いつものように元気に、堂々としていてほしいって、私は思います」
エスノ先輩はハンカチを取り出され、目頭を押さえていらっしゃいました。
「ありがとう、タマキちゃん」
エスノ先輩はそうおっしゃると立ち上がられました。
「今日はタマキちゃんに挨拶をしに来ただけなんだ。だから、これで失礼するね」
「先輩・・・」
「タマキちゃんのおかげで、元気が出てきたみたい」
少し涙ぐんでいらしたようですが、先輩は微笑んでくださいました。
「あの男に見つかる前に、行くね」
確かに、堕落先輩はまだお見えではありませんでした。
「あいつも、タマキちゃんも、面白い人だね。同じようなことを言うんだもん」
「え?」
堕落先輩も、エスノ先輩にとって「面白い人」になったなんて。
「じゃあね、タマキちゃん」
そうおっしゃると、エスノ先輩はまっすぐに講堂を出て行かれました。堕落先輩は講義開始ぎりぎりに来られましたから、このときはたぶんエスノ先輩とは会われていないと思います。
* * * *
エスノ先輩とは、年内に直接お会いすることはもうありませんでした。
「西洋音楽史」は、こう言ったらなんですけど、年度末の試験さえきちんと受かれば、あとは欠席しようが寝てようがなんとでもなる科目でしたので、特に問題はないと思いました。それでも、エスノ先輩のことが気がかりであることに変わりはありません。
私はどうにか堕落先輩を捕まえて、どうなっているのかうかがいたいと思いました。ただ、第三者の私がしゃしゃり出ていくことはできません。それに、堕落先輩は例によってすぐにいなくなってしまわれ、そもそも捕まえることはできませんでした。電話番号を教えてくださいませんでしたし。
それでも、実は12月の上旬頃に、私はエスノ先輩を見かけたことがありました。
学内ではなく、私にとっては帰りの電車の中でした。
声をかけようと思いましたが、エスノ先輩のすぐそばに堕落先輩がいらっしゃることに気がついたので、やめておきました。おふたりは堕落先輩の最寄り駅で降りていかれました。堕落先輩の表情はよく見えませんでしたが、エスノ先輩は楽しそうな笑顔をされており、私が知っているいつものエスノ先輩に戻られたように見えました。自分のことはともかく、私は嬉しくなりました。きっとエスノ先輩の悩みは解決されたのだと思いました。
* * * *
堕落先輩は年内の最後の講義まできちんと出席されていました。
年内最後に取り上げられたのはプロコフィエフの『交響曲第5番』で、第4楽章を初めから終わりまで聴きました。疾走感があって、これまで聴いてきた曲のどれよりも個性的で、独特の響きがあって、私はとても好きになりました。20世紀の曲だからかもしれません。冬休みになりますし、図書館で探して見つからなかったら、年明けにでもまた堕落先輩にお願いしてみようかと思いました。
講義が終わると、堕落先輩が私の方へ来てくださいました。なんだかひどくやつれてしまわれた。私はそう感じました。
「よう、タマキ。元気か」
「はい。・・・先輩は調子が悪そうですね」
「タマキには隠せないなあ」
「いえ、誰が見ても分かると思いますよ。いつもよりずっとひどい顔です」
「んー、確かに、とても疲れているなとは思ってるよ」
「どうかされたんですか?」
「タマキが心配してるだろうからって、今日は伝言を頼まれて来たんだ」
私は涼しい顔でこう言いました。
「ああ、彼女さんのことですか」
「彼女さんて・・・」
「『西洋音楽史』で、私と並んで講義を受けてくださる、素敵な先輩のことです」
「不思議な衣装で目立つ人・・・」
「違うんですか?」
堕落先輩はばつの悪そうな表情をしておられました。
「先輩方、この間おふたりで電車に乗っていらっしゃって」
「見られていたのか・・・」
「先輩の最寄り駅で降りて行かれて」
「もういいって」
「ただの仲よし、というわけではなさそうですよね。特別なおみやげをいただいたようですし、バリ島の」
「どうして知ってるんだ?」
「彼女さんは私のお隣ですし、『なんで逃げたのよ』の日でしたから、よく覚えてます」
「なるほど。恐ろしいことだ」
「何がです?」
「どちらも敵に回すのはまずい」
私はその言葉にはかまわずに言いました。
「彼女さんは、5月頃から先輩に興味があるっておっしゃってましたから、何か間違っておつきあいでもされたらたいへんだなって思ってました」
「ああ、ボクのことが心配だと」
「そうじゃありません。彼女さんのことに決まってます」
「そうですか」
「当然です。彼女さん、とってもまっすぐな方ですよね。こうと決めたられら一直線、ていう気がします。私もかくありたいって思っています」
「タマキも民族衣装っぽいの、着たいと・・・」
「違います。まっすぐに、です。それに、好きなものをちゃんと好きだっておっしゃれるような、素直なところです」
「それは、そうなのかな・・・長所かもしれないな」
「あんなに素敵な彼女さんが、こんなに怪しい先輩と、だなんて、どこで間違われたんでしょうね」
「間違い、か。あまりいじめないでくれよ、タマキ」
「彼女さんを見習って、素直になっているんです」
「あ、そ」
堕落先輩はそっぽを向いて「チェッ」とおっしゃったようでした。
「先輩って、私とはまともに会話してくださらないですよね」
「え」
「茶化されてばかりで、本音が分かりにくいです」
「誰かにも最近同じようなことを・・・」
「どなたかにも言われちゃうほどなんですか。反省された方がいいですね、先輩」
「う」
堕落先輩は少しうなだれておられました。反省されたのかどうかは分かりませんでしたが。
「もう大丈夫だよ、だってさ、タマキ」
堕落先輩は、気を取り直されたようにエスノ先輩からの言葉を伝えてくださいました。
「そうですか。それはよかったです。私、嬉しいです」
「来年、また講堂で会おう、だってさ」
「分かりました。よろしくお伝えください」
「了解」
「先輩」
「ん?」
「お疲れのようなら、よく休んで、早く元気になってくださいね」
「そうだな」
「彼女さんに、心配かけちゃダメですよ」
「ああ」
「私も心配してあげますから」
「やっぱり、面白いヤツだな、タマキって」
「そうみたいですね。彼女さんにもそう言われました」
「そうなの?」
「はい」
私はエスノ先輩の言葉を思い出していました。エスノ先輩が堕落先輩と私を評価してくださった、最上級の誉め言葉のことを。
「タマキには、ずいぶん世話になっちゃったかな」
「でしたら、先輩に貸しにしておきます」
「そっか。なら、いつか借りを返すよ」
「期待しないで、お待ちしておきます」
「そのうち、ジャズの鑑賞会でもやろうか」
「本当ですか! それは楽しそうですね。アルコールつきですか?」
「いや、やるなら昼間だな。アルコールは抜きで」
「あれ、それは残念かも、です。昼間からでもいいと思いますけど・・・」
堕落先輩は苦笑いをしていらっしゃいました。
「じゃあ、よいお年を」
「はい。先輩も、よいお年を」
堕落先輩は正門の方へ向かわれました。お帰りになるのだと思いました。私は研究室に向かいました。
息がとても白くなる季節になっていました。