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駅前のロータリーでスクールバスを降りるころには、俺はすっかり調子を持ち直していた。 あの声も、もう聞こえてはこない。
それでも心配してくれる三人の手前、すこしだけベンチで休憩をしてから移動する。
近くのスーパーに立ち寄り、寺野さんを先頭に俺と飯谷がワゴンを押して後に続く。
なれた様子で効率よく売り場を回る寺野さんを見ると、彼女が普段からどれだけこうした手伝いを繰り返しているかがよくわかった。
途中、チョコクランチとビールを買い物かごに忍ばせようとした三田ちゃんと飯谷が寺野さんに無言で叱られたのを除けば、実にスムーズに買い出しは終了した。
「タイムセール、間に合ってよかったねぇ」
ニコニコして三田ちゃんが言う。 それは彼女自身がそう思うというよりも、おひとり様ひとパックまでの特売の牛肉を四人で買えたことに内心喜んでいるであろう寺野さんの気持ちを代弁したものだ。
「あんなに混むものなんだな」
特売コーナーに群がる主婦たちの威圧感を思い出して、俺はげんなりと口にした。
それを見ていた寺野さんが、意地の悪い笑みを浮かべる。
「なに? 乗り物だけじゃなくて、人ごみでも酔っちゃうひと?」
あのときハンカチで汗をぬぐってくれた女性とは、まるで別人のようだ。
「おい! そんなことより、オレの分だけなんか重くね?」
背後でそう声を上げたのは飯谷だった。
三人そろって振り返ると、サンタクロースのような袋を提げた状態で、飯谷がぜぇぜぇと息をしている。
サンタ袋の正体は寺野さんがマイバッグと一緒に持参していた風呂敷を結んだものだが、確かに大きく膨らんで重そうだ。
「みんな両手使ってるだろう?」
三田ちゃんは結局自腹で買ってしまったお菓子の入ったレジ袋を自慢そうに掲げ、寺野さんは野菜と調味料を入れたマイバッグを肘から提げている。
かくいう俺は、これまた寺野さんの持っていた手提げ付きの紙袋を両手で抱えるようにして持っている状態だ。
「さっき買ったサラダオイルとか、米とか、ぜんぶオレのに入ってねぇ? それに加山、お前なんでそんな軽そうな紙袋を抱えてんだよ」
「玉子が入ってるんだよ」
軽々と持ち上げて見せると、飯谷がむすっと顔をしかめた。
「わかったから代われよ!」
「俺はいいけど、お前には割れ物は任せられないってさ」
「誰がそんなこと決めたんだよ」
「あたし」
俺の隣で、さらっと寺野さんが言い放った。
飯谷は俺と彼女をちらちらと見比べるように視線を動かした後、何かを吹っ切るようにずんずんと大股で歩き出す。
「あ~も~! わかったよぉ!」
「センパイ、ファイトぉ!」
先頭に立った飯谷の後ろを、ちょこちょこと三田ちゃんがついていく。
俺と寺野さんも、後に続いて歩きだした。
「あんたさ」
「うん?」
「コーヒー、嫌いなの?」
「どうして?」
「さっきみんなでお茶したとき、一人だけ紅茶だったから」
互いに顔を合わせるでもなく、ぼんやり前を見ながらの何気ない会話だった。
それにしても、寺野さんはこうみえて結構細かいところを見ている。
「嫌いっていうより、おいしいと思ったことがないんだ。 紅茶は好きだけど」
好きといっても、詳しいわけじゃない。 緑茶と紅茶とコーヒーを選ばされたら間違いなく紅茶にする、という程度のものだ。
「ふうん」
その程度の話題には、この程度の気のない返事がお似合いだろう。
先を行く二人が、くるりとこちらに向き直る。
「マキちゃん、おもーい」
猫背になった三田ちゃんが甘えた声を出す。
「自分で買っといて、なに言ってんのあんたは」
「加山ちゃん、おもーい」
脂汗を流しながら、飯谷がしんどそうに言う。
「そうか、がんばれ」
さらりと返す俺に、飯谷がじっとりとした視線を投げかけてくる。
「ほら、もう着くから」
今いる小高い場所から見下ろすように言う寺野さんの視線の先を追うと、ゆるやかに下る道の向こう、民家が密集する場所を少し越えた場所に、背の高い生垣に囲まれた瓦葺二階建ての立派な木造家屋が見えた。
すぐ隣に建つ離れは、それだけでも一般家庭の一戸建てよりも大きな三階建で、その脇には平屋の長々とした横たわり、生垣の角にはバスでも並べるのかと思える巨大なガレージがシャッターを連ねている。
「おお」
感嘆の声が飯谷の口をついた。
「ですよね? やっぱりですよね?」
隣で妙にハイテンションな三田ちゃんが飛び跳ねる。
「なによ」
言ってみなさいよ、とばかりに寺野さんに睨まれたのはなぜか俺だった。
「いや、御屋敷だなぁってさ」
どこかで見たような屋敷だ。 だが、漆喰の壁に囲まれて世界から切り離されたようなあの家に比べて、きれいに刈り込まれた生垣に包まれた寺野さんの家は暖かさと清涼感に満ちているようにみえた。
これこそ隣の芝は青い、というのかもしれないが。
「べつに、全部がぜんぶウチじゃないよ。 平屋のほうは会社の寮だし、離れは事務所になってる」
寺野さん、全部が全部じゃなくても、十分すぎるよ。
なんだか言い訳がましく説明する寺野さんをみて、思わず頬が緩んだ。
「池に錦鯉とかいそうだな」
飯谷のイメージはありがちだが、とてもしっくりくる。
「錦鯉はいない。 ミドリガメくらいはいたけど」
池はあるんだね。
「あと、あれがありそうでしょ? あの、カコーンってなるやつ!」
三田ちゃん、それは獅子脅しのことかな?
「ないわよ、だいたい、あんたウチの庭がどんなだか知ってるでしょ」
ああ、さすがにそれはないのか。
くだらない会話を続けるうちに、俺たちは門をくぐって母屋の前まで来ていた。
玄関の大扉を引いた先に突然、龍虎睨みあう屏風が現れる。
「ただいま」
ごく自然にそういいながら脇に荷物を降ろして、寺野さんが靴を脱ぎ始める。
「みんなも、上がって」
言われて、玄関先に立ち尽くしていた俺たち三人が土間へと進む。
三人が横並びで十分に広がれるだけの大きさだ。
「なんか、湯の張ってない銭湯みてえだな」
ぼそりと言った飯谷の声は、妙に緊張しているようだった。
そこへ、とたとたと床を裸足であるく音がして、Tシャツに短パン姿の男の子が現れる。
「ねーちゃんおかえり。 ハラへったぁ」
おなかの辺りに手を当てて、あくびに目を細めながら寺野さんのほうに歩いていく。
「イチ、あんたまたそんな恰好で歩き回って」
「ただいまイチくん」
三田ちゃんが笑いかけると、イチと呼ばれた男の子もぱっと明るくなった。
そしてようやく、三田ちゃんのその向こうに立つ俺と飯谷に気づいたようだ。
「あれ、ねーちゃんのトモダチ?」
友達という単語に、寺野さんはやや思案するように視線を持ち上げる。
「あ~、まあそんな感じ。 ほら、挨拶しな」
そう言って、イチ少年の隣に立つと、頭を上からぐいっと抑えて下げさせた。
「あの、ハジメマシテ。 寺野一です」
ぎこちない挨拶だったが、いやいやではなく、やや人見知りをしたせいだろう。
「弟。 イチ、この人たちは姉ちゃんの大学の先輩」
投げりに聞こえる紹介の後、靴のかかとを踏んで抜き散らした飯谷が、イチの前に屈みこんで言う。
「よう、オレは飯谷。 よろしくね」
顔を近づけられたイチ少年は、口を横一文字に結んだまま頷いて応える。
そのあと、逃げるように少年の視線が俺のほうに流れたてきた。
さてどうしたものかと逡巡した俺に、飯谷がじれて声を出す。
「ほれ、加山も」
せっつかれて、俺は首の後ろに手を当てて軽く会釈して見せる。
「あ、加山です」
「……なんで敬語?」
呟く姉と弟が、揃って眉を寄せた顔で俺を見た。
ああ、この二人、間違いなく家族なんだな。
「それよりねーちゃん、メシ~」
思い出したように、イチ少年が寺野さんの服の裾を引く。
「わかったから、あんたは部屋に戻ってな」
「イチくん、ゲームしようよ!」
引きはがされるように離れた寺野さんに代わって、三田ちゃんがイチ少年の肩に手を置いて言った。
「えー。 ミタちゃん弱えーじゃん」
不満そうな少年に対し、両手を腰に当てて三田ちゃんが胸を反らす。
「そんなこと言うと、宿題みてやんないぞ」
「ミタおねーちゃんの好きなやつにしよう!」
ころりと態度を変えたイチ少年に手を引かれて、三田ちゃんがとことこと廊下を進んで階段を上がっていく。
「まったく、懐いちゃってまあ」
二人を見送りながら呆れたように言う寺野さんに、廊下の向こうから声がした。
「おかえりなさい真姫さん」
見ると、白い割烹着に身を包んだ妙齢の女性が立っている。
やや艶の薄い黒髪を一つに結び、静かに笑う口元に小さなほくろがひとつ。
意外だったのは、その女性を前にした寺野さんが背筋を正してまっすぐに頭を下げて見せたことだ。
彼女の長い黒髪が、耳の後ろからさらりと頬へ流れる。
「おそくなりました」
「あらあら、いいのよ。 それよりも、そちらの方は?」
女性が困ったように笑い、俺たちのほうに視線を移す。
「大学の先輩です」
「まあそうでしたの」
言いながら、女性が玄関先で居住まいを正して正座する。
「はじめまして、真姫の伯母です。 この娘がお世話になっております」
指をついて頭を下げる伯母さんに、飯谷が大荷物を脇に玄関で膝を折った。
俺も一瞬だけつられたが、まだ土間に立っていることを思い出して留まる。
「ど、どうも」
飯谷の反応は、さっきのイチ少年と大差がなかった。
「はじめまして」
かくいう俺も、少し落ち着かない気分だ。
顔を上げた伯母さんが、口元に手を当てて柔らかな笑みを浮かべる。
「あらあら、ごめんなさい。 そんな大荷物で立たせたまま。 さぁどうぞお入りください。 それは私が持ちますから」
言いながら、飯谷の荷物に手を伸ばす彼女を見て、飯谷が弾かれたように立ち上がる。
「いえ! めっそうもない! これはこのボクが、このままお運びしますので!」
このボクってお前。
「まあ頼もしい。 それじゃあお言葉に甘えて、御台所までお願いしていいかしら」
「どこへなりとも!」
小さい子どものやせ我慢をほほえましく見つめる母親のような伯母さんのあとを、鼻息を荒くして飯谷がついていく。
「はぁ」
「ふぅ」
そろって息をついたのは、残された俺と寺野さんだ。
お互いの視線がぶつかって、寺野さんがぽつりと言う。
「あんたも上がったら?」
「お邪魔します」
ようやく靴を脱いだ俺は、寺野さんに連れられて台所に向かった。
彼女は入り口わきのテーブルを指差す。
「そこ、置いといてくれればいいから」
言われるままに、俺は紙袋をその上に降ろした。
「どうもありがとうございました」
先に荷物を運びこんでいた飯谷と俺に、伯母さんが頭を下げる。
「いえいえ」
にやにや顔で飯谷が小さく手を振った。
「真姫さん、お二人を客間に案内してくださる?」
「はい」
あの寺野さんが“はい”だ。
「へえ」
「ほう」
素直に感嘆する俺と、何かに納得する飯谷。
俺たちの脇を通り抜けて廊下に出た寺野さんが、こっちをじっと見る。
「なに? ほら、こっち」
廊下の先を指差して、さっさと歩き出す。
ここまで態度が違うのも、これはこういうものだと納得するしかないのだろう。
通されたのは、畳敷きの客間だった。
部屋の中央に低いテーブルが置かれ、土壁を背にして大型のテレビが置かれている。
「適当にして待ってて。 あとで飲み物持ってくるから」
「お構いなく」
俺が遠慮しようとした横で、飯谷が落ち着かない様子で言う。
「何か手伝ったほうがよくないか?」
「料理、できるの?」
「ごめんなさい」
寺野さんに冷静に返されて、飯谷が後頭部に手を当ててうなだれた。
「ごめんね、邪魔しに来たみたいで」
俺が言うと、彼女はじっとこちらを見てから口を開く。
「……弟の相手、してもらえる?」
「任せてよ!」
飯谷がすぐさま生き返った。 俺も頷いて返す。
「もちろん」
寺野さんが階段の下から、二階に向かって呼びかける。
「イチー、ゲームこっちでやんな。 あとカレンも、降りてきて」
どたどたと足音がして、踊り場からイチ少年がこちらを見下ろす。
「いいの、ねーちゃん?」
「今日は特別、カレンもいい?」
「はーい」
三田ちゃんの声がして、すぐに二人がそろってゲーム機を抱えて客間にやってきた。
「いいね、イチ。 調子乗ってバカ騒ぎするんじゃないよ」
「ラジャー!」
すでに調子よく敬礼を返したイチ少年が、客間のテレビにゲーム機のケーブルを接続し始めた。 それをまさしく困った弟を見る目で見送って、寺野さんが廊下に戻る。
「じゃあ、あとはお願い」
そう言われた俺は、ああ、とだけ言って頷いた。
テレビの前には、すでにイチ少年と三田ちゃんと飯谷が並んでいる。
「へへへっ。 こっちのテレビのほうがでっかくて迫力あるんだよな」
ビデオ1と表示された画面に、見覚えのあるゲーム会社のロゴが映し出される。
「よーし、勝負だミタちゃん!」
「ふふん、かかってらっしゃい」
なぜがお姉さま口調になっている三田ちゃんとイチ少年が始めたのは、上から落ちてくる色違いのブロックを、色ごとに四つ並べて消すパズルゲームだった。
二人は流れるようなスピードで、どんどん組み合わせてブロックを消していく。
「へぇ、うまいね二人とも」
感心したのは、二人のすぐ横で対戦を眺めていた飯谷だった。
ブロック置き場所や落ち方を工夫して、連続で消すことで相手の陣地に邪魔な灰色のブロックを送ることができるようだ。
見ている限りでは、消すスピードは三田ちゃんが早いが、イチ少年のほうが一度のアクションで連続させるのが上手い。
あれよあれよと画面の上までブロックが積み上がり、三田ちゃんの陣地のブロックが花火のように弾けた。
「きぃ~、負けたぁ! いっぱい練習したのに~」
コントローラーを抱えたまま、三田ちゃんが後ろにごろんと倒れる。
「おれに勝とうなんて十年はえーぜ」
得意げにコントローラーを掲げるイチ少年。
「ようし、今度はオレの番だ! 三田ちゃんの仇はうってやるぜ!」
「センパイ、お願いしますぅ」
待ってましたとばかりに、三田ちゃんからコントローラーを受け取った飯谷がテレビの前に胡坐をかく。
「にーちゃん、つえーの?」
「おうよ、壁大魔神と呼ばれた飯谷さまの実力を見せてやるぜ」
「おお……、なんかすげえ」
そのゲームは壁が出来てちゃダメなやつじゃないのか?
「ふたりともがんばれー」
誰も飯谷に突っ込まないまま、二人の対戦が始まった。 自身満々なだけあって、飯谷は慣れた操作でブロックを積み上げては、きれいに消していく。
「選手交代?」
そう言って障子をあけたのは、手にお盆を持った寺野さんだった。
どうやら人数分の飲み物を持ってきてくれたようだ。
俺はテーブルの前に腰を下ろした体勢で、彼女からお盆を受け取る。
この香からすると、中身はコーヒーのようだ。
「ありがとう」
俺がどういたしましてというより早く、三田ちゃんが畳の上を四つん這いでこちらに来る。
「マキちゃんお手伝いは?」
「ああ、後は伯母さんがやってくれるって」
そのやり取りを、俺はお盆の上のカップをテーブルに配りながら聞いていた。
テレビのほうに向いたまま、イチ少年が声を上げる。
「ねーちゃん、おれもコーヒー?」
「あんたはほうじ茶」
「えー、なんでだよ」
「寝れなくなって、またあたしの部屋にくるから」
「い、言うなよそーいうの!」
弟のわがままを慣れた口調で受け流す寺野さんを見ながら、俺は自分にもし姉がいたのなら、こんなふうだったのかな、などと想像した。
そして、じわりと脳裏に浮かびあがった少女の面影を、それはないのだとかき消す。
「うりゃ、隙あり!」
飯谷の掛け声と同時に、イチ少年の陣地に大量のブロックが積みあがる。
花火が弾けて、今度はイチ少年が大の字に倒れた。
「あー! やられた、くそ!」
「へっへー、油断大敵ってな」
子供相手に得意げに飯谷が笑うと、イチ少年が飯谷に向けてコントローラーを突き付けながら起き上った。
「三本勝負だ!」
「おう、いいぜ。 って、加山もやるか?」
飯谷が肩越しに俺を見る。 俺は、静かに首を振って見せた。
「いや、俺はいいよ」
「え~、たのしいのに」
三田ちゃんが声を上げるが、俺は苦笑いを作って答える。
「下手なんだよ、俺」
本当はテレビゲームなんてやったこともない。
なんとなく見ていて遊び方は分かるが、ついていけそうになかった。
「よえーならつまんねぇよな」
そう言って、イチ少年がくるりと胡坐のまま回転してこっちに這いずってきた。
「にーちゃん、ちょっと休憩」
そう言って、テーブルの上に置かれたカップのうち、アニメのキャラクターがプリントされたマグカップを手に取った。
イチ少年専用のカップなのだろう。
三田ちゃんも飯谷も、テーブルを囲んで運ばれてきた飲み物に手を伸ばす。
「ねーちゃん、今日のメシなに?」
「カレー」
「またかよ」
「いやなら、伯母さんにそういってきな」
「あ、ねーちゃんが作ったんじゃねえのか。 ならいいや!」
心の底からの純真な笑顔を見せたイチ少年の顔面に、襲いかかる蛇のように素早く寺野さんの右手が伸びて顔面を鷲掴みにした。
「イチ、どういう意味だい」
スポーツや格闘技全般に疎い俺でも知っている。 これはアイアンクローだ。
ぎりぎりと締め上げる音まで聞こえてきそうなほど見事な光景だった。
突然のことに飯谷はコーヒーを飲みながらむせ返り、三田ちゃんはおろおろする。
「ケンカだめぇ!」
三田ちゃんが寺野さんの腕に絡みつき、イチ少年は何とか彼女の手から解放された。
そのままテーブルに突っ伏し、土下座するような姿勢でうめき声をあげる。
「もうしわけございませんでした」
「よし」
お許しが出たものの、イチ少年は正座のまま背筋を伸ばして、静かにマグカップを傾けている。 皆、黙ったまま通夜のような空気の中で飲み物を口へ運んだ。
「夕飯までまだ時間があるから、遊んでて」
そう言って、飯谷と三田ちゃん、イチ少年の空になったカップを手際よくお盆に乗せて寺野さんが立ち上がる。
俺のほうを一瞥し、少しだけ眉根を下げる。
「やっぱり、紅茶のほうがよかった?」
あまりカップの中身が減っていないことを、俺は少し申し訳なく思う。
「いや、ありがとう」
そう答え、カップを下げようとするのを手を添えてやんわりと断った。
寺野さんがお盆を持って台所へと向かった後、急に元気を取り戻したイチ少年が声を上げる。
「ようし! さあ続きやろーぜ」
その呼びかけに、三田ちゃんがすぐに反応した。
「じゃあ、みんなでできるやつにしよう。 センパイとマキちゃんも仲間に入れてさ」
「え~。 ねーちゃんも全然ゲームしないぞ」
となると、やれるものなど限られてくる。
いや、むしろ俺と寺野さんは頭数に入れないでくれて構わないと思う。
「じゃあコレ!」
そう言ってニコニコと三田ちゃんが掲げたのは、三つの転がるサイコロの上に、玉乗りのようにして立つキャラクターが描かれたゲームソフトだった。
「おお“スゴロ国取り”かよ」
どうやら飯谷はそのゲームを知っているらしい。
確かにポップな書体で大きくタイトルが書かれている。
「しかも2だよツー!」
えーい、とでも言いたげにソフトを突き出して三田ちゃんが言った。
何をもって“しかも”なのかはよくわからないが、続編なのだからいろいろと改良されているのだろう。
「それ、ミタちゃんのいちばん得意なやつじゃん」
イチ少年が口をとがらせる。 ちゃっかり自分の得意なゲームを選んだことをずるいと思っているのだろうか。
「えへへぇ」
三田ちゃんの笑い顔を見ると、どうやらイチ少年の見抜いた通りの魂胆はあったようだ。
「加山も、これならいいだろ?」
飯谷に訊かれて、俺はとっさに断ることができなかった。
「それも、やったことがない」
「すぐにわかるって、要するにスゴロクなんだから」
軽い調子で言いながら、飯谷が俺の隣に来てコントローラーを握らせた。
三田ちゃんとイチ少年が、さっさとソフトを入れ替えてゲームを始める。
「今度は種目変更?」
戻ってきた寺野さんが、画面に映し出されたゲームタイトルを見て言った。
「センパイとマキちゃんも一緒にやろうと思って」
えへへと笑う三田ちゃんに、寺野さんは少しだけ困った笑みを浮かべる。
「たまにはいいか。 あんたどうするの?」
彼女が参加を決めたのは俺にとっては予想外で、なおかつ俺に話を振ってきたのはさらに予想外のできごとだった。
しかし、寺野さんを含めて満場一致となれば仕方がない。
「イチくん、やりかた教えてくれるかい?」
俺がそういうと、イチ少年は満面の笑みで頷いてくれた。