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 寺野さんの出した条件は“買い物を手伝え”というものだった。

 いつもなら家の近所のスーパーに自転車で買い出しに行くところが、三田ちゃんの保護者をかって出たために遅くなってしまった。

 大学の帰りしな、途中のスーパーでことは足りるが、量が多いので荷物持ちをしろというわけだ。

 それくらいなら、わざわざドスのきいた声で言うこともないと思うが、彼女にしてみれば三田ちゃんと飯谷の言うままになるのが気に喰わなかったのだろう。

 

 スクールバスに乗り込んで大学を出ると、もう赤紫がかった夕闇が街を包み込んでいた。

 そこかしこに灯る家屋の明かりとぼんやりと光る街灯が、バスの曇った窓ガラスの向こうにやわらかく浮かんでいる。

 前の座席では三田ちゃんが、はぁっと吐息で曇らせた窓ガラスに、人差し指で落書きをしていた。 あのキーホルダーの、猫だか狸だかわからない生物の絵だ。

 彼女の隣の座席から腕を伸ばした寺野さんが、三田ちゃんの絵に情けない眉毛を書き足した。

 ぷうっと頬を膨らませる三田ちゃんを見て、寺野さんが軽やかに笑う。


 あんな風に笑うんだな、寺野さん。

 そう思うと、二人を見つめながらふと頬が緩んでいる自分に気が付いた。


“も……い……かい?”


 遠くから、ふと声が聞こえたような気がした。

 思わず振り返ると、座席のヘッドレストの隙間から、後ろの席に座るメガネの男が、何事かと怪訝そうにこちらを見上げた視線とぶつかる。


 気のせいか。 いや、気のせいであってくれ。 

 学生たちで賑わう車内で、俺はひとりだけ隔離されているような孤独に襲われる。

 腿の上で握り合った両手に、ぐっと力がこもった。


 気のせいであってくれ。


 “もう、いいかい?”


 残酷なほどに、今度ははっきりと声がした。

 聞こえた。 聞いてしまった。


 祈るように組んだ手の中で、生ぬるい汗がじわりとわきあがる。


「……まぁだだよ」


 俯いてぎゅっと目をつむり、つぶやくように俺は口にした。


 頼む、頼む、まだなんだ。 まだ、なんだよ。


「加山、おまえ気分でも悪いのか?」


 目を開けると、隣の座席から飯谷が心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。

 こわばった頬を、粘ついた汗が一筋垂れていくのを感じる。


「顔色悪いぞ、乗り物酔いか?」


 飯谷の気遣いに応えたいが、今の俺は自分の両手さえ震えて思い通りにできない。

 そんな俺たちのやり取りに気づいて、三田ちゃんと寺野さんがシートの向こうからこっちを覗き込んできた。


「もうすぐ着くから、ほら、しっかり」


 情けない弟でも見るように、寺野さんがごく自然なしぐさでハンカチを俺の頬にそっと当てる。

 本当に情けないことに、そのときの俺はその親切な彼女を、その行為を払いのけたくて仕方がなかった。


 やめてくれ、さわらないでくれ。 まだ駄目なんだ。 頼むから、やめてくれ。

 聞きたくない。 ただ俺は、もう聞きたくないだけなんだ。



 あの声を初めて聴いたのは、夏の夕暮れだった。

 小学校の最後の夏休みにあのひとの両親に会い、あのひとの日記を読んだ俺は、自分がいったい何に巻き込まれようとしているかなんて、まるで知らないまま家に帰った。

 最寄の駅で降りて、いつもならバスを使う道を、じりじりと熱気を蓄えたアスファルトを踏みつけながら進む。


 肩から下げたバッグには、あのひとの日記帳のページと手紙がおさまっている。

 その内容を頭の中で反芻するたびに、じわりとこみあげてくる涙を、俺は精一杯の意地で堪えながら歩いた。

 今思えば、俺は声を上げて泣いてもよかったと思う。 でもあの時の俺には、ただ泣くという行為が、あのひとに何もすることができなかった自分には、あまりに身勝手なことに思えたんだ。


 緩やかな坂道を登りながら、夕暮れの空に浮かぶ月を見上げる。

 雲の差しかかった月に、昨夜の記憶がよみがえった。

 障子の隙間、細くて深い闇の中から、俺をじっとりと見つめる能面。


 蒸し暑い空気の中で、背筋を冷たいものが流れていく。

 心臓の周りを、冷えた血液がぐるぐるとまわる。


 あれはいったいなんだったのか。

 それから、あの日記帳の破り取られたページに記された“イジメサマ”とは何のことなのだろうか。

 考えたところで、俺にはわかるはずもない。 それ以前に知り得た情報があまりにも少なすぎた。

 それにこの時の俺は、あのひとが日記にぶつけていた数々の想いや、残された手紙に記されていた言葉を両手いっぱいに抱えていて、ほかのものに手を伸ばすゆとりなんてなかった。


 今にすれば、それがいけなかった。


 やがて民家が少なくなり、いつも利用しているバス停を通り過ぎると、左手に小高い丘の上まで続く、長い長い塀が見えてくる。

 見下ろす町並みに、ぽつりぽつりと明かりが増えていく。 遠くを走っていく自動車のライトが、川を流れる灯篭のように見えた。


 ふと、遠くで声がした。 風に乗るとはこういうことを言うのだろうかと思うほど、かすかだけれど耳元を通り過ぎていくような声。


 “もう、いいかい?”


 誰かが、かくれんぼをしているのか。 振り返るが、もちろん誰の姿もない。

 自分が上ってきた道が、ただ緩やかに続いている。

 塀の向こうから枝を伸ばす高い木が、さわさわと風に葉を揺らす。

 丘のふもとから吹き上がってくる風が妙に生ぬるく感じて、俺は少しだけ鳥肌が立つのを覚えた。


 行こう。 もうすぐ家だ。 早く帰ろう。


 胸の中にわずかに浮かんだ不安が、俺の足を急かす。


 “もう、いいかい?”


 また聞こえた。 しかし、今度は風に乗ってという感じではなく、はっきりとした声だった。

 薄気味悪くなって、俺はせかせかと小走りになる。 あわてて駆け出したい気持ちだったが、もし本当にかくれんぼをしている近所の子や、あるいは悪戯をしている誰かがいて、その姿を見られたら恥ずかしい、という見栄があったのだと思う。


 “もう、いいかい?”


 さっきよりも、はるかに近い場所で声がした。 これはもう、聞こえてくるという距離ではない。 すぐそこ、相手も俺の姿を視認できるであろう距離から、背中に呼びかけられたような感じだ。


 背後に、恐ろしいほど何かの気配がある。 真後ろではない。まだ距離はある。

 振り返っちゃだめだと自分に言い聞かせるが、せめてそれが“誰か”なのを確かめて安心したいという欲求が歩みを鈍らせる。


 走るか、振り返るか、逃げるか、確かめるか。


 徐々に足取りが重くなり、ついに俺は立ち止まってしまった。

 数メートル先の角を曲がれば、この塀が途切れ、門が現れる。 それをくぐればもうすぐそこは我が家の玄関だ。

 それは分かっている。 もうすぐそこまで来ているのだ。


 でも、いま背後にいるであろう何かが、もしこのままついてくるようなことになったら?


 そう考えると、確かめずには居られなかった。

 心拍が上がり、嫌な味の唾が喉から登ってくる。 指先がしびれてかすかに震え、鼻で呼吸をすることができない。

 俺は息を殺して慎重に、慎重に首を回し、腰をひねり、背後に視線を向ける。


 そのとき、それを見た。


 赤い着物を着た小さな女の子だった。 親指くらいの大きさに見えるほど遠くだったが、帯の結び目が見えたので、こちらに背を向けて立っているのだとわかる。

 おかっぱ頭をうなだれるように俯けて立っている。


 額から涌きだした汗が、するりと眉毛の上をすべって目に入った。

 一瞬、視界が汗でぼやけ、あわてて手で拭い取る。

 

 視界が開けた途端、息をのんだ。


 子どもが、手の平くらいの大きさに見える。

 こちらに背を向けたまま両足をそろえて立っているその子が、身じろぎもせずほんの瞬く間に、坂の下から間違いなくこちらに近づいている。


 叫び声が喉元まで出かかったとき、背後から別の声がした。


「悟さん」


 びくりと全身を震わせて振り返ると、そこには夕闇に佇む和服姿の女性の姿。


「どうしたのです、そんなに驚いて」


 小首をかしげる彼女に、俺はあわてて坂の下を指差した。


「あ、あの、あれ」


 く、か、と喉から妙な音を鳴らしつつも、何とか子どもの存在を伝えようとするが、そこにはもうあの着物の姿は影も形もなかった。


 その代わりに、坂の下から登ってくる車のライトがぽつりと見える。

 彼女は、どうやら俺がそのことを指差したのだと思ったようだ。


「ええ、今日はお父様にお客様がみえているの。 お迎えの時間のようね」


 やさしく微笑む彼女に、俺はそれ以上何を訴えることもできなかった。


「さあ、悟さん、おうちに入りましょう」


 袖からするりと差し出された鶴のような指先を、じっとりと汗ばんだ手の平で握り返す。 彼女は嫌がるそぶりも見せず、やさしくつないだ俺の手を引いて歩き出す。


「今日は、遅かったじゃありませんか。 バスには乗らなかったのですか?」


 叱られているわけではないのに、俺はただ俯いて頷くしかなかった。

 長い髪を花のように結った彼女の涼しげな目元が、やさしい弓を描く。


「でも、よかったわ。 ちょうど、バス停まで様子を見にいこうと思っていたところでしたよ」


 美しい笑顔を湛えた彼女の、花弁から零れ落ちる水音のような澄んだ声に黙って頷きながら、俺は手を引かれたまま門の前に立つ。

 門の作りのことを門構えというが、構えるという表現がふさわしいほど、いつみても大仰だ。 開け放たれた分厚く大きなそれは、まるで巨大な生物の口のようで、俺はどうしても好きになれなかった。

 そこからまっすぐに伸びる敷石の先に、玄関の明かりが見える。


「わたくしは、ここからお車をご案内しますから、悟さんはさきにお上がりなさい」


 そういって、俺の手の平から彼女の指がするりと抜けた。

 なにか言わなければ。 そう思うが、うまく口が動いてくれない。


「ありがとう、お母さん」


 ようやく、言うことができた。

 彼女はうれしそうに口元を持ち上げて、静かな微笑みで頷いてくれた。

 なんだか急に照れくさくなって、俺は駆け足で敷石を踏みながら玄関へと向かう。


 からからと玄関の戸を引き、敷居をまたいで土間へ入る。


「ただいま帰りました」


 上がり框までゆうに2メートルはある、がらんとした玄関の床板に俺の声が弾かれて高い天井へと吸い込まれる。


 俺が靴を脱いで板に上がった時、ちょうど右手に伸びた廊下の向こうから人の足音が聞こえてきた。

 玄関と廊下を隔てるように垂れさがった紺色の暖簾をくぐるように現れたのは、洗いざらしの作務衣をまとった、背の高い男だった。

 こけた頬、高く筋の通った鼻、尖った顎。 年齢の割に白髪の混じった鬣のようなぼさぼさの髪。 切れ長の目が、じろりと俺の姿を映す。


「帰ったのか」


「はい、お父さん」


 頭の上に重たい石でも乗せられたような気持で、俺は無意識に気を付けの姿勢をとっていた。

 俺がお父さんと呼んだ男は、なにも言わずに暖簾を手の甲で押し上げるようにして後ろに続く廊下を振りむいた。

 どすどすと床を鳴らして、高級なスーツに身を包んだ狸の置物のような男が姿を現す。 片手でパタパタと扇子を振りながら、にんまりと笑う。


「ではセンセー、よろしく頼みますよ」


 そう言って、狸が父の肩をばしばしと叩いた。

 薄く笑みを浮かべる父の表情が、俺には苦笑いにしか見えない。

 この狸、依然どこかで見た顔だ。 おそらくテレビのニュースかなにかで取り上げられていた記憶がある。


「おや、センセーこちらは?」


 狸の興味が俺に移ったのを見て、俺はあわててお辞儀をした。


「倅です。 ご挨拶しなさい」


「初めまして。 加山悟と申します」


 そういって、俺は背筋を伸ばしてもう一度深々と頭を下げた。 必要以上に畏まって見せたのは、この狸のことよりも父に言われたからだった。


「これはよくできた息子さんですな。 センセーの跡継ぎは心配いりませんな」


 感心したように笑って腹を揺らす狸に、父が耳打ちするように言う。


「山辺さん、倅の前で仕事の話は……」


 至って普通の調子で発した言葉だったが、その意味を理解したであろう狸の額が一気に汗をかいた。


「いやいや、これは失礼を」


 ハンカチで禿げ上がった額をぬぐいながら、山辺はそそくさと玄関へ向かう。

 父が自らの手で下駄箱から取り出した革靴を、ぺこぺこしながら受け取って履く。


「これはこれは先生、ここまでで。 いえいえ、お見送りは結構ですので」


 そういいながら、何度もお辞儀をして去っていく。

 開け放たれた玄関から、向こうに迎えの黒い車と、その傍らで雨降り花のように立つ母の姿がみえた。

 その母に山辺が頭を下げ、逃げるようにして乗り込んだ車が、赤いテールランプの尾を引いて走っていく。


「悟」


 振り返った父が俺の顔を見た。


「なにかあったのか?」


 そう訊かれて、俺は先ほど見た赤い着物の女の子を思い浮かべた。

 これを伝えるべきか否か、あるいは伝わるのか否かを思案して黙り込んでしまう。

 その姿を、父は腕組みをしながらじっと見ていた。

 こうして父に見られるたびに、まるで心の奥を、いいや、もしかすると俺自身さえ気が付いていないことまでも見通されているんじゃないか、そんな気持ちになってくる。


「悟、何年生になった?」


 息が詰まる思いがしていたところへ、突然、拍子抜けする質問が浴びせられた。

 この人は、俺の年齢や俺の成長などには興味がなく、おそらく普段は頭の片隅にさえもおいていないのだろう。


「来年から、中学校へ通います」


 そう答えると、彼は何かを思案するように顎先に手を当てて黙り込み、表情を険しくさせた。

 俺はその場を去ることもできず、車を見送った母が、こちらへゆったりと歩き来る姿を見つめていた。


草磐クサイワの家には、もう行くな」


 黙り込んでいたと思えば、発したのがそれだった。

 草磐というのは、俺が今日まで訪れていたあのひとの家だ。


「お母さんに、お土産を渡すようにと頼まれました」


 言い訳めいた言葉だったが、俺にできる精一杯の反論だった。

 しかし父はそんな言葉を意に介す様子もない。


「あれにも、もうやめるように言っておく」


 ぐっと、こぶしに力が入った。 父が母を“あれ”と呼ぶのが、俺はたまらなく嫌だった。


「いいな」


 この有無を言わさずに物事を決めるところも、たまらなく嫌いだ。

 俺はどうして、と尋ねたかったができなかった。 俺が口を開いたときには、もう父は俺に背を向けて暖簾の向こうへと消えてしまっていたからだ。

 そのとき、ちょうど母が玄関の戸を閉めてこちらを向いた。


「どうしました?」


 俺の様子に、父に何か言われたのだと察したのだろう。 心配そうな顔をさせたことが、かえって申し訳なく思えた。


「なんでも、ありません」


 できるだけ笑って、俺は首を横に振って見せたが、母の悲しそうな表情を見るだけの結果に終わった。

 いたたまれない気持ちになって、俺は背を向けて玄関の左手に続く廊下を歩きだす。

 本当は、母に、こんな態度を取りたいわけではなかった。

 素直に悩みを相談したり、わがままを言って叱られたり、日々の感謝の気持ちを正直に伝えたりしたいと思っていた。

 当たり前のように、家族でいたかった。

 でもそれができなかったのは、思い通りにならなかったのは、父でもましてや母のせいでもなく、俺自身が、ただどうしようもなく、餓鬼だったからだ。


 このとき俺は、父の言いつけを守らず、翌年も草磐の家に行くと決めていた。

 それがあのひとの想いを知った俺が、唯一できることだと思ったからだ。


 今は、そのことをなによりも後悔している。




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