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3

 俺が知りたいと答えると、母親はふっと微笑んだようだった。


「そうか」


 頷いておきながら、父親はしばらく黙り込む。 俺も黙ってその姿を見つめていた。

 ジジッと短く鳴いたセミが木の幹を飛び立つ。

 それに背を押されたように、父親はゆっくりと鞄の中から何かを取り出した。

 ひとまとめにして差し出されたのは、四つに畳まれた紙と長3の茶封筒だった。


 破り取られたページと、あのひとの遺した手紙であることは、言われずともひと目でわかった。


 受け取ろうと伸ばした手の指が震える。 ふと見ると、差し出す手も震えていた。

 緊張と後悔を混ぜ合わせたような気味の悪さが首筋を撫でる。

 親指で挟むように掴んだ紙と封筒が、かさりと乾いた音を立てた。 少し汗ばんだ手の水分を吸い取られるような乾いた紙の感触が伝わってくる。


 両手を添えて膝の上でそれを見つめた。 その紙を広げ、封筒を開ける踏ん切りがつかない。


「帰ってから、ゆっくり読みなさい。 どうしても無理なら、読まなくても良い」


 やさしく言われて、俺はそれを出来るだけ丁寧にポケットにしまった。

 俺が傍らに置いた日記帳を返すと、それは元通り鞄に納められる。

 それぞれが姿を隠すと、それまで張り詰めていた空気が穴を開けたようにほぐれていく。

 肌寒いくらいの緊張が抜け落ちたかわりに、昼の蒸し暑さがどっと流れ込んできた。

 能面のように思えたふたりの顔は、血肉の通った人間のものに戻っている。


 白昼夢のようだった。

 息を吸い込んでベンチから立ち上がると、めまいのような感覚も抜け落ちて、目の前の景色が色鮮やかにくっきりと浮かび上がる。

 それきり、俺たちは何も言わずに家に戻った。 実家に連絡をいれ、もう一晩泊めてもらうことを告げ、俺たちは何事もなかったかのように一緒に食事をした。


 風呂上りに、髪をタオルで拭きながら客間に入ると、すでに布団が敷かれていた。

 タオルケットを腹までかけて、俺はごろりと横になる。

 蛍光灯の傘の内側を、小さな蛾が羽ばたいているのが見えた。

 急激に眠りへと滑り落ちていく意識の中で、俺は閉じられる瞼の隙間から、自分を覗き込む人影を見たような気がする。


 次に意識を取り戻したときは真夜中だった。 両親はすでに眠ったようで、屋内の空気が動く気配はない。

 つけっ放しになっていた蛍光灯の灯りが、こころなしか薄暗くなっているように見えた。 玄関の柱にかけられた古い時計が、カツカツと時を刻む音がやけに大きく響いている。

 いま、この家で起きているのは自分ひとりだ。 そう思うと、鼻先からすっと眠気が抜けていった。

 俺は部屋の隅に置いた荷物を布団の脇に寄せ、昼間受け取った封筒を取り出す。

 読まなければ、という使命感のようなものに突き動かされたのではない。 こんな夜中でなくても明日の朝にでも落ち着いて読めば良いと、冷静に考えている自分を脇に立たせたまま、俺はそれが当然であるかのように封筒の口を切った。

 中には畳まれた便箋が一枚納められている。

 それを取り出しても胸のざわめきは感じられず、俺はくすんだ蛍光灯の下で静かに開いてみた。

 白い便箋に、紫がかったインクで記された文字は、間違いなくあのひとの筆跡だ。


 手紙の内容は、予感していたとおり俺への最後の言葉だった。


 あのひとが俺に伝えたかったであろう言葉が、小さく整った筆跡で綴られ、俺はそれを哀しさでも切なさでもない静かな気持ちで読み進める。

 だが、手紙の終わりに記された言葉を見たとき、鳩尾あたりから胸をこじ開けて、嗚咽が登ってきた。

 もうとっくに受け入れられたと思っていたあのひとの死を、もうこの世のどこにもあのひとが居ないのだという現実を、ただ思い出さないよう、ただ見ないように心の奥底に沈めていただけだったのだと思い知らされた。

 血の滲むような慟哭を吐き出しながら、俺は魂が一緒に溶け出してしまうのではないかと感じた。

 それでも、人間の感情は永久に同じかたちで有り続けることはできない。

 たとえそれが美しいものでも醜いものでも、身を切り裂くような痛みを伴ったとしても、自身から剥ぎ取り吐き出された感情は、やがて記憶になっていく。


 ひとしきり泣いた俺は、腫れぼったい瞼を何とか開き、ゆっくりと呼吸する自分の息遣いを聞いていた。 広げたままの便箋は、指の間でじっとりと湿っている。

 丁寧にそれを畳み、そっと封筒に戻す。

 ふと、もうひとつの紙が目に留まった。 日記帳の破られたページだ。

 封筒を仕舞って、そちらの紙を手繰り寄せる。

 心のどこかが欠け落ちたような感覚で、まるでそうすることが当然であるかのように俺は四つに畳まれたページを広げた。


『私は助かるかもしれない。 少なくとも、今は死んでしまうより、あの言葉を信じてみようと思う。

 これから毎日、お参りに行こう。

 まるで私を待っていたような、この出会いが幸運であると信じたい。


 イジメサマ イジメサマ

 どうぞ うらみをおはらしください

 すいじ せんたく かじ おかし

 どうぞ うらみをおはらしください』


 なんだろうこれは。

 俺がまず思ったのはそれだった。

 イジメサマ。

 なんのことだろう。

 それにこのおまじないのような言葉の羅列。 お参り、ということは何かの神様だろうか。


 かつてあの林で見た灰色の光景が、脳裏に浮かび上がる。

 枯れ木の周りを、手をつないでふらふらと回る子ども達。


 蒸し暑かったはずの空気が、肌寒いほど冷えていく。


「イジメサマ、どうぞうらみをおはらしください」


 無意識に呟いて、ふと背後に気配を感じる。

 蛍光灯の灯りがちりちりと点滅し始めた。

 べったりと張り付くように、俺の背中を見つめる視線を感じる。


 鼓動が激しくなり、心臓を締め付ける恐怖を跳ね返すように身体ごと振り返った視線の先、開かれた障子の隙間から闇が見えた。

 その暗闇の中ににったりと笑うふたつの能面が浮かび、俺をじっと見つめている。


 ふつりと蛍光灯が切れたように視界が黒く塗りつぶされ、俺はそのまま意識を失った。




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