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 小学校の最後の夏休み。 俺はあのひとの家に顔を出した。

 あのひとが居なくなってからも続けている行事だ。

 母親からお土産を届けるようにと言いつけられるのは口実で、あのひとの両親が俺の顔を見ると喜ぶから、というのが本音だ。

 俺自身は、気を遣わせるだけのような気がしていたが、顔を出すたびにあのひとと同じ笑顔を向けてくれることは正直嬉しかった。


「いつもありがとう、さあ、あの子にも会ってあげて」


 土産を受け取った母親が、すぐに俺を案内してくれた。

 言われるままに仏壇の中で微笑む写真に手を合わせて目を閉じるが、心の中は空っぽだった。

 ここにあのひとは居ないと、子供心に思っていたからだ。


「お盆の間は居られるの? あの子が帰ってきたとき、悟ちゃんが居てくれたら喜ぶと思うわ」


 盆には地獄の釜の蓋が開く、というやつだろうか。

 初めて聞いたときは「おねえちゃんは地獄なんかにいるもんか」と憤慨したが、年に一度でも死者を思い、その魂を感じることができるなら、それがどれほど遺された者の慰めになるのかなんて、小学生の俺には想像もつかないことだった。

 それに習慣として続いている年中行事など“続けることが目的”になっていくもので、是非を問われるようなものではないのかもしれない。


 あのひとの墓参りに行くというので、その日は夕飯をご馳走になり泊めてもらうことになった。

 翌日、三人で郊外の墓地へとやってきた俺は、ふたりに習って手を合わせる。

 やぱり、あのひとはここに居ないのだという喪失感だけが色濃く心に残った。

 墓参りを済ませたところで、俺は両親の様子がおかしいことに気がついた。

 うわの空というか、何か別のことを気に病んでいるような息苦しさが伝わってくる。


「悟くん」


 俺を呼んだ父親の袖を、母親が心配そうに引いた。

 その手をそっと袖から外して、父親は俺のほうへきて真剣な眼差しを向ける。


「大切な、話しがあるんだ」


 ただならぬ様子に、心配や不安を通り越して怖いと感じた。

 でもあまりに真剣なその顔を見て、俺は黙って頷くしかなかった。


 墓地を抜けて丘の上の公園へと歩く。

 舗装された歩道にアーチをかける木々の枝から、午前の明るい太陽の欠片がちらちらと降りそそぎ、吹き抜けていく清涼な風がシャツの襟を揺らす。

 黙ったまま、俺はふたりの背中について歩いた。

 公園の片隅に置かれたベンチに腰掛け、父親は俺を隣に座らせて深呼吸する。

 俺の喉が自然に大きく鳴った。


「悟くん、来年は中学生だね。 たしか、この近くの学校に通うんだろう?」


 何度も俺から話したことを確認するように言われ、ただ「はい、電車で」とだけ答えた。

 このふたりは、俺よりも熱心に俺が中学生になる年を指折り数えていたはずだ。


「あの子がね、書いていた日記が見つかったんだ」


 そう言って、供え物を入れてきた鞄を開け、一冊の日記帳を取り出す。

 両手でしっかりと持ち、その表紙から目を逸らせないまま、父親は続ける。


「遺品の整理、というか、あの子の部屋を掃除しているときに出てきた。 どうしようかとは思ったんだけどね、どうしても知りたくて」


 何を知りたかったのかは、あえて訊かない。

 俺が口を出していい事ではない気がしていたからだ。

 母親が鼻をすする音が聞こえた。 目を向けなくても、涙ぐむその表情が容易に想像できる。

 だから、俺はじっと日記帳だけを見ていた。 父親の顔も、見なかった。


「あまり、君は望まないことかも知れないが……」


 そう言いながら、日記帳が俺の前に差し出される。 一瞬、何を言いたいのかがわからなかった。


「君にも、知っておいてほしいと、私は思うんだ」


 読め、ということだろうか。 いや、読んでもいい、と言っているのだ。

 俺は少しだけ震える指で、日記帳を受け取った。 それほど分厚くもないのに、酷く重たく感じる。

 ようやくふたりの顔を見ると、緊張した表情でもなんとか笑みを浮かべて、頷いてくれた。

 落ち着いて姿勢を正し、日記帳を開く。


 始まりの年を見ると、これはあのひとが小学生のころからつけていたものらしい。

 天気の話しや、友達の家に遊びに行った事、近所のよく吠える犬がこわいとか、何てことのない内容が綴られているページが続く。

 ぱらぱらとめくり進めると、やがて日付が夏休みに差し掛かった。


『8月10日

 今日、おばさんにつれられて悟ちゃんが来た。 お盆をすぎるまでウチにとまっていく。 今年は夏まつりでなにをしようかと考える。 とても楽しみ』


『8月14日

 悟ちゃんがトンボをつかまえたといって見せに来た。 いきなり顔のまえにつきだしてくるからおどろいて泣きそうになってしまった。 おしおきに今日は口きいてあげない。 でも、明日はいっしょにプールに行こう』


『8月17日

 今日、おばさんが悟ちゃんをむかえにきた。 さびしかったけど、悟ちゃんは久しぶりのおばさんにべったりだきついて甘えていた。 昨日までは私だったのに。 でも、また年末に会えるからね』


 さらさらとページを流していく。 あのひとの日常よりも、俺と接点のあった部分が気になって、夏休みのところばかりを読み進めた。

 文字を追う目の奥で、当時の思い出が次々とよみがえってくる。

 あのひとが中学生になった最初の夏休み。


『8月7日

 今日、お母さんから明日悟ちゃんが来ると聞いた。 いつもより早いから、今年は長く一緒に居られる。 夏休みの宿題を早めに進めているから、悟ちゃんが帰るまで遊んでいても大丈夫だろう。 ああ、去年みたいに悟ちゃんが宿題を抱えてきたら、一緒に勉強しようかな』


『8月9日

 今日、悟ちゃんと林にセミとりに行った。 悟ちゃんが枯れ木を指差して怖いことを言ったから、思わず注意をしたけれど、あれは本当だったんだろうか。 もしかしたら怖がりな私をからかったのかもしれないけど、私が言ったことでおどろいた顔になった悟ちゃんが、ウソをついたなんて思えない。 どっちにしても、もうあの林には行っちゃいけない』


『8月15日

 今日は夜から町内の怪談大会があった。 私が怖がりなの知ってるのに悟ちゃんがどうしても行きたいって言うから、しかたなく一緒に行くことにする。 酒屋のおじさんが話しをしているあいだ、悟ちゃんはずっと私の腕にコアラみたいにしがみついていた。 そんな悟ちゃんの怖がりかたを見ていたら、私のほうはすっかり怖くなくなってしまった。 悟ちゃん、もうちょっと男の子らしくなってね』


『8月16日

 悟ちゃんが怖くて夜トイレに行けなくなっちゃって大変だった。 でも、今日の夏祭りで一緒に遊んでいたら、そんなこと忘れちゃったみたいだから今夜は大丈夫だろう。 明日はおばさんが迎えに来る日だ。 いつもみたいにお母さんに飛びついて、そのまま大きく手を振って帰ってしまうんだろうか。 私はいつまで悟るちゃんのおねえちゃんで、お盆のお母さんの代わりなんだろうなんて、ついそんなことを考えてしまう。 もしかしたら、悟くんって呼んだほうがいいのかな。 年末にウチに来たら、そう呼んでみようかな』


 当時の俺が思春期真っ只中なら、おそらくこんなものを読んだら赤面していただろうが、実際そのときの俺は仲の良い“おねえちゃん”が自分を気にかけてくれたことに喜んでいた。

 俺はあのひとの悟ちゃんでいられたことを、純粋に嬉しいと思っていたんだろう。

 そしてあのひとも、俺が遊びに行くことを楽しみにしてくれていたんだ。


 だが、二学期の半ばごろから、日記の内容が豹変した。


 だんだん字が尖り、文章が乱れ、日付も書かれない記述が多くなった。


 『いやだ』や『もうだめ』といった否定的な言葉が溢れ、ペン先がページを抉るほど強い筆圧で書かれるようになる。


 彼女がそこまで追い込まれるに至った経緯は、むなくそが悪くて詳しく記す気になれない。

 ただ、これが世間で言う『イジメ』であることは間違いなく、いや、俺に言わせればもはやリンチだといえる内容だった。


『 月 日

 なんで私だけがこんな目にあうの? あいつらはどうして笑っていられるんだろう。 私がいけなかったの? でも、こんなに苦しいのはあいつらのせいなのに、どうしてみんなはわかってくれないの? なんであいつらの味方なの? どうして私が悪くて、あいつらが悪くないことになるの? 私が何かしたんだろうか。 それともあいつらがみんなを騙しているの? みんなも私のような目に合うのが怖いから、仕方なく合わせているのかも。 あんな奴ら居なくなればいい。 居なくなって、居なくなって。 消えて、消えて、消えろ。 お願い、もう私を居なくならせて。 無視してくれていいから放っておいて。 お願いだから、お願いだから、      シね』


 あのひとは思い悩むという行為にとらわれ、自分を否定し、受け入れられるはずも受け入れるべきでもない現実に向かい合うことで疲弊して、凶暴な感情と人の好すぎる理性とに焼かれて逃げ場を失っていた。

 俺はこうなってからもあのひとに会っていたはずなのに、全然気付いてあげられなかった。

 小学生の俺には、それがとても悲しく、とても腹立たしかったのを、よく覚えている。


『今年も、悟ちゃんがウチに来た。 なんだか頭がよく働かないから、悟ちゃんの無邪気な声がとてもうるさく感じる。 ごめんね、笑っていてあげたいのに、ごめんね』


『悟ちゃんが帰る日まで、私は“夏風邪”を言い訳にして部屋にこもっていた。 窓から見送る悟ちゃんはどこかつまらなそうだった。 もう、ウチには来てくれないかも知れない、どうしよう』


 読みながら俺は、違う、違うんだと心の中で叫んでいた。

 あの年、本当に具合が悪そうだったあのひとに何もしてやれなかったことを、俺は家に帰ってからも気に病んでいたし、いまでも後悔している。


『お父さん、お母さん、ごめんなさい。 どこが良いか考えました。 入っちゃいけないって言われているけど、ごめんなさい。 でも、あそこには沢山の子どもたちがいるそうなので、もしかしたら寂しくないかもしれません。 あと、悟くんが来たら、引き出しに入れてある封筒を渡してください。 中は読まないで』


 唐突にそんな文面が現れた。

 遺書のつもりで書き残されたのだということはわかった。 あのひとは、どれほどの絶望の中でこれを書き記したのだろうか。

 決意なのか覚悟なのか、それまでの乱れに乱れた筆跡とは違う、しっかりとした文字だった。


 そこからしばらく日記は白紙だった。

 だが、これで終わりのはずはないと、俺は手早くページを送る。 最後にあのひとに会ったとき、あのひとは何の不安も悲しみも感じさせない、明るく優しい笑顔で俺を迎えてくれた。

 この最悪の先に、あのひとが笑顔を取り戻すに至った何かがあるはずなのだ。


 真っ白なページを数枚めくると、ぽつりと日記が再開される。


『みんな居なくなった。 きっと、願いが叶ったんだ』


 何のことかわからないが、この日を境に日記の筆跡は綺麗なものになっていった。

 だが、それに比例するようにあのひとの気持ちが変化していく。


『きっと、みんな怖がっている。 でも、まだまだこれからだ。私がどんな目にあったのか、みんなも思い知ればいい』


『今日のあの子たちの機嫌のとり方は笑えた。 だけど、あんなふうに擦り寄ってきたって許せるはずがない。 だって、あの日のことはあなたたちの計画だったって、私知ってるんだから』


 徐々に、あのひとの書く内容はクラスメイトを見下すように、その怯える様子を嘲笑うようなものに変わっていく。


『もう誰も私に逆らえない。 でもどんなにしたって許したりしない。 もっと怯えればいい、もっと。 私は悪くない。 だって私がされた苦しみを、ただ私は返しているだけ。 私が、私が……』


 復讐だ。


 あのひとの心の中で復讐心が生まれ、それを実行したのだということが、その内容からありありと読み取れた。

 ただ“何が”それを可能にしたのか。 いやな予感が過ぎって、俺はパラパラとページを戻す。


『入っちゃいけないって言われているけど、ごめんなさい。 でも、あそこには沢山の子どもたちがいるそうなので、もしかしたら寂しくないかもしれません』


 まさか、あの林だろうか。

 俺の脳裏に数年前にあの場所でみた光景が蘇る。

 よじれた枯れ木の周りを、手をつないでぐるぐると回るお面の子ども達。

 今思えば、はしゃぐでも笑うでもなく、ただ俯いてぐるぐると回る子ども達の姿は異様だった。

 あんな場所で、あのひとは何をしようとしていたのだろう。


 いや、何をなんてわかりきったことだ。 問題は“何が”だ。


 ふとページの間にばりが立っているのが見えた。

 白紙続きだと思ったところに、破りとられたページがあったのだ。


 冷えた汗が額を伝って顎先に流れる。

 気配を感じて顔を上げると、逆光で顔が真っ黒に塗りつぶされたあのひとの両親が、じっとりと俺を見下ろしていた。

 表情が見えないのに、なぜか口元と目元が笑っているのがわかる。

 能面のように張り付いた笑顔が一瞬思い浮かび、ぞくりと背筋を刷毛で撫でられたような悪寒が走った。


「あの、これ」


 日記帳を持ち上げ、破られたと思わしきページの隙間を見せながら言葉を詰まらせる。


「知りたいかね」


 ぽつりと父親の言葉が落ちてくる。

 ただそれだけの言葉が、自分の気持ちをせき止めるのに十分であることが不思議だった。

 知りたいという気持ちは確かにある。 だが、知ってはいけないという気持ちがそれ以上に強い。

 先ほど感じたいやな予感も含め、この感覚を“不吉”というのだと俺は初めて実感した。


「悟ちゃん」


 促すように母親が俺を呼ぶ。


「知りたいです」


 縄でもかけられていたかのように、引きずり出されるようにして俺の口から言葉が出した。

 母親の静かに流れる小川のような声音が、あのひとの呼びかけに思えたからだ。

 知って欲しいともしあのひとが少しでも望むなら、俺は絶対に知らなければいけない。 そう思えた。


 そのときは、確かにそう思ったんだ。





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