19
■
“だが、これから起こるのは、最悪よりも最低な出来事だった”
翌日の早朝、三田カレンは保護された。
あの林のフェンスにしがみ付いて泣きわめいているところを、近所の住民に通報されたことで発見された。
着衣に乱れもなく、わずかな切り傷と軽い打撲はあったものの、転倒やフェンスをよじ登ろうとした際にできた傷であることがわかり、事件性はないと判断された。
だが本人がひどく混乱しており、保護されるまでの記憶も曖昧であることから、そのまま入院することになった。
表向きは。
老人達に手を回してもらい、彼女を加山の息のかかった病院に収容させたのだ。
俺が三田カレンと面会できたのは、彼女を入院させてから一週間後のことだった。
町外れの小高い山の中腹に建つその病院は、父の往診もしてくれていたそうだ。
俺が三田を訪ねていくと、別棟に案内された。
入り口でまず身分確認と持ち物検査を受け、廊下を進んだ先に鉄格子のゲートが設けられ、そこの詰め所で手荷物と貴重品を預けさせられた。
白衣の看護師と医者、警備の人間がふたりつき、俺はさらに奥の部屋へと案内される。
そこは映画やドラマで見る面会室に似ていた。
違うのはそこがあくまで病室で、部屋を中央で分断するアクリルの向こうに、ベッドと医療器具が置かれていることくらいだ。
面会窓の向こう側に、白衣を着せられた三田カレンが座っている。
乱れも動揺も感じさせない静かで落ち着いた表情。
ほんの一週間ほど会わなかっただけなのに、彼女は俺の知っている三田よりもずっと大人になったように見えた。
ただ、ぼんやりと前を見つめて、俺が入ってきたことにも気づいていないようだ。
「三田さん」
俺は声をかけながら、彼女の正面に置かれた簡素な椅子に腰掛ける。
「身体の具合は? もう、大丈夫?」
彼女に警戒心を与えまいとするあまり、無意識に子どもに話しかけるような口調になってしまった。
三田はただぼんやりと、俺と自分の間にある通声穴を見つめたまま、唇を動かす。
「ほかのみんなは?」
静かに、つぶやくような声だった。
「うん、今日は俺だけ。 あまり大勢で押しかけないほうがいいって、先生にも言われてね」
「うそ」
彼女は俺と目を合わせないまま、にたりと嫌な笑みを浮かべた。
「うそ下手だね。 もっとうまく言わないと、騙せないよ?」
嫌味な口調だった。 だが腹が立つとか、気分が悪いというよりも、俺はぞっとするものを感じた。
「俺は、騙すつもりなんてないから」
情けない自己防衛が口をつく。
「それもうそ。 騙してばっかりのくせに。 そのぶん自分も騙されやすいけど」
「どういう意味?」
答えない。 俺と視線を合わせず、瞬きもしない。
不意に、嫌な想像が頭をよぎった。
彼女は今、本当に“俺”と会話しているのだろうか。
確かめるように、今度は俺から彼女に問いかける。
「三田さん、キミは“イジメサマ”をやったね?」
答えない。
しばらく沈黙したあと、彼女は肩を震わせて、声を殺して笑い出した。
「あ~あ、ほんと意地悪。 私、ぜんぶ知ってるんだよ?」
そう言って、彼女は自分のことを語り始めた。
まるでただ、録音された音声を垂れ流すだけの機械のように。
私ね、小学校に上がる前から、知ってたの。
男の子なんて、みんなばか。
ちょっと泣いたらオロオロ、ちょっと笑えばソワソワ。
すきって抱きついてあげればかっこつけたがるし、嫌われないように必死。
ほんとにばか。
可愛い女の子でいれば、簡単にお願いを聞いてくれる。
もちろん全員じゃないけど、もうカノジョがいたり、女の子と手をつないだこともなさそうなキモイやつなんて、面倒だしムカつくからこっちから願い下げ。
それ以外の、いい男の子、あたまのわるーい男の子は、みんな可愛いカレンの味方。
そうやって、カレンは楽しく楽チンに過ごしてきたの。
中学校のときにパパが転勤になって、こっちに引っ越してきたわ。
まあ、パパの転勤なんてしょっちゅうだったし、それまでどこに行ってもカレンは可愛い可愛いって言われたから、べつになんとも思わなかった。
こっちでも、また楽チンに遊んでいられると思った。
カレンがちょっと笑ってあげたら、転校生を珍獣みたいに見てくるイヤラシイ男の子たちはみんなニコニコしてたわ。
だけど、女子はそうじゃない。 カレンはいっつも女子には意地悪された。
でも気にしない気にしない。 どうせネチネチしたことしかできないんだもん、クラスのちょっとカッコいい子か、コワい子にお願いすれば、すぐに何もされなくなるんだもん。
ここでもカレンはクラスの中心。 簡単簡単。
でも、そうはならなかった。
引っ越してきて、ひと月ぐらいたったときだったかな。
図書室で本ばっかり読んでそうな女の子がいて、えっと、どこにでもひとりくらい居るでしょ、そういう根暗。 その子が給食の配膳係になったとき、おかずをカレンのスカートにこぼしやがったの!
ひどいでしょ? むかつくでしょ? だからこらしめてもらおうと思ったの。
名前なんていったかな。 忘れちゃったけど、ちょっとコワい男子。
やっちゃえ、やっちゃえってワクワクしてたら、同じクラスの女の子が根暗の子を庇って、その男子をやっつけちゃったの。
がっかり。 あいつもそうとう腰抜け。
だって女の子だよ? それがちょっと胸倉つかまれてすごまれただけで、おとなしく引き返してきちゃうんだもん。
その子、それから私のほうに来て言ったわ。
「あんたが可愛いのは認めるけど、あんまり勝手すると怒るよ」だって。
あんたスケバンなの? そんなのホントにいるんだって、びっくりしちゃった。
でも、その子はばかでも臆病でもスケバンでもなかった。
ぜんぶ私がやったって、知ってたんだね。 ううん、知ってても目を逸らして言えないようなこと、平気で言えちゃう子だったんだ。
仕方ないから、カレンは泣いちゃいそうにみせながら、ごめんなさいしたの。
そしたらカレンに自分の運動着はかせて、スカートを用務員室で洗濯してくれた。
ちゃんと手洗いで、すっごく丁寧にしてくれた。
便利だなって思った。 だから笑顔で大げさに喜んで見せたわ。
そしたら、その子どうしたとおもう?
握手だよ、握手! いつの時代の学園ドラマよっておもうよね?
カレンが転校してきたばかりで不安だろうからって、友達になってくれたの。
友達って、なってくれるようなものじゃないよね。
私、なってあげる、なんて友達ぜったい欲しくないもん。
でも、運がよかったのかも。 あそこで敵とか思われちゃったら、カレン、めんどうなこと我慢しなきゃいけなかったかも知れないもんね。
え? その子?
うん、マキちゃん。 あの女。
もうそのクラスに中心の子がいたってわけ。 しかも私じゃ代われないような子が。
しかたないから、カレンはマキちゃんの一番になることにしたの。
ほんとは自分が一番じゃなきゃ嫌なんだけど、しかたないもんね。
なんか、マキちゃんは怖いから。
自信があって、失敗しても何度でもやり直せて、誰にでも親切にできて、でも時々は怒って。
なんか私にないものぜんぶもってるみたいで、自分がしたいことぜんぶわかってるみたいで、マキちゃんは怖いから。
あ、でも男の子たちは便利に使わせてもらったよ。 マキちゃんに叱られない程度にだけど。
センセーも「寺野と三田のおかげでクラスの団結力が高まった」ってほめてくれた。
大人になっても、男の子ってばかなままなんだね。
うん、知ってたけど。
中学生最後の夏休みにね、カレンその学校の秘密を教えてもらったの。
裏の林に神様がいて、何でも願い事をかなえてくれるんだって。
え? イジメられてる子を助けてくる?
そうだっけ。 でもそれだってお願いなんだから、似たようなものよね。
だからカレン、男の子たちと林に行った。
体育館の裏の倉庫のところだけね、フェンスの金網が破れてて入れるようになってるの。 秘密の抜け穴みたいでちょっとドキドキしたよ。
でも、草はボーボーだし、虫は飛んでるし、なんかばっちくて最低だった。
こわいよー、こわいよーって言いながら歩いたら、男の子たちがカレンを護るみたいなこと真顔で言い出して、それだけはちょっと笑えたなぁ。
無人島とかならまだしも、こんな叫んだら近所の人が助けに来そうな場所で言っても、全然かっこよくないよね。
でね、ヘンな木を見つけてみんなで行ってみたの。
そうそう、枯れ木で、枝がなくて、ぐにゃって曲がってて。
まあ、言わなくても知ってるよね。
それでね、その木の根元にお人形が置いてあったの。
汚い赤い着物で、首がぐるんって後ろ向きにされたヘンな人形。
うん、そうだよ。 後ろ向いてた。 そう、真後ろ。
だから顔は見てないの。 でも可愛くない人形なのはわかったよ。
男の子のひとりが「イジメサマだ」って言って、みんなもそうだそうだってなったの。
カレンにはきったないボロ人形にしか見えなかったけど、みんながそう言うからカレンも話を合わせてあげた。
お願い? うん、したよ。 えっと、してもらったって言ったほうがいいのかな。
なんかゴミみたいなお人形に手を合わせて呪文となえるなんて、ばかみたいでしょ? だから、カレン嫌だったの。
神様っていうから、もっとキレイで神秘的な女神さまみたいなのかと思ったら、あれなんだもん。わざわざ草むら掻き分けて行って、ばかみたいじゃない。
だから、男の子たちにお願いしたんだぁ。 カレン、怖くってお祈りできないから、代わりにやってぇって。
うんうん、みんなビビッてた。 でもカレンが恋のお願いしたいのって、ちょっとモジモジして見せたら、ビビッてるくせにじゃあ俺が俺がって。
ご褒美がなきゃ何にもしないなんて、芸するおサルさんみたいだよね。
お願いの内容? 恥ずかしくて言えないからって言って、みんなにはただ「カレンのお願いが叶いますように」ってお願いしてもらったの。
あたまイイでしょ? そうすれば、カレンのお願い、みんながお願いしたぶんだけ全部叶うもんね。
まあ、あんなお人形にそんなことできるなんて、ほんとは思ってなかったけど。
おまじないが終わったら、なんかひとりが白目むいて暴れだして、何か叫びながら走り出しちゃった。
カレンもちょっとびっくりしちゃって、そしたら、ほかの子もみんな、お人形を指さしたり、何にもない真っ暗な場所に向かって怒鳴ったりして、どんどんおかしくなっちゃった。
みんながばらばらに林の中に走っていっちゃったあと、わけがわかんなくてカレンだけぽつんとその場にいたの。
怖くなかったかって? まあ全然とは言わないけど、カレンも林に入って行って、おかしくなった男の子と出くわしたら、そっちのほうがアブナイでしょ。
なにされるか、考えただけでもキモチワルイもん。
それで、黙ってただ木の枝の間から夜空を見上げてたら、声をかけてきたのよ。
うん、そう。 それが最初だったよね、あなたと会ったの。
三田カレンは俺のことなど見ずに話し続けていた。
このとき俺は彼女の話しに一切、質問も相槌も打っていない。
彼女がいったい“誰”と話しているのか。 俺にはもうわかっていた。
そしてもうひとつ新たに分かったことがある。
父と加山の者たちが、あの晩あそこで何をしたのか。
彼らは“かくれんぼ”を始める前に、イジメサマの首を曲げたのだ。
できる限り、俺や自分たちが見つかるのを遅らせるために、形を変えて、事の意味を曲げようと精一杯試みたのだ。
それがどれほどの苦痛と恐怖を伴う行為だったか。
なぜ父の髪が一晩で白髪になったかを、俺はいまようやく理解した。
相変わらず、三田カレンはぼんやりとした目で話を続けている。
「カレンのお願いが、あなたの望みと一緒のところがあったんだよね。 うん、カレンはお金持ちで背が高くて、外国人かハーフで、カッコいいひとと付き合いたいってお願いしたの。 そうじゃないなら、とにかくお金持ちにしてくださいって」
俺の姿を通り抜けて、向こう側の壁にでも話しているようだ。
「だって貧乏はやだもん。 パパみたいに転勤ばっかりで家にいられないのもやだし、ママみたいに臭いところで働くなんてもっといや。 いくら便利で学校に近くっても、あんなボロくて古いアパートをわざわざ探して住まなきゃいけないのも嫌だし、駄菓子くれれば喜ぶと思ってる婆さんの話し相手なんてうんざり。 モノは男の子に買ってもらえるけど、そのぶん相手しなきゃいけないし、お金があれば、そんなめんどうなことしなくても済むわけでしょ」
三田カレンの顔が、醜い笑顔に歪む。
「そうそう、あなたみたいなキレイな神様だったらカレンも信じる。 青い目で、素敵な金髪で。 それにお肌もきれいだし、もうほんと憧れちゃう。 それにうん、好きな人がとっても素敵なんだよね? ええと、誰だっけ、お父さんがとってもお金持ちで、誰にでも言うこときかせられて、テレビに出てくるような人たちにも頼られる、そんなすっごいお家の子なんだよね? ええっと、だから名前よ、何だっけ?」
いらいらするように、彼女は両手で自分の髪をかき乱し始めた。
「なんだけ、あれぇ? 誰だったっけ。 誰のことだっけ?」
明らかな錯乱症状を表す彼女の姿に、部屋の隅で待機していた医者と警備がざわめき始めるが、俺が一瞥してそれを制する。
「知らないわよ! あんたの好きな人なんて! あんたみたいにしてくれるって言うから、その素敵な彼もカレンにくれるからって、そう言うからお願いしてやったんでしょ? あんたがあのヘンな場所から出られるようにって、それがどうして、こんなことになるのよ! なんであの女がでしゃばるの? いっつもあの女よ!」
突然、ヒステリックに声を荒げ、あの女、あの女と恨めしそうに繰り返しながら、俯いたままバンバンとアクリルの窓を叩く。
「だ~か~らぁ! あんな小学生じゃ駄目でしょ! 大学生になるまで言うとおりにして待ったのよ? たしかにあの女の家も金持ちかもしれないけど、今度はいつまで待てばいいのよ! あの家で居候して、召使いみたいなことしてるオバサンと同じ歳になるまで待てって言うつもり!? もしそれでうまくいっても、私はあと何年、あんなゲームと女の子のおっぱいのことしか考えてないようなガキの相手しなきゃいけないのよ! しかも、あれはあの女の弟なんだからね、わかってんの?」
ぎゃあぎゃあと喚き散らし、ドンドンと窓に拳を打ち付ける。
「騙したのね! 騙したんだ! カレンを利用して、バカにして、あの女もおまえも、みんなみんな、ふざけんなぁ!!」
暴れる彼女を見ながら、俺は椅子から立ち上がって、窓に近づいた。
その気配をようやく感じたのか、怯えたような表情で彼女が俺を見上げる。
ここにきて、初めて彼女と視線が交わった。
「ど、どうして」
「三田さん、初めから俺のことを知っていたなら、なんで飯谷や寺野さんを巻き込んだの?」
「だ、だって、あいつがそうしろって。 そうしないと悟くんが見つからないんだもん」
口調がおかしい。 発音や言葉遣いが、さっきまでとは変わった。
「それに、ああいう男と一緒なら、とっても可哀相に見えるじゃない? 先輩だって私が頼れる人のいないか弱い女の子に見えたでしょ?」
三田カレンの話し方だ。 弱々しい少女のような声色から、開き直ったような態度にころころと変わる。
「マキちゃんは私と全然違うし、まさか悟くんがそうなっちゃうなんて思わなかったんだもん」
また戻った。 間違いない。もうひとりいる。
「何をお願いしたの? もう助かったのに、お参りして、毎日毎日、何を」
“これから毎日、お参りに行こう”
あなたは、毎日あんな場所で、何を。
「悟くんと、一緒にって。 ただそれだけよ。 どんどんみんながおかしくなっていって、私もどんどんおかしくなって、でも、悟くんには、そんなの知られたくなくって」
見ないでとばかりに、両手で顔を覆って泣き崩れる。
いや、背中が小刻みに震えて、乾いた笑い声が聞こえる。
「なにいってんの? ぜんぶあんたが望んでやったんじゃない。 あのとき私と一緒にいた男の子たちだって、あのあとどうなったか知ってるの? それが何よ、自分一人だけ可愛くて可哀相な女の子のつもり? うそつきで、人殺しで、それでもまだ好きでいてもらえるなんて思ってるの? あんたの彼は、もうあの女に盗られちゃったの! 居なくなったら忘れちゃうような、ちょっと都合のいい子がいたらそっちに行くような、そんな男なのよ!」
口汚く罵るような言葉が続き、頭を抱えてわあわあと喚きたてる。
「やめて、やめて、やめて!」
俺は胸を掻き毟りたくなるような気持ちを何とかこらえ、躊躇いつつも、うずくまる彼女に静かに声をかけた。
「……メル。 どうして寺野さんを巻き込んだの? 正直に言うよ。 俺が彼女と出会わなければ、メルの願いは叶ったかもしれない」
そうだ。 今も変わらず、あなたは俺にとって大切な人だから。
ゆっくりと顔を上げた彼女は、涙と鼻水で汚れていたが、先ほどまでとは異なり、眼にすこしだけ光が宿っていた。
「名前が足りないの。 マキちゃんを、巻き込みたくなんかなかったけど、でも、名前が足りないからって、仕方なかったの」
どっちだ?
いま答えているのはどっちだ?
「毎晩、嫌な夢をみた。 吐きそうな臭いのするお風呂場で、縛られてる女の人の股から汚いバケツに落とされる夢。 逃げ出そうとしてもすぐに黒い影につかまって、何度も何度も殴られて、臭くて痛くて苦しい夢」
彼女の頬を涙の筋が流れるたびに、瞳が光を失っていく。
「おまえもああなるぞって、それがいやなら従えって。 だから……。 だけど、ごめんなさい」
「三田さん!? メル!?」
俺は思わず窓にとりついたが、それっきり彼女はうつむいて、ぶつぶつと独り言をつぶやき続けるだけになってしまった。
“だからだめだっていったのよ”
“どうせ、もうだめだったんだから”
“ぜんぶむだになった。 ぜんぶぜんぶむだになった”
“もうやめよう、もういいや。 おうちにかえる”
“かえして、かえして、かえして、かえして……”
俺は窓から離れて、振り返らずに部屋を出た。
入れ違いに、医者と看護師が彼女のところへ駆け寄っていく。
そのあと一時間ほどして、俺は担当医と話すことができた。
彼は三田カレンの状態にそれなりの病名を当てはめ、彼女の両親にも連絡を取りたいと申し出た。
そのとき見せられた病室の監視カメラのモニタには、ベッドから誰も居ない隣に向かって延々と話しかけ、ひとり受け答えのそぶりを続ける彼女が映っていた。
こればかりは俺の一存では決められない。 俺は医者には老人たちに相談してから決めると返答し、病院を出た。
そのとき頭にあったのは、寺野さんにこれを説明するべきかということだ。
黙っているわけにもいかない。 だが、話すわけにもいかない。
悩んでも答えなど出るはずがなく、先送りのまま二日が過ぎた。
学校にも行かなかったし、携帯も持っていなかったので、飯谷も寺野さんも俺と接触することはなかった。
俺はその日、自分のアパートを出て、裏野ハイツに向かった。
何かの決意を固めるためか、諦める決心をするためか。
どちらにせよ他力本願にただ、何かが起こることを願っていたことに変わりはない。
裏野ハイツは、何事もなくそこにあった。
だが、住人が二人消え、同時に建物を覆っていた陰鬱な空気が消えていた。
俺の足は、無意識に202号室へと向かう。
老人たちの話しでは、谷崎は手遅れだったそうだ。
あのあと部屋の中で首を吊っているが発見された。 遺書のようなものはなかったが、代わりにぼろぼろに擦り切れた古い写真が足元に落ちていたらしい。
俺はそれを見たいとは思わなかった。
ただ、写真の中の子どもは、母親と一緒に笑っていたと聞かされたとき、谷崎に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
部屋には鍵がかかっておらず、玄関先に何も供えられてはいなかった。
事実が揉み消されたのか、それとも誰からも悼まれる存在ではなかったのか。
真相は闇の中だが、俺はノブをひねって玄関を開ける。
「加山」
階段の下から、呼びかけられた。
どきりとしてそちらを見ると、そこには黒いジャンパー姿の飯谷が立っていた。
「どうしてここに」
「そりゃおまえ、オレのセリフだっての」
軽い口調で言いながらも、重苦しい表情で階段を上がってくる。
「入るのか?」
訊きながら、飯谷はノブを引いたままの俺の手を見た。
「ああ。 なんとなくな」
意味のわからない返事をして、俺は中へ入った。 無言のまま、飯谷も後に続く。
「何にもねぇな」
当たり前のことを口にして、飯谷が畳の部屋まで上り込んだ。
「調べたよ。 やっぱり、谷崎の婆さんが、ずっと家賃を払ってた」
「そうなのか」
押入れを開けてみたり、窓のそとを見たりしながら答える。
「そこの壁にな」
リビングの一角を指差した。
煤けて剥がれかけた壁紙の一部、A3用紙くらいのスペースが真新しい白さのままくっきりと残っている。
「紙が貼ってあったそうだ」
こちらに戻ってきて、飯谷もその白い壁面を並んで見た。
「ポスターか?」
「いや、名前だとさ」
「は?」
「ここの住人だった母子の名前が、渦巻き状にびっしり書いてあったそうだ。 ところどころ×印で名前をつぶしながら、びっしりと」
「気持ちわりいな。 なんだよそれ」
「封印。 “諱”とか“真名”ってわかるか? 名前には魂を支配する力がある。 だから名前の迷宮を作って、少しでも動き回れないように縛ろうとしたんだろう」
あのときみた壁に向かって怒鳴り散らす谷崎の姿。
あれはその張り紙に向かって話していたのだ。
「オカルト番組の見すぎだ」
どこかで聞いたセリフとともに苦笑いして、飯谷がキッチンの換気扇の下に立つ。
紐を引くが、ぱちんと音を立てるだけで動かなかった。
構わずに、彼は懐からタバコの箱とライターを取り出す。 一本口にくわえて、火をつけた。
「お前、タバコ吸うのか」
「女の子の前じゃ吸わねえよ」
「俺も、もらっていいか?」
「お前こそ吸うのかよ!」
意外そうに言われ、それでも差し出された箱から一本抜きとる。
「禁煙したんだ。 大学受験の前に」
「おいおい」
呆れつつ火を差し出されて、俺はゆっくりと煙を吸い込んだ。
重くて苦いものが、じんわりと肺に広がる。
「結局、何しに来たんだ?」
そう訊くと、飯谷がふっと煙を頭上に吹き出して言う。
「お前を探してたに決まってんだろ」
「そうか」
「で、どうだったんだ?」
「三田ちゃんのことか」
「ああ」
「聞いたら、一生後悔するかもしれないぞ」
「いいから話せよ。 いいかげん殴るぞ」
そう言って飯谷が俺に向けたのは、これまで見た彼のどんな表情とも違う、真剣なものだった。
「どうしたんだ、いきなり」
「加山、お前がオレを下に見るのはいいさ。 実際、お前と違ってオレは何にも出来てねえんだから。 でもな、誰がお前に三田ちゃんを紹介したと思ってんだ? オレがあのとき、ふざけた気持ちで“お前に丸投げするつもりはねえ”って言ったとおもってんのか?」
「悪かった」
俺が素直に謝ると、飯谷はニカっと笑って見せる。 こわばった頬の筋肉から、本当は避けて通りたいという思いが見て取れた。
そう、誰にでも避けて通りたくなることはある。 俺だってそうしたい。
だけど、今は駄目だ。 いま、それは駄目なんだ。
俺が床に腰を下ろすと、飯谷もあぐらをかいた。
飯谷が携帯灰皿を差し出したので、つまんでいた吸いさしを差し込んで、ゆっくりと考えをまとめる。
「話せることは、全部話すよ」
そう切り出して、俺は三田カレンの今と、谷崎のことと、ふたりの身に何が起きたのかを飯谷に話して聞かせた。
異児女のことは、ただそうした呪いの道具とだけ説明した。 彼が知るには、あまりにも危険を伴うからだ。
飯谷はただ黙って、俺の話しを聞いていた。
話が終わると、飯谷が根元まで灰になったタバコを灰皿に押し込んで、深呼吸した。
聞いた話の内容を、自分の中で整理するのに手間取っているようだ。
無理もない。 誰が聞いても、与太話にしか思えないようなことに、現実に自分たちが巻き込まれたのだ。
「加山、正直に答えてくれるか?」
「ああ」
「はぐらかすのも、誤魔化すのもなしだ」
「もちろん」
「三田ちゃん、治るのか?」
正直に答えるなら、言えることはひとつだ。
「わからない。 だが、今のままなら治せない。 絶対に」
絶対という言葉を使いたくはなかったが、人知のおよぶものではない以上、それは絶対としか言えなかった。
「今のままじゃなくなれば?」
そう、可能性はある。 保証はないが、可能性だけはある。
「異児女が存在しなくなれば、その呪いも解けるかもしれない。 問題は、そんなことが果たして可能なのか、ということだ」
下手をすれば“かろうじて制限する手段”すら失う可能性がある。
父から仮面の話しを聞いたとき、その仮初からすら解き放たれたなら、もはや手の打ちようが無くなるのではないかと考えた。
「存在の意味そのものを変えるような、そんな方法が必要だ。 そしてそれはおそらく、加山の人間には不可能だ」
代々にわたって異児女と関わりを続けた加山では、結びつきが深すぎる。
もっと別のなにかに移してしまわなければ。
「方法が無いとは、言い切れないんだな?」
「みんなでやった、あのゲーム」
「スゴロ国取りのことか?」
「あれで、悪魔を他のプレイヤーに押し付けるのがあっただろう?」
「ああ」
「あんなふうに、な」
「けどよ、それって」
「そう、押し付けるだけだ。 なにも解決しない。 誰も救われない。 ただ、俺たちとは関わりが無くなる、それだけだ」
「それが本当にできても……」
飯谷が言いよどんだ。
わかってるさ。 仮にできてもやっちゃいけない。 だが、それじゃあ三田カレンは絶対に助からない。
これが異児女の呪い。 その不幸と苦しみが異児女の望み。
そして自分たちのために、誰かに代償を背負わせる。 その厄災が異児女そのもの。
しばらく沈黙が続いたあと、決心したように飯谷が立ち上がった。
「三田ちゃんのことは、オレから寺野さんに説明する」
「待てよ、どうやって説明するんだ」
思わず俺も立ち上がったが、飯谷は片手をあげて俺の発言を制した。
「いいから、任せてくれ。 お前は何にも知らないことにする。 今聞いた話も、三田ちゃんの病状以外は、絶対に口外しない。 それに」
そこで言葉を切って、少しだけ考えたあと、飯谷はさみしそうに笑う。
「お前、絶対に寺野さんに言えないだろ?」
その通りだった。 三田カレンのことを、俺は彼女に話せない。 それでどれほど彼女が苦しみ、悲しむかを考えたら、俺はきっと何も言えない。
「その代り」
切り替えたように飯谷が口調を軽くした。
「取引だ、加山。 オレと三田ちゃんの面倒を、お前にみてもらう」
オレと三田ちゃん、ひとまとめにして言ったことが、飯谷の本心を覗かせた。
「それにな、加山。 オレには三田ちゃんが言ったことが全部、あの子の本心だなんて、どうしても思えないんだよ」
俺は答えられなかった。 目の前で見て、目の前で聞かされた今の俺には、飯谷のように一歩引いた場所から見て考える、冷静な視点が失われている。
「もし三田ちゃんにとって寺野さんが目障りな存在なら、寺野さんにも呪いをかけるんじゃないか?」
確かに、飯谷の言葉には一理あった。
彼女が言ったように、他人を代理に立てて複数の願いをかなえるように要求したのなら、金銭や理想の異性に加えて、寺野さんのことを願っていても不思議はない。
「それにさ、人間ってずっとウソをつき続けてまで、嫌いな人間の友達のふりができるもんなのか?」
どうなのだろうか。 俺にはわからなかった。
彼女の執着心がどれほど根深いのか。 それが嫉妬や憎しみからくるものなのか。 俺にはわからない。
だけどひとつ確かなのは。
「イイヤツ飯谷、か」
最初に言われた自己紹介。 ほら、もう絶対に忘れられない。
「よせよ、お前に取引持ちかけてんだぞ。 オレはイイヤツなんかじゃねえ」
「そうか。 そうかもな」
それでも飯谷、お前はいいやつだよ。 本当に、いいやつだ。
俺たちは二人は裏野ハイツを後にする。 もう振り返ることもない。
ここは、老人たちの計らいで近々に取り壊しになるだろう。
理由は老朽化でも、区画整理でも、不発弾でも何でもいい。
草磐の家と同じだ。 異児女の曰く因縁が付いた物は、可能な限り消される。
消えてしまえば、もうそれがなんだったのか、どんなものだったのか周りは誰も記憶にとどめない。
裏野ハイツの跡地がコンビニにでもなれば、もうそこがアパートだったこともすぐに忘れる。
誰にも記憶されず、誰にも認知されなければなかったのと同じだ。
そうやって加山は異児女を抑え込んできた。 だがその手段は人相手ではだめだ。
人は消えてもずっと残る。
いや、唐突に消えてしまえばむしろ強く残る。
俺がメルを消せないように、父が妻だった人を消せなかったように。
後日、飯谷は左顔面にガーゼを当てて学校に来た。
聞いた話じゃ、奥歯も折っていたらしい。
顔を合わせたが、向こうから視線を逸らして無言で通り過ぎた。
もう、俺とは表では関わらない。 そういう決意表明だと思った。
そしてそれっきり、飯谷は学校に現れなくなった。
次の日、俺の部屋に手紙が投げ込まれていた。
そこには飯谷の要求が簡潔に書かれており、俺は老人たちに掛け合って、それを叶えることにした。
飯谷が寺野さんにどう話したのか、どうして怪我をしたのかは、手紙では一切触れられていなかった。
イイヤツの代名詞、と笑っていた飯谷 弥登成は、こうして俺たちの前から消えた。
一方、寺野さんはしばらく塞ぎ込んだ後、俺のところへよく顔を出すようになった。
卒業まで間もなかったが、俺はできるだけ時間を割いた。
ふたりでコーヒーを飲みながら他愛のない話をしたり、彼女に強引に連れられて、俺用の服を買いに出かけたり。
卒業してからも、休日は一緒にいることが当たり前のようになっていった。
だけど、どちらもあのふたりのことは話題にしなかった。
彼女の部屋に初めて招かれた時に気づいたのは、本棚に似たようなタイトルの本がいくつも並んでいたことだ。
『依存症からの帰還 解脱療法の現在』
『共に闘う 薬物依存、家族がしてあげられること』
『詳しくわかる! 脱法ドラッグの闇』
飯谷が何を話したのか、わかった気がした。
だが、真姫がそれを話さない限り、俺からは訊かないと心に決めていた。
あのふたりとも、俺はあれ以来会っていない。
そして、俺は教師になった。
赴任先は、あの中学校だ。
もちろん、老人たちの手回しで赴任先を自由に選ぶことができたからだが、俺にはひとつ計画があった。
似合わないことをしながら、俺はいま“その時”が来るのを、ただひたすらに願い、待っている。
■
教師になって何度目だろうか。
新入生と顔を合わせる最初の授業の日。
俺は昼休憩に珍しく喫煙所でタバコを吸い、昔のことを思い出していた。
あのころは止めていたタバコの煙が、じわりと後味の悪い思い出をつれてくる。
タバコもそうだが、変化はあった。
俺は今では紅茶より、コーヒーを飲むようになった。
真姫の父親は義姉のことを時々は名前で呼べるようになり、俺はその父親から心配の種として扱われるようになった。
そういえば、あの家の社員の方々からは「がんばれ」と励まされることが増えた気がする。
伝え聞いた話では、三田カレンはまだ病院の中にいて、大学を辞めた飯谷は本人の望み通りあの病棟で警備員として働いている。
少しずつではあるが、俺たちの時間も、前へと動きだしていた。
俺は火を揉み消して、理科実験室へと向かった。
出席簿をみて、俺は何かを思案する。
たしか、イチのやつが友達を連れて来ていたことがあった。
小学校で仲がよかった子の名前も、真姫から聞いた覚えがる。
ああ、そうか。
そのときがきたのか。
この間、彼女にあったときに、言いづらそうにしていたのは、そのことだったのか。
そう、わかった。
もういいよ。
林の奥で、鈍い音を立てて、イジメサマの首が正面を向こうとしている様が、頭の中で映像として浮かび上がった。
生徒たちを出席番号順に呼びながら、俺はこれからのことを考え始めていた。
「伊本 楷」
「はい!」
終
余談
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彼らの名前が、流れをつくる。
加山編は、これで終わりです。
最後に余談の解を書いておきます。
◆ カヤマ サトル
● ジノ マキ
◎ クサイワ メル
■ イイヤ ミトナリ
▲ ミタ カレン
それぞれの名前を当てはめます。
イジメサマ
イノルトキ
ヤミタルカ
ミトナリヤ
クサイワマ
カレン
イジメサマ、祈るとき、病みたる神となり、厄災は撒かれん




