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■ 

 夕方、谷崎が買い物に出る隙を窺って、俺は203号室に戻った。

 クローゼットの扉をあけ、向こう側の様子を窺えるように壁に背を当てて座り込む。

 あとはただ、そのときがくるのを待つだけだ。

 日が沈み、室内が暗闇に飲まれていくのを眺めながら、俺はひざを抱えてじっと息を殺して待つ。


 どれほど経ったか。

 隣の202号室の扉が開く音がした。 誰かが、玄関から中へとはいったのだ。

 いよいよか。

 俺は音を立てないように壁に耳をあてる。


 “また、だめみたいだねえ”

 “おまえが、よけいなことをするからだよ”

 “だってほかに方法がないじゃないか”

 “まったく、何のために育ててやったと思ってんだい!”

 “あの子を返しな。 おまえが身勝手をしたせいであの子を巻き込んだんだ”

 “おまえ一人で死ねばよかったんだよ、役立たずのおまえ一人で”

 “もう一度、もう一度あの子を産んでお詫びしな!”

 “また、気に入られるのをまたなきゃならない”


 そうか。

 やっぱりそうだったのだ。

 草磐と同じだ。 どこで知ったのか、それはわからない。

 だが、谷崎はおそらく誰も居ない202号室で娘と会話している。

 それも、イジメサマに願って孫を取り戻すために。

 しかし母親はもう居ない。

 自身は閉経してもう資格を失っている。

 だとすればなんだ?

 そうだとすれば、次に何をする?


 代理だ。


 この裏野ハイツに越してきた女性を依り代にして、メルの母親のようにするつもりなのだ。

 だから今朝、男の飯谷以外には赤ん坊の泣き声が聞こえていた。

 もちろん、渦中の谷崎にも聞こえていたはずだ。

 俺がただ“なきごえ”と行っただけなのに、鳥でも動物でもなく、赤ん坊を想像して子どもといったのがその証拠だ。

 かつてメルの両親が信じたように、谷崎もそれを疑ってはいないのだろう。

 だが、俺はその結末を知っている。

 俺がおばさんの回復を願ったあの日からすぐ、ふたりは居なくなった。

 調べても、どこへ行ったかわからない。

 あのひとの家は、誰がそうしたかもわからぬうちに取り壊され、中から大量のコケシに入った臍の緒が見つかったという話だけを聞いた。


 俺には、ふたりがどうなったのかわかる。

 そして谷崎の娘が、それを望んでいないことも知っている。

 だから、三田ちゃんが怪異に見舞われたそのとき、彼女が三田ちゃんを守ったのだ。

 彼女の背後に立ち、危険を知らせようとした。

 ことが起こってからは、窓ガラスが壊されるより先に、壁を叩いてやめさせた。

 それはかついて、異児女に捧げられたわが子に訴えかける行為だったのだろう。

 一時的にとはいえ、怪異は治まり三田ちゃんは逃れることができた。

 そして俺をここへと呼び寄せたのは、異児女の意思か、それとも。


 俺はゆっくりと立ち上がって、部屋を出た。

 そして隣の202号室へと続く階段を、静かに上がる。

 部屋の中では、言葉にもならない谷崎の喚き声が聞こえていた。

 俺はわずかに開いていた玄関のノブを取って、部屋の中を覗き込んだ。

 何も無い室内で、明かりもつけないまま谷崎が壁のほうを向いて喚いている。


 俺が入り込んだことにも気づかず、ただ自分の娘を罵る言葉を吐き出し続けていた。

 部屋の暗闇の中に、座り込む人影をみた。

 目を凝らすと、体育座りをしてひざに顔を埋めた子どもたちが、部屋中に居る。

 声を上げそうになるのをこらえて、俺は子どもたちを避けるようにして中へと進んだ。


 この部屋のどこかに、谷崎の娘をここに縛り付けている何かがあるはずだ。

 それを見つけるのが、俺の目的だった。

 ひときわ小さな赤ん坊が足元に居ることに気づかず、思わず踏みつけそうになって俺はバランスを崩した。

 何とか片手をついて転倒を免れたが、その音に反応して谷崎がこっちを向く。

 髪を振り乱し、闇の中に浮かんで見える血走った目は片方があらぬ方をむき、ふうふうと息をするそれは、あの日見たイジメサマの人形のような形相だった。

 

 互いが狭い室内に居るのだ。 もちろん、通常ならばこちらを向いた時点で俺は見つかっている。

 だが、谷崎は用心深く辺りを見渡すが、俺の姿を捉えては居ない。

 今俺は、加山の家から持ち出した仮面をつけていた。

 異児女のものたちと同じ仮初の顔。 異児女に魅入られている今の谷崎では、俺を見分けることはできない。

 実際に目の当たりにするまで、確信は無かった。 ある意味では賭けだったが、どうやら俺はそれに勝ったようだ。


 部屋の隅から、かすかに赤ん坊の泣き声が聞こえた。

 その先は押入れで、俺は一枚の和紙を二枚に剥がすような慎重さでそれを開いた。

 何も入っていない押入れに、ぽつんと顔の書かれていないコケシがおかれていた。

 それにゆっくりと手を伸ばしたとき、俺のポケットの中で携帯電話が呻り声をあげた。

 チカチカと、受信のランプが点滅する。


 あせったが、後の祭りだった。

 わけのわからない怒号を上げて、谷崎が俺のほうに飛び掛ってきた。

 首に手を伸ばされたのをつかんで必死に押し返そうとするが、まるで老人の力ではない。

 壁際に押しやられ、衝撃で仮面が床に落ちた。


「加山! 加山だな!」


 女の声じゃなかった。

 いくつもの人間の声が交じり合ったような、深く、気味の悪い声音だった。

 ついに谷崎の指が俺の喉に食い込み、呼吸が出来なくなる。


「死ね、死ね!」


 水の中に浸けられたように聞き取りにくくなった鼓膜の向こうで、谷崎が呪詛を吐く。

 俺は無我夢中で抵抗できる何かを探し、手にしたコケシを谷崎に向かって突き出した。


 その一瞬、ほんの一瞬だけ、谷崎の表情が、あの昼間見た穏やかな老女のものに戻ったように見えた。

 泣きそうなほどに顔をゆがめ、彼女の口から言葉がこぼれる。


「ああ、ゆうた……」


 俺はその一瞬を逃さず谷崎を突き飛ばして部屋を飛び出した。

 そのまま町を駆け、何度も何度も振り返り、ようやくいまだに鳴り続けている携帯を手に取る。

 着信は「飯谷」だ。


「は、はい」


 息を切らしながら答えると、向こうからあせったような声がした。


「加山、三田ちゃんが居なくなった!」


 なんだって? どうして。 いや、でもまさか。


「寺野さんと俺で探しに行く! いや、寺野さんの親父さんや、会社の人も手伝ってくれるって。 お前のほうは大丈夫か?」


「ああ、飯谷、聞いておきたいことがある」


「なんだよ、今じゃなきゃだめか?」


「三田ちゃんやお前に、加山の家の話をしたのは誰だ?」


 まさかとは思う。 だが、これが予想通りなら。


「え? いや、どうだったかな。 三田ちゃんに相談受けてるとき“隣の女”が話しかけてきてさ、加山の家の人に相談するといいって、お前の知り合いだと思ったんだよ」


「なあ飯谷、そのひと、日本人だったか?」


「あ、あ~。 どうだったかな。 話し方は普通だったけど、金髪だったような。 でも、染めてたかも知れねえぞ。 顔はよく覚えてねえし、俺も酔ってたし」


 そうか。 そうなのか。


「もういいか、出来たらお前も三田ちゃん探すの手伝ってくれ、また連絡する!」


 そういって、電話は一方的に切れた。

 俺は、すぐに携帯の通話履歴から三田ちゃんの電話番号を探して発信した。

 俺の願いが通じたのか、どうにか電話が通じた。


「三田さん?」


「悟くん」


「いまどこにいる、迎えに行くよ」


「無理だよ、もう無理なの」


「そんなことない。 すぐに行くから、そこにいて」


「だめ。 きちゃだめだよ。 もうわかってるから」


「ねえ、三田さんでしょ?」


「意地悪だね」


「なにが?」


「だって悟くん、マキちゃんのこと好きになっちゃうんだもん」


「ごめん」


「しょうがないよね。 でも、これで私がイジメサマにお願いしたこと、ぜんぶだめになっちゃった」


「それは、三田さんが願ったこと?」


「どうかな。 でも、ずっと忘れないからね。 ずぅっと」


 それだけ言って、電話が切れた。


 俺は手にしたコケシを頭をつかんで、無理やりひねってみる。

 かさかさしたものが出てきた。


 臍の緒だろう。


 これがかつて繋がっていた女性をあの場所に縛りつけ、かつて異児女に捧げられた子どもと彼女を縛り付けていたのだ。

 これは、加山の一族できちんと始末するべきものだろう。

 そして老人たちに頼んで、谷崎と三田ちゃんのこともきちんとしなくては。


 遣り残したことが山ほどある。

 まだがこれからやらなければならないことがある。


 だが、今はただ戻りたい。

 明日になれば、またみなが笑顔で再会できることを夢見て、彼女の家に、俺は戻りたい。




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