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「父さんが、あのひとを?」
あのひと、大切なお姉ちゃん。
“草磐メル”
俺がメルと呼びたかった人。
「娘は中学に上がって、クラスでひどいイジメを受けた」
そう。 日記にはそうあった。
クラスに転校してきた女子が居た。 その女子は回りにちやほやされるのが大好きなタイプで、見目も頭もよかったが、心がひどく醜い女だった。
金髪碧眼で才色兼備のメルは、彼女の嫉妬心を刺激するのに十分すぎる材料を備えていたのだろう。
クラスの出来損ないをそそのかして、群れを作って嫌がらせを始めた。
はじめはクラスの友達もかばってくれていたが、暴力が絡みだしてからはそれもなくなり、メルは孤立無援になった。 いや、もっとひどい。 友達だと信じたものたちまで、彼女の敵になった。
女子トイレに押し込まれて、ガラの悪い取り巻きの生徒数名と、女王様気取りの転校生の前でスカートを脱がされた。 取り巻きの中には、男子生徒も混じっていた。
理由は、おまえの金髪が偽物かどうか確かめる、という下劣なものだった。
泣きながら嫌がるメルに、ヤツらはさらなる脅しをかけた。
不良のレッテルを貼られている男子生徒が、自分のズボンのベルトを外し始めたのをみて、追い詰められたメルは自ら下着を下ろすしかなかった。
罵声と嘲笑が起こり、羞恥心と絶望に身を焼きながら、メルはただ耐えるしかなかった。
居合わせた男子生徒がズボンを脱ぎ捨てなかったことだけが、不幸中の幸いだったというしかない。
最悪中の最悪は免れたが、その日からメルはクラスで“穢れた女”として扱われるようになった。
イジメは更に凄惨を極め、彼女の尊厳は踏みにじられ続けた。
日記でそれを知っている俺は、彼女の殺意を否定しない。 いや、できるはずがない。
「彼女が死を覚悟したことを、おまえもしっているな」
俺は黙っていた。 父がこれから語ろうとすることが、俺にはわかっていた気がする。
「おまえを“まだ隠すため”に林に居たとき、あの子が現れた」
“私は助かるかもしれない。 少なくとも、今は死んでしまうより、あの言葉を信じてみようと思う”
「何年も会っていなかったのに、彼女は私を見て“悟くんの、お父さんですか?”と訊いて来たよ」
“まるで私を待っていたような、この出会いが幸運であると信じたい”
「あの子がおまえを悟くんと呼んだとき、私はこれが異児女の望みだと直感した。 それを運命だと受け入れることにした」
いやだ。 聞きたくない。 あの言葉を信じてみようと思う。
お父さん、あなたはメルに何を。 あなたはいったい何を。
吐きそうだった。 膨らみ始めた喉仏が濡れるのを感じてようやく、俺は自分の頬を伝う涙に気づく。
「イジメサマに願ってみろと教えた。 あのお呪いも、私が教えた」
俺の中で、何かが限界を越えた。
父の襟首を両手で掴み、ふうふうと荒い息をする自分を、どこか遠くから冷めた気持ちで見ている自分が居るようだった。
だが、中学生の俺がどれほど力を込めようとも、痩せて一夜にして白髪になった父は微動だにしない。
「いつかおまえが資格を得たとき、あの子がおまえを異児女から隠せなくする。 そうなれば、おまえもあの子も無事ではいられない。 そのときの私はそう思った」
「僕の身代わりを生ませた女の人も、あなたは!」
母親のために続けられる援助。 彼女のその後は知らず、にもかかわらず子どもの不幸は確信している。
俺を隠すために、子どもの母親まで捧げたであろうことは明白だった。
あるいは不義の芽を摘むのに、都合が良いとでも考えたのか。 父に言わせれば、そうしたどす黒い感情を異児女に利用されたとでもいうのか。
「おじさんと、おばさんまで!」
メルの両親のあの現状も、父がふたりを犠牲にしようとしているせいだ。
俺は頭に血が昇って顔が熱くなるのを肌で感じていた。
「あのふたりは、違う」
父が悲しそうな顔で、そう言った。
「おまえは信じないだろうが、あのふたりは自らの意思で異児女に願ったんだ」
嘘に決まっている。 何を、どうしてあのひとたちが願うことがあるんだ。
「そんなこと」
「娘を、返してほしい」
父の襟を掴む手が、するすると力を失った。
「娘の日記を読んで、異児女のことを知ったんだろう。 娘が死んだあと、あの林の事を聞きに私を訪ねてきた。 私は何も教えなかったが、そのとき入り口の鍵の“型”だけ取っていったんだろう」
おじさんが、あの場所の地図を書けたのは、もちろんフェンスの中まで知っていたからだ。
「林に入ってふたりで願ったんだ。 結果、娘を“産み直させられる”ことになった」
おばさんの悲惨な姿を思い浮かべる。
くちゃくちゃと風呂場で何かを叩くおじさんの背中。
排水溝に吸い込まれる、緑がかった墨のような液体。
聞こえる赤ん坊の泣き声。
“ああ、だめだ、また、だめだ”
何がだめなのか。 何に失敗し続けているのか。
思考がとまる。 それ以上を想像することを身体が拒絶している。
「ふたりは代償を捧げる誓約をしたが、異児女は願いをかなえたりはしない。 ただ代償は要求する。代償とは、おまえだ」
俺は言葉を失い、頭の中が真っ白になるのを感じた。
空っぽになった頭に、あの日から今日までのことが浮かんで、染みが何かを形作るように、溶け合った記憶が俺の頭の中で像を結ぶ。
日記を読み終えたとき、なぜ影になっていたふたりの顔が笑みを浮かべて見えたのか。
破られたページを読みたいかと聞かれたとき、なぜ母親は俺の背を押すように声をかけたのか。
あの人の手紙を読み終え、イジメサマの呪文を口にした俺が見たあの能面は、寝室を覗くふたりの笑みだったのだ。
翌日の帰り道で見た赤い着物の少女は、俺の居場所を突き止めた異児女だったのだ。
あのひとを返すための代償に、俺は捧げられた。
イジメサマの存在を知ったことで、逆に俺の居場所を異児女に知られてしまった。
父があらゆる罪に手を染めながら隠そうとした俺に、にじり寄るようにして異児女は迫ってくる。
当時の俺にはまだ父の言う“資格”がなかった。
メルが初潮を迎えて資格を得るなら、俺は精通してそれを得るのだろう。
だから中学生になるとき、父は俺に草磐の家にはもう行くなといったのだ。
知ることが知られることに繋がる危険を避けるため、異児女の話しをするわけにもいかず、一方的な言い方しかできなかったのだろう。
しかし、父の誤算はすで俺がイジメサマという存在を知らされ、その姿を目撃するに至っていたということだ。
すでに資格を有している俺は、昨晩メルの父親に頼まれて自ら異児女のところへ向かった。
そこには俺を捧げるためのみならず、妻の快復を願う気持ちもあったことだろう。
ただ今となっては、叶う見込みのない願いだったに違いない。
『クヤメ』
あれはそういう意味なのだ。
俺自身の願うという行為は、誰に代償を払わせることもなく、自らに降りかかる。
異児女の欲した俺の血を、異児女は手に入れるはずだった。
だが、俺のどこかはまだ隠されていた。 だからあのとき異児女は俺に“もういいかい?”と訊いたのだ。
俺はその場を脱するのに成功し、おそらく警官から連絡を受けて駆けつけた父に助けられた。
父と、一緒に居たひとたちは一晩かけてあの場で何かをしたはずだ。
総髪が白髪になるほどの何かを。
「僕は、いつ異児女に見つかるんですか?」
まるで末期がんの告知を待つような気持ちで、俺は父に尋ねる。
「おまえにそのときが来るまでの、順番を変えることにした。 幸いなことに、おまえ自身に欠けていた部分があったおかげで、まだ異児女はおまえのすべてを把握できていなかったからな。 分家の者たちの協力もあって、何とかおまえを遠ざけることはできた」
親類のものたちが集まって、自分を異児女から守る為に働いてくれたのだ。
「いいか悟、おまえにとっては悲しいことだが、異児女の目から隠れ続けたければ“誰かと結ばれたいと願うな”その想いや行為が、おまえの資格を完成させる。そして異児女の厄災はおまえのみならず、その周囲の者にも降りかかることになるだろう。 そうなればもう、誰もおまえを庇いきれない」
そのときは何となくしか理解できなかったが、今ならわかる。
思春期の俺は人並みに誰かに恋することも、焦がれることもあった。
そのたびに、俺は自分の気持ちを押し殺し、封じるしかないと知った。
“もういいかい?”
あの声がいつも俺を探していたからだ。
俺がその願いや欲望を抱くことで、あれは俺の場所を嗅ぎつける。
だから俺は、自分の気持ちを常に隠していなければならない。
だが今、それはもう限界に来ていた。
だからこそ、彼女に異児女の害が及ぶことだけは避けなければ。
俺自身の気持ちを真心と信じるなら、遠ざけなければいけないんだ。
父の犯した過ちを、俺自身が繰り返さぬために。




