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13

 夜が明けた。

 なぜか枕を抱えて部屋の隅に転がっていた飯谷を起こして布団を畳んでいると、部屋の外から寺野さんの声がした。


「起きてる?」


「ああ、今布団を片付けてる」


「じゃあ着替えたら浴衣も一緒にしておいて。 終わったら、昨日夕飯食べた部屋わかる? 朝食あるから」


「ありがとう、すぐに行くよ」


 それだけ言ってスタスタと寺野さんの足音が遠ざかる。

 俺たちは急いで片付けと着替えを済ませ、昨日の広間へと向かった。

 室内は昨日とは様子が違っていた。

 寺野一家と俺たち以外の顔ぶれが、ずらりと食卓を囲んでいたのだ。


「おう、おはようさん」


 一番に声をかけてきたのは、寺野父だった。


「おはようございます」

「ざいます」


 眠そうな飯谷を寺野父はやれやれと笑い、テーブルを挟んで俺たちの向かい側にずらりと一列になっている、作業着姿の男たちを見る。


「マキの大学の先輩方だ。 ミっちゃんと同じでちょくちょく顔出すと思うから、覚えといてやってくれ」


 男たちが、箸を止めて俺たち二人に視線を集中させてくる。

 同い年くらいの者から、寺野父に近い風貌の者までその数八人。

 一方、雑な紹介をされてた俺と飯谷は、彼らにぎこちなく頭を下げた。


「こいつらは、ウチの商売を手伝ってくれてる連中だ。 おい、挨拶しろ」


 彼の言葉を合図にするように、八人が揃って座位のままきれいに頭を下げる。


「よろしくお願いします!」


 体格のいい男たちに、どすの利いた声で揃って挨拶されると正直怖い。

 寺野さん、お父さんのご職業って何?


「身体が資本だからな、こうして朝食だけは面倒見てやってるんだ。 俺たちはすぐに出るから先に済ませてもらったが、アンちゃんたちは休みだろう? ゆっくり喰ってくれ」


 そう言われたところで、ちょうど寺野さんが四角いお盆を二つ持って現れる。


「ここでいい?」


 そう言って列の端にお盆を並べる。

 見れば、隣では三田ちゃんが半分眠ったような顔で、トーストを咀嚼していた。


「おはよう三田さん」


 座りながら隣に声をかけると、トーストにくっついたままの唇とリスのように膨らんだ頬がもごもご動いた。


「うえいままむ」


 全然わからん。

 気を取り直してお盆に目を向ける。 味噌汁、一夜干し、漬物、海苔、玉子、白米。

 日本の朝食。 思えばここ数年、ここまで典型的な朝食は食べた記憶がない。

 まあそれを言うなら、朝食を摂った記憶自体が近年は全くないのだが。

 いただきますと手を合わせて、箸をとる。

 全体的に腹八分の盛り付け。 偶然かもしれないが、素晴らしい朝食だ。

 

「あれ、三田ちゃんはパン?」


 品なくもぐもぐと白米を頬張りながら、飯谷が言わなくていいことを、わざわざ口に出す。


「トーストはカレンだけ」


 自分用のお盆を持って、寺野さんが列の端に座る。


「へぇ、わざわざ別にしてあげてるんだ?」


 飯谷が食いついたのを、すこし煩わしそうに見ながら寺野さんが答える。


「まあ、焼いてジャムだけ与えとけば喜ぶんだから、楽よね」


「マキちゃんひどい!」


 口を尖らせて三田ちゃんが異を唱えるが、ジャムまみれの口で言われても、微笑ましさしか感じない。


「で、あんたたちも何? 朝はトースト派とか?」


 やれやれ、とでも言わんばかりに皮肉めいた口調で寺野さんがこちらを見る。

 できれば“あんたたち”と一括りにするのはやめてもらいたい。


「オレは断然、飯派! なぁ加山、なっ?」


 必死に同意を求めるのはよせ。 それから米派ならまだわかるが飯派ってなんだ。

 俺は黙って白菜のぬか漬けに箸を伸ばす。

 口に含むと、やさしい塩気と酸味、爽やかな香りが広がる。


「このお新香、よくできてるね」


 感心したように言うと、飯谷がこっちを見た。


「おしんこって、しば漬けのことじゃねえの?」


 こいつはほっとこう。

 ぬか漬けの香りが残る口に熱いお茶を入れると、魚や味噌の後味がさっぱりとしてほのかな甘みが残る。


「お茶も、おいしい」


「お新香とお茶しか褒めないんだ」


 ちくりと寺野さんに指摘された。 その言い方には不思議と嫌味を感じなかったが、確かにこれだけ振る舞われておいて、開口一番に持ち上げたのがお新香とお茶というのは失礼な話だ。

 そのやり取りを遠目に見ていた寺野父が声をかけてきた。


「よかったじゃねえかマキ」


「うるさい」


「なんでなんで?」


 三田ちゃんが口を挟む。


「あのな、ぬか床かき回すのと、お茶、コーヒーはマキの担当でな……」


 ダイキさん、お嬢さんの視線が怖くなってますからやめてください。

 ついでに社員の方々から敵意のようなものを感じます。


「はいはいそこまで。 ダイキさん、そろそろ出ないといけないんじゃありません?」


「おっと、いけねえや。 義姉さん、ごちそうさま」


 割烹着姿の伯母さんの登場で、話し半ばでダイキは両手を合わせてから腰を上げ、食べ終えた社員たちがそれに習って後を追うように出て行く。

 急に人が減って静かになったせいか残された俺たちは、粛々と食事に取りかかった。

 飯谷は伯母さんに勧められるままご飯を三杯おかわりし、試してみてと言われて自家製のママレードを口にした三田ちゃんはトーストを二枚平らげ、お茶を褒めたはずの俺は、どういうわけか食後にはコーヒーを振る舞われた。

 家庭の台所の匂いが、食卓を包み込んでいた。

 普段の生活の中で気にも留めなかったものが、どうやら忘れかけてしまっていたものが、満ち溢れているようだった。



 朝食を終えて、俺たちが裏野ハイツに到着したのは午前九時をすこし過ぎたところだった。

 駅からすぐの好立地。 駅前にはコンビニやコインランドリー、郵便局などもあり生活の便でも申し分ない。

 寺野さんに、ついでにコインランドリーで洗濯しなさい、と言われた三田ちゃんは衣類のほかに諸々の生活用品が詰まったバッグをしぶしぶ担いで出てきたのだが、これはもう寺野さんは完全に彼女を帰らせるつもりなのだろう。

 コインランドリーでおよそ三十分を費やし、ようやく目的地にたどり着いた。

 冬へと向かう秋の朝、冷たく湿った空気に靄を吐きながら、俺たちは敷地の外からその建物を見上げる。

 三田ちゃんの話しがなければ、どうということのない建物だ。

 俺は昨夜の出来事を思い出して、ただ黙っていた。

 嫌な感じだ。 空気に鉛が混じっているような、嫌な感じが拭い去れない。

 これが単純に、俺が臆病風に吹かれてそう感じているだけだと願いたい。


「さぁて、着いた着いた」


 気持ちをほぐすように背伸びをしながら飯谷が言う。 コインランドリーからここまで、代わりに担がされたバッグがずるっと肩から下がった。


「カレン、とにかく入ろう」


 寺野さんに促されて、彼女を先頭にして俺たちは進む。

 二階の角が彼女の部屋らしい。 外廊下はなく階段を上がると直接玄関の扉が設けられている構造だ。


「ちょっとまっててください」


 ポーチから鍵を取り出して、鍵穴に差し込む。

 軽い音がして鍵が回り、そのままノブを回して玄関を開ける。


「どうぞ」


 三田ちゃんに促されて、俺たちは中へと入った。


「おじゃましま~す」


 飯谷が一番に靴を脱いで、玄関先に上がる。

 続いて寺野さん、俺が中に入り、玄関のドアに半分隠れるようにして、三田ちゃんは室内の様子をうかがっていた。

 入ってすぐはリビングダイニングとキッチン。 右手にトイレと風呂場があり、ダイニングの机の上には三田ちゃんが飛び出してきたときのまま、お菓子の袋が置き去りにされていた。

 正面の角に奥へと続く引き戸があり、三分の二ほど開け放たれている。

 その向こうがどうやら例の寝室のようだ。

 静かな室内で、冷蔵庫と時計の針の音だけが聞こえる。

 躊躇せずに寺野さんが奥へと進み、その引き戸の向こうを覗き込んだ。

 俺たちも後に続いたが、女性の住まいである以上、あまりじろじろ覗くわけにもいかない。


「どう?」


 何がとは言わずに俺が尋ねると、寺野さんが何かに気づいて声を上げた。


「あっ。 ちょっとカレン!」


 後ろで小さくなっていた三田ちゃんが、名前を呼ばれてびくっと身を震わせる。


「いいから来な」


 恐る恐る中を覗いて、すぐに三田ちゃんも声を上げる。


「あ~! 窓が!!」


 飛び込む彼女の背を追うように、俺たちも中を覗いた。

 部屋の奥にあるガラス窓が、どうやら開いているようだ。 かすかに吹き込む風を感じる。


「待った」


 窓に飛びつきそうな勢いの三田ちゃんを制して、俺は中に足を踏み入れた。


「空き巣か何かなら、警察を呼ぶまで触らないほうがいい」


「カレン、なにか無くなってない?」


 寺野さんに言われて、三田ちゃんは部屋の中を体ごとぐるぐる見回した。


「えっと、えっとぉ」


 掛布団がめくれ上がったベッド。 腹が時計になった熊の人形。 大急ぎで衣類を出したためか、引き出しが引かれたままのタンス。

 外国のキャンディのような配色とロゴにふわふわした衣装の女性が表紙の雑誌。


「あ、そうだ!」


 タンスのほうに駆けより、下から二段目を引き出して、中身をポイポイと放りだす。


「うんと、たしかここの奥にぃ」


 あっという間に、洋間の床にパステルカラーの花が咲いた。

 さすがにこれはまずいと、寺野さんが止めにはいる。


「ちょっとカレン!」


「お~い。 三田ちゃん、オレたち男だぞ~」


 床にばらまかれた下着を気にも留めず、三田ちゃんは真剣に何かを探しているようだ。 そして、目的のそれを見つけると、高々と頭上に掲げて見せた。


「あった! へそくり!!」


 どうやらと透明ビニールに入れられた通帳のようだ。

 三田ちゃん、そんなに大声で言うもんじゃないぞ。


「はいはい、よかったわね。 それで、ほかには?」


 額に手を当てて、ため息交じりに寺野さんが言う。


「ん~。 大丈夫だとおもう」


「空き巣の線は薄いか」


 飯谷が顎先に手を当てて真面目な顔で言った。 床に散った下着を凝視しながら。


「ほらほら、いいからさっさと片付けな」


 三田ちゃんの尻を叩いて、寺野さんが片づけを促す。


「寺野さん、窓ガラスに手の跡が付いてたって言ってたよね?」


 俺が訊くと、彼女はうなづいて見せる。


「どの窓?」


 そう訊いて、ようやく彼女は異変に気付いたようだ。


「そこ、今開いてる……。 え、だってこの間は確かに」


 吹き込む風でカーテンが揺れている。

 その窓には、手の跡どころか曇りひとつない。


「本当だって」


 語気が弱くなるが、俺は寺野さんのことを疑っているわけじゃない。

 彼女が言っていることが本当で、三田ちゃんが見たものが間違いないのなら。


「……よくないな」


 思わず口をついて出た言葉に、飯谷が反応した。


「どういう意味だよ加山」


「いや、こっちの話し。 それより三田さん、叩くような音がしたのはどこ?」


 三田ちゃんは、追い詰められたときに叩くような音が聞こえて、明かりや携帯も元に戻ったと言っていた。


「えっと、ベッドから移動して、そこのクローゼットのところですぅ」


 タンスにぎゅうぎゅうと下着を詰め込みながら、三田ちゃんがクローゼットの扉を指差した。


「開けてもいい?」


「どうぞ」


 許可を得てクローゼットを開く。 もこもこした冬物のダウンや、長い毛のコートが数着つるされているが、それ以外はさっぱりしたものだ。

 突き当りの壁面に手を当てて、指先で叩いてみる。

 彼女の話しのとおり、コンコン、と軽い音がした。


「この向こうは?」


 肩越しに見ると、タンスとの格闘を終えた三田ちゃんが傍に来ていた。


「おとなりです」


「隣は、どんな人が住んでるの?」


 そう尋ねると、彼女は顔に困惑の色を浮かべた。


「実は、会ったことがないんですぅ。 空き部屋ってわけでもなさそうなんですけど」


「一度も、会ったことがない?」


「はい」


 しょんぼりと頷く。 おそらく不安なんだろう。

 自分が訊いた音の主が、何者かわからない。 それどころか実は存在しないかもしれない。


「なんか、不気味ね」


 深刻そうな口ぶりで、寺野さんが言う。


「三田ちゃんが見たのってさ、その隣のやつなんじゃねえの?」


 思いついたように飯谷が言った。 確かにその可能性もゼロではないし、もし隣に夜中に窓ガラスを叩くような奇人が住んでいるなら、それはそれで危険だ。

 だが、三田ちゃんの話しでは、窓ガラスを叩かれている最中に、隣からも物音がしたことになる。

 家人が一人でないのなら、それもあり得ない話ではないが。


「問題は、理由だな」


 そんなことをする意味がどこにあるのか。 ましてやトラブルどころか面識すらないのだ。 逆恨みということもあり得るが、だとしても三田ちゃんに全く心当たりがないというのもおかしな話だ。


 ピンポーン


 一同が頭を悩ませはじめたとき、玄関のチャイムが鳴った。

 それと同時にドアの向こうから女性の声がする。


「ちょっと三田さん、帰ってるの? ちょっと」


「はぁい」


 明るい声を出して、三田ちゃんが玄関に向かう。 どうやら声で訪問者が誰かわかったようだ。 俺たちも引き戸の間から様子を窺う。

 がちゃりとドアが開かれて、三田ちゃんがひとつ高い声を上げる。


「あ、おばーちゃん」


 小柄な横に広い感じの老女が立っていた。


「ああよかった、帰ってたのね。 あら」


 俺たちに気づいて、彼女はフクロウのように目を丸くした。

 すかさず、三田ちゃんが俺たちのほうに手を伸ばす。


「がっこーのセンパイ」


「おはようございます」


 頭を下げたのはセンパイじゃない寺野さんだ。


「どうも、朝早くから」


 後頭部を掻きながら、飯谷がよくわからない挨拶をする。

 俺も出遅れながら会釈した。


 老女はにっこりと笑って、深々と頭を下げた。


「これはこれは、わたし201号室の谷崎と申します」


「いろいろよくしてもらってますぅ」


 三田ちゃんの懐きようからすると、日ごろから頻繁に会話をしているのだろう。

 谷崎からすると、彼女は孫娘のように思えるのかもしれない。


「そんなことより、どこいってたんだい! 夜は電気もついてないし、新聞はあふれてるし。 そうそう、郵便受けがいっぱいだったから、新聞はウチにまとめてあるからね」


「ごめんなさぁい」


 叱られて、三田ちゃんがちょこんと頭を下げた。 それを見て、谷崎は満足げにうんうんと頷き、改めて俺たちのほうを見る。


「で、何の相談だい」


「えっ、なんで?」


 飯谷が言いかけて、しまったと口に手を当てる。 それを見た谷崎は平然と言い返す。


「どう見ても、遊びに来たって風じゃないだろう」


「実は三田ちゃ……、いえ、三田さんがストーカー被害にあっているようで」


 言い繕う飯谷に、谷崎が眉を寄せた。


「ストーカー?」


「よかったら見てやってよ」


「おばーちゃん、こっち!」


 寺野さんの言葉に、三田ちゃんが谷崎の手を引いて寝室に向かう。


「あらま、こりゃあ随分と荒らされてるねぇ」


 いえ、室内はこれが平常らしいですよ。


「そーじゃなくて、窓! ほらっ!」


 恥ずかしそうに窓を指差す三田ちゃんと、それを見てことを理解する谷崎。


「あらあら。 警察には、もう届けたのかい?」


「いえ、まだ」


 俺が言うと、なにしてんだい、とでも言いたげに谷崎に肩を叩かれた。


「別に何か盗られたわけじゃないですし、それに外部の人間とは限らないでしょう」


「何を言い出すんだい、アンタは」


「たとえば、隣の住人とか」


 それを聞いた谷崎の様子が変わった。 外に発していた熱が急速に内側に引っ込んでいくのが分かった。


「隣? まあ、うん、そりゃあないと思うけどねえ」


「ご存じなんですか?」


「お願いします、教えてください」


 寺野さんが、俺よりも強く谷崎に詰め寄る。


「だ、だっておまえさん、隣は空き部屋だろう」


「ひぃっ」


 谷崎の言葉に、三田ちゃんが小さな悲鳴を上げた。


「そ、そんなわけないでしょ」


 同じく顔色の悪くなり始めた飯谷が、確認するように言う。


「う~ん。 アタシの知らないうちに誰か越してきたのかねぇ」


 どうやら、思い当たる節は無いと言いたいようだ。


「少し、お話を伺ってもよろしいでしょうか?」


 俺が谷崎に訊くと、彼女はおかしなものでも見るように、笑顔になった。


「よろしいでしょうかなんて。 まあいいよ、アタシも一人でヒマにしてたところだしねえ」


「では、少し片付けてから伺いますので」


「あいよ」


 軽い挨拶を残して、谷崎は部屋を後にした。

 その姿が消えるのを待って、飯谷が俺に訊いてくる。


「どういうこった?」


「この部屋、もっと調べなくていいの?」


 どうやら、寺野さんも不思議に思ったらしい。


「ああ。 それと、窓ももう閉めておこう。たぶん、変質者でも空き巣でもない。 それより頼みがある」


 開いていた窓を閉じて施錠する俺を、三人が不思議そうに見つめている。


「頼みってなんですか?」


 口を開いたのは三田ちゃんだ。


「俺のことは、加山と呼ばないでくれないか。 サトルと呼んでくれ」


「どうしたよ、いきなり距離感急接近だな」


 飯谷はよく呑み込めていないようだ。


「じゃあ。 サ、サトルさん」


 頬に手を当てて、恥ずかしがりながら口にする三田ちゃんの頭の後ろから、寺野さんが軽くチョップを当てた。


「あたしらは“先輩”でいいだろ」


「まあ、お前がそう言うならそうするわ」


 飯谷も何とか了解してくれたようだ。


「よろしく」


 俺たちはひとまず三田ちゃんの部屋を出て、谷崎の部屋へと向かった。

 この辺りに住んでいてあの年齢。 近年になって越してきた家でなければ、加山のこと知らないとは思えない。

 寺野さんの父親ですら“あの反応”なのだ。 名前を出すのは得策ではない。

 それ以上に、俺には谷崎に自分のことを知られたくない気持ちがあった。



 疑惑の202号室をまたいで、俺たちは谷崎の住む201号室へとやってきた。


「おじゃまします」


 どこか慣れた感じで上り込む三田ちゃんの後ろ姿を見るに、以前にも来たことがあるように思えた。


「はい、いらっしゃい」


「すんませんねぇ、朝っぱらから大人数で」


 言いながら、飯谷は勧められもしないのにテーブルの前に置かれた椅子を引く。

 室内の作りは三田ちゃんの部屋と同じようだ。


「さっきも言ったけど、一人でヒマだったからね。 休日くらいはお客さんがいたほうがこっちも楽しいよ」


「そう言って頂けると」


 俺は軽く頭を下げながら言った。


「ありがとう谷崎さん」


 俺の後に続いて寺野さんが微笑みながらお礼を言った。


「谷崎さんだなんて、おばーちゃんでも、ばーさんでもいいよ」


 くすぐったい、とでも言わんばかりに谷崎が手の平を振ってこたえる。


「ばーちゃん親切だなぁ。 なんかウチのばーちゃんみてえ」


 さっそく気兼ねがないな、飯谷。

 だが、谷崎本人がそれを望んでいるようなら、構いやしないか。


「そうかい? じゃあ、アンタのうちのおばあ様も素敵な女性なんだろうね」


 冗談めいた口調で笑った後、谷崎が真顔に戻る。


「それよりアタシの話しじゃなくて、アンタたちもなにか聞きたいことがあるんだろう?」


 視線は三田ちゃんに送られているが、彼女は助けを求めるように俺にその視線を促した。


「あの、それはサトルセンパイから……」


 俺は用意してあった質問を口にした。


「単刀直入にお聞きしますが、202号室は本当に空き部屋なんでしょうか?」


「さっきも言ったけど、アタシはずっとそう思ってたよ。 まあ中に入ったわけじゃないから、絶対かって言われると自信ないけどね、でも誰か越してきたんなら挨拶の一つもあるだろうし、昼も夜も明かりひとつ点いてるところを見たことがないし」


「ずっと、と仰いますと、いつごろから空き部屋なんですか?」


「そうさねぇ。 まあ、アタシが住み始めて二十年は経つね」


「二十年……」


 俺が三、四歳のころからだと考えると、非常識な長さだ。


「それ以前は、どなたかお住まいだったんですか?」


 俺の質問に、谷崎が遠くを見るような目で天井を見上げる。


「うぅん。 どうだったかねえ。 アタシが住み始めたころに、入れ違いで居なくなった住人が居たような、居なかったような」


 曖昧に返事をして、谷崎は俺たちのほうに視線を戻した。


「でもあんた達、やけに隣りにこだわるじゃないか。 何かあるのかい?」


 そういった谷崎の表情は、うわさ好きの中年女性のそれだった。


「いえ、三田さんが隣から物音がすると言うので、もしかするとストーカーが空き部屋に侵入して彼女の部屋の様子を窺っている可能性もあるのかな、と」


「そこで、女の子たちだけじゃアブナイってんで、俺とサトルが呼ばれたってわけ」


 無理やり飯谷が話しに割って入ってきた。 しかし俺一人が話しているような状況よりは、全員が押してくれたほうが説得力はある。

 谷崎が真に受けたように言った。


「そりゃあ有り得ない話じゃないね。 アタシの部屋とも隣だしさ、注意しといてあげるよ。 何かあったら、すぐに知らせるから!」


 鼻息も荒く、谷崎が言ったのを、三田ちゃんがうれしそうに言う。


「おばーちゃん、ありがとう!」


「ところで、警察にはいつ知らせるんだい?」


 谷崎が声のトーンを落としたのを見て、俺も自然と小声で答える。


「いえ、状況をもう少し確認してからで。 大ごとになると、三田さんもここに居づらくなりますから、できれば警察は避けたいんです」


「そりゃそうかもしれないけど、危ないことはしないようにね」


「大丈夫ですよ。 その時は、サトル先輩が何とかしてくれるはずですから」


 寺野さんが皮肉を言うような口調で言う。 もちろんそのつもりだったが、ここで彼女が割り込んできたのが意外だった。


「おやおや、ずいぶんと頼りにされてるね」


 同じくからかうように言った谷崎が、そうだ、と思い出したように立ち上がる。


「アンタたちさ、おかし食べるかい?」


 言いながら、冷蔵庫脇の戸棚の中から、あられの四角い缶を取り出す。

 テーブルに置いて蓋を取ると、中身はチョコレートやスナック菓子やグミといった駄菓子だった。


「わぁ! いただきまぁす」


 さっそく三田ちゃんが、小袋に入った三角錐のチョコレートを手に取った。


「ずいぶんある」


 率直な感想を寺野さんが口にすると、谷崎はすこしだけ恥ずかしそうに言う。


「いやぁ、孫が好きでねぇ。 喜ぶ顔が見たくて、ついつい買いすぎちまって」


「お、これ懐かしいな」


 チューブに入った水色のゼリーを手に取って飯谷が顔を綻ばせた。


「お孫さんは、よく遊びに来るんですか?」


 俺がそう訊くと、谷崎はよく聞いてくれたと身を乗り出す。


「そうなんだよ。 三歳になるんだけどおばあちゃん子でさ。 この間もね、母親が部屋に連れて帰ろうとしたんだけど“僕はおばあちゃんの部屋で寝るんだ”って聞かなくてねぇ、困っちまうよ」


 言葉とは裏腹に、谷崎はこぼれんばかりの笑みを湛えていた。


「見てみたいな」


 さりげなくとはいかず、俺は催促ともとれる言葉を口にした。

 こういうのは、飯谷や三田ちゃんが言うと自然に聞こえそうだ。


「たしか、写真があったはずだけど、どこ仕舞ったかねえ」


 そう言って、お菓子を出してきた棚を開け閉めし始める。


「すみません。 催促したみたいで」


「いいんだよ。 でも悪いねえ、アルバムをどこにやっちまったんだか、ちょっと思い出せなくて。 歳は取りたくないよ」


 そう言って眉を下げて笑う谷崎に、俺も愛想笑いで返す。

 その時、どこからか赤ん坊の泣くような声が聞こえてきた。


「どうしたサトル?」


 チューブを吸いながら、飯谷が俺の顔を不思議そうに見てくる。


「いや、なきごえが聞こえた気がして」


「センパイこわーい」


 三田ちゃんが露骨に嫌な顔をした。


「古い建物だからね、外の音がよく響くんだ。 声なんてしょっちゅうさ」


 谷崎の言葉はもっともなように聞こえた。 飯谷と三田ちゃんは気にもしていないようだ。

 かすかにだが、いまも赤ん坊の泣き声がする。


「このアパートに、子どもはいますか?」


 唐突に訊かれて、谷崎はきょとんとした顔になる。


「え? ああ、下の階にね、若い夫婦が住んでるんだよ。 そこの家じゃないかい?」


「そうですか」


 どうも腑に落ちないという顔をしていたのを見透かしたのか、寺野さんがちょいちょいと俺の肩を指先でつついた。


「サトル先輩、ちょっと」


 見ると、顎先で出入り口を指す仕草をされる。 外へ出ろと言っているのだろう。


「ちょっとごめん」


 俺たちが揃って席を立つと、残された三人の視線が集中する。


「どうしたサトル」


 飯谷がすぐさま声をかけてきたが、俺も理由は分からないので曖昧な笑みを浮かべて返すに留まり、寺野さんは三田ちゃんの肩に手を置いてやさしい声で言う。


「カレン、飯谷先輩とここにいて。 すぐに戻るから」


「あ、うん」


 それから俺たちは揃って玄関から外に出た。

 陽が高くなり始めたとはいえ、まだ手すりに朝の冷えを残す階段を下り、敷地の際まで寺野さんが先導する。


「あんた、どういうつもり?」


 いきなり切り出されて面食らったが、どうやら彼女の真剣な表情を見ると、俺は大きな問題を起こしたようだ。


「さっきのアレ。 わざとやってんの?」


 何の話だろうか。 俺たちは全員で谷崎に話を聞き、お菓子を振る舞われただけだ。

 返事をしない俺に苛立つように、寺野さんの靴のつま先がアスファルトを叩く。


「わかってないわけ? おばーさんに尋問みたいな質問して、おまけに赤ん坊の泣き声がしたくらいで何? アパートなんだから子供くらいいるでしょ。 それを意味深な言い方して、それっぽい人の演技でもしてるの?」


 はたから見れば、確かにそう見られても仕方がない部分は多々あったと自覚する。だが、俺は寺野さんの様子にも違和感を覚えていた。

 口調が普段と違い、声にわずかな焦りを感じる。


「調べごとをしにきたんだ。 失礼を承知で訊かなきゃいけないこともある」


「そんなのわかってる。 でも、あんたひとりでわかってて、わざわざ何気ない言葉を選んでる。 そういうの、あたしは嫌い。 わざわざカレンを心配して部屋まで来てくれた親切なおばーさんを、よく知りもしないで疑ってるあんたは何様なの?」


 驚いたな。 三田ちゃんの部屋で会った時から俺が谷崎を疑っていたことを、寺野さんは気づいていたのか。

 だとすれば、彼女が今抱えている感情は不安だ。 俺が誰にでも疑いをむけること、三田ちゃんの隣家が異常ともいえるあいだ無人であったこと、そしておそらく彼女も気づいているはずだ。


 俺たちがさっき聞いた赤ん坊の泣き声を、限られた者しか聞いていないことを。


「寺野さん、もしかして怖い?」


 秋晴れの空に、乾いた音が鳴り響いた。

 左の頬がひりひりする。


「……ごめん」


 謝罪を口にしたのは、俺だった。

 もしかしてではなく、彼女はいま堪らなく怖いのだ。

 もともと、この手の話題が苦手な女性なのかもしれない。 昔の俺のように。

 彼女が反射的に手を出したことは、彼女の今の表情を見れば一目瞭然だった。

 自分がどうしてそんなことをしてしまったのか、彼女自身きっと全部を理解してはいないだろう。


「あ、あたし、あの」


 俺の頬を引っぱたいた右手を左手で隠すように握りしめ、俯く。

 

「正直に言う。 寺野さん、俺は君が嫌っているとおり今回のことを変質者やストーカーじゃないと思ってる」


 静かに、淡々と口から言葉が出る。 それを、俯いたまま、悲しそうな目で彼女は聞いている。


「昨日、相談に来たとき、君が三田さんの保護者として付き添ってきたのは、相談相手が俺みたいな“胡散臭い”やつだと心配したからだろう? でも残念ながら、その通りなんだ」


 加山の家のことを、おそらく彼女は知らない。 何も知らない。

 今ここでそれを話すのは得策ではない。 それに俺も、できれば知られたくなかった。


「でも、だとしたら、普通のやり方じゃだめだ。 危険だし、周りを巻き込む。 できれば何一つ、知らないでいるべきなんだ」


「だったら、あんたひとりで……」


 思わず口にした言葉を、彼女は自責の念とともに呑み込んだ。

 とても、とてもつらそうな表情に見えた。


「ごめん。 あたし、何言ってんだろうね。 頼んだのはこっちなのに」


 “断るなら断る、助けるなら助けるで、四の五の言わずにハッキリしなよ”


「俺もここへ来るまで、取り越し苦労だったらって思ってたよ。 でも、どうやらそういうわけにもいかないらしい」


「どうするの?」


 彼女の眼が、色素の薄い俺の瞳をまっすぐにみる。


「戻って、二人を連れて来よう。 話は、それから」


「サトル先輩」


「なに?」


「たたいて、ごめんなさい」


 目を伏せて頭を下げる彼女の顔に、さらりと長い髪が落ちる。

 申し訳ない気持ちが、俺の胸のどこかに棘を指す。


「俺のほうこそ、ごめん」


 “もう、いいかい?”


 あの声が聞こえた。 反射的に目を閉じ、指先が震えるのを感じる。

 そうか。もう、駄目なのか。 これ以上は、もう。

 だが、まだ、まだもう少しだけ。


「まあだだよ」


 つぶやいて、大きく息を吐く。

 ゆっくりと目を開くと、心配そうに俺を見る寺野さんが居た。


「大丈夫、まだ時間はあるよ」


 相変わらず、説明にもならない言葉だけを投げかけ、俺は階段へと向かう。

 二人を連れて、ここを出よう。

 赤ん坊の泣き声と“あれ”の声が、俺の頭に最悪のシナリオを描かせる。


 だが、これから起こるのは、最悪よりも最低な出来事だった。




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