12
■
とても長い時間に感じられた。
だがそれが、ほんの短いひと時でしかないことを、俺は知っている。
俺の周りをぐるぐるとまわっていた気配が消え、俺は大蛇に巻きつかれているような気分からようやく解放されて安堵した。
それでも、眼を開いたときに、いきなり目の前にいるかもしれないという恐れから、上を向いてゆっくりと瞼を持ち上げる。
じんわりと霞む視界の中で、月が煌々と輝いていた。
俺は気持ちが落ち着くまで月を見上げていたあと、足の裏についた塵を払って、廊下へと上がった。
心のどこかで、俺は今回の相談に乗ったことを後悔し始めていた。
だが、その気持ちが胸の中で大きく膨れ上がってしまう前に、何とか見て見ぬふりをして気持ちを切り替える。
どうあれ、後戻りはしたくなかった。
部屋に戻ると、洗髪後の飯谷のくしゃくしゃした頭がこちらを向く。
「おう加山、ここの家すげえぞ。 男風呂と女風呂で二つあるんだ。 しかも、広いんだぜ!」
旅館に来てはしゃぐ子どものように、やや興奮気味で飯谷が言った。
おそらく寮にいる人間が使用できる浴室が、家族用のものとは別にあるのだろうが、今日は家族用が女性に割り当てられていると考えれば、飯谷が男風呂、女風呂と考えたのも頷ける。
「しっかし、これくらいデカい家になると、風呂からなにから違うんだなぁ」
感心するように言う飯谷に、そうだな、と相槌を打っておいたが、俺にはあまりピンと来ていなかった。
言いたいことは理解できるが、飯谷の言うデカい家で、風呂が二つあろうが三つあろうが、そこに住む人にそれほど大した違いはないのだ。
はやく見てこいよ、と飯谷に押し出されるようにして風呂場へ向かった俺は、脱衣所に置かれた浴衣とタオルに添えられた「ちゃんとあったまるように 寺野」というメモを見て、嬉しさと同時に妙な気恥ずかしさを覚えた。
体を洗って湯船に浸かりながら、自分が住んでいた家のことを思い浮かべる。
俺の実家には、家長、男、女、来客と、四つ風呂があった。 単なる成金趣味ではなく、古いしきたりに理由があったと後に知ったが、小さいころは風呂掃除と沸かす手間が増えるばかりで意味があるようには思えなかったし、よその家に風呂がひとつだと知った時や、とくに家族で一緒に入っているという話を聞いたときは、正直うらやましく思っていた。
ゲーム好きで、ちょっと生意気だけど明るい弟。
厳しいところもあって手も出るが、家族思いのしっかりした姉。
綺麗で優しい、母親代わりの伯母。
不器用で少し強引だが、なにより家族を愛する父親。
みんなで揃って、いただきますと手を合わせる家族。
何も特別なことじゃない。 どんな家庭にも事情や都合の違いがあるだけで、そこに生きる人たちに大した違いなんてない。
だからこそ、ほんの些細なことで大きく揺らぎもする。
裕福さを理由にするか、貧しさを言い訳にするか、目に見えるものには拘らないか。
家庭に幸せがあるか否かは、なにを中心にしてそれが作られているかだと思う。
俺の住んでいたあの家は、古いしきたりを中心にがすべてが廻っていた。
しきたりに従って人があり、しきたりを守るために人が動いていた。
大きな組織の一員であることを歯車に例えることがあるが、あの家の人間は歯車にさえ至らぬ抽象的な役割を担っていたように思う。
いわば歯車を動かす動力を生むための、燃料のような。
もうもうと立ち上る湯気が、浴室の天井板に吸い込まれていくのを眺めながら、ぼんやりとそんなことを考えているうちに、すこし頭がのぼせてきたのを感じ、俺は湯船から体を引き上げた。
脱衣場のひんやりとした空気を心地よく思いながら、体を拭いて浴衣の帯を締め、廊下へ出る。
丁度、廊下の向こうからバスタオルで髪を拭きながら歩いてくる寺野さんと鉢合わせた。
「あんたも今上がり?」
下は赤地に白のストライプが入ったトレパン。 上は黒に赤字で怪しげな英単語がプリントされたタンクトップの上から、真っ赤なトレシャツを羽織っている。
足にはふわふわの毛が付いた熊のスリッパを履き、ぺった、ぺったと音を立てながら歩いてくる姿は、そのギャップも相まって正直ガラの悪い人の姿だ。
髪を拭いていたタオルを首にかけながら、彼女が俺の前に立つ。
まだ少し湯気の残る肌には朱が差し、しっとりと水気をはらんだ唇が健康的だ。
ふわりと石鹸の香りが鼻先をくすぐり、首から垂れ下がったタオルが、彼女の胸の曲線を描きだしている様子から、俺は反射的に目を逸らした。
「なに」
目を逸らされたのが気に入らなかったのだろうか。 じっと、眉間に縦皺を作った彼女の顔が下から覗き込むように視界に割り込んできた。
吐息が清涼な香りがするのは、歯磨きの後だからだろう。
「いや、ちょっと」
「顔赤い」
「のぼせたみたいでさ」
「ふうん」
にやり、と半目の彼女が口端を持ち上げた。
「イチといい勝負だわ、あんた」
とても馬鹿にされたのだけは分かった。 顔が赤いのはのぼせたからだと異議をを申し立てたくて彼女を見ると、すでに彼女はこちらに背を向けて歩き出している。
「じゃ、明日はよろしくね。 おやすみ」
こちらを向かずにそう言い、彼女は頭の上で気怠そうに手を振って見せた。
「ああ、おやすみ」
残された俺は、自分がひどく幼く思えて少しだけ悔しかった。




