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中学生になった最初の夏休み。
俺は父の言いつけを守らず、今年もあのひとの家に行くことを決めていた。
両親には、新しくできた友人の家で夏休みの宿題をやる約束をしたと嘘をつき、買ってもらったばかりのマウンテンバイクに跨って家を出る。
正直、実家からあのひとの家までは距離があったが、こうでもしなければ車で送って行かせると言われかねなかった。
セミの合唱が降り注ぐ中、汗だくになりながらひたすらペダルをこぐ。
途中、昼間の日差しを避けて休憩がてら市の図書館に入り、涼みながら夏休みの宿題に取り組んだ。 一応、宿題をやるという口実で出た手前、テキスト一式は鞄に詰めてきたのだ。
遅い昼食を近くのラーメン屋で済ませると、陽が少し西に傾いていた。
商店街を通り抜け、公園を横切り、夏休みの子どもたちで賑わう駅前を通って陸橋を越えれば、その先は住宅街だ。
町の喧騒を遠くに聞きながら、俺は人家がまばらになった住宅街のはずれにやってきた。 電車とバスを乗り継げばどうということのない距離だが、子どもが自転車で走ってくるとなるとかなりの労力だ。
二階建ての小さな庭がある日本家屋、それがあのひとの家だ。
ブロックを積んだ塀に囲まれている家の正面に回ると、柵状の門が閉ざされていた。
門柱につけられた呼び鈴を押してみるが、中で音がしている気配がない。
留守かと思ったが、ガレージに車が止まっているし、中からさわさわとテレビの音が聞こえてきている。
悪いと思いつつも、自転車を門柱の脇に置いて柵を押してみる。
きぃ、と音がしてそれは開いた。
玄関のところに、もう一つ呼び鈴がある。 あっちは押せば鳴るかもしれない。
そう思い、俺は少し後ろめたさを感じながら敷地の中に足を踏み入れた。
その途端、なにか違和感を感じた。
どういえばいいのかわからないが、去年来た時にはなかった妙な感覚に襲われてそこで立ち止まった。
たとえば外からは気づかなかったが、門に設置された郵便受けの内側が積もるほどに郵便が放置されていたり、玄関から見て右手にあたる居間は雨戸がぴしゃりと締め切られ、縁側の前には燃えるゴミの袋が山積みになっている。
庭に植えられた松の木は立ち枯れ、俺の膝まである草が伸び放題だ。
俺は恐る恐る進んで、玄関の前に立った。
呼び鈴を押すことに抵抗を感じたが、せっかくここまで来て帰るわけにもいかない。
人差し指を伸ばし、呼び鈴をぐっと押し込んだ。
ピン、ポーン。
一拍あけて、呼び鈴が屋内に響く。
格子になった玄関の硝子戸の向こうで、人影が揺らめくのが見えた。
とす、とす、とす。 ざり。
ゆっくりと近づいた足音が玄関の土間に下りる。
「あ、あの、加山悟です」
向こうから何かを言われる前に、俺は懺悔するような気持ちで名乗った。
かしゃ、と鍵が外れる乾いた音がして、玄関の戸が10センチほど開かれる。
その隙間からこっちを見ていたのは、あのひとの父親の目だった。
「悟くん、今年も来てくれたのか」
言いながら、玄関がガラガラと開け放たれる。
どこか疲れたような表情に笑みを浮かべるその人を見たとき、俺は笑おうとした自分の頬がひきつるのを感じた。
目の下にできた隈。 充血した眼。 白髪がふいて薄くなった頭髪。
もとからふくよかではなかった顔は頬骨が浮き出し、たった一年会わない間に何十歳も年を取ったように見える。
「上がってくれるかい?」
招き入れようと奥に手を差し伸べながら半身を引いてくれたが、足が動かなかった。
まっすぐに続く夕闇に沈んだ廊下の先が、何か恐ろしい生き物の体内のように感じられたからだ。
「さあ、今年も、会ってやってくれるんだろう?」
落ち着いた、やさしげな口調だった。
だが、俺にはまるで“入れ”と命令されているように感じられた。
靴のゴム底を引きづるようにして、俺は玄関の中に入った。
夕日がぎらつく外に比べ、室内灯のひとつもつけられていない屋内は、ひどく肌寒く感じられる。
あのひとの父親が土間から上がって廊下を進みだす。
俺も靴を脱いで揃え、そのあとに続いた。
進んで突き当りを曲がった奥が、仏壇のある部屋だ。
居間の扉の隙間から、テレビの音が漏れていた。
廊下の両端には、段ボールや古新聞の束が積まれ、何かが詰まった買い物袋が無造作に置かれている。
途中で食堂の前を横切った時、ちらりと横目で見て愕然とした。
テーブルの上には食べ残した食器や、買ってきた惣菜のパックが重ねて放置され、シンクには汚れた食器が詰め込まれている。
その上を、無数のハエがわんわんと渦を巻いていた。
うっ、と胸の奥からこみあげてくるものを我慢して、俺は奥へと進む。
すべてが異様な光景に感じた。
静かで明るく、打ち水をしたように清涼で、ふんわりとクチナシが薫るようだったあの家とはとても思えない。
よく見れば、前を行く父親の来ているシャツも、妙なシミだらけだ。
それに家の奥へ行けばいくほど、駅の公衆トイレに入った時のような嫌な臭いが強く漂ってくる。
奥から臭気の川が流れていて、足首までそこに浸かりながら歩いているようだ。
俺はここへ来たことを後悔し始めていた。
だが、どうしてこうなってしまっているのか、それを確かめなくてはという気持ちが強く芽生えるのも感じていた。
襖をあけると、仏壇のおかれた畳の間だった。
さっきまでの光景が嘘のように、ここだけは去年からなんの変りもない。
明かりのない室内に、赤みの強い夕日が強く差し込んで、光と影のコントラストを色濃く落としている。
父親がなかにはいって、部屋の隅から座布団を引っ張ってきて二つ並べた。
片方に彼が座り、中に入った俺がもう片方に腰を下ろす。
どこかで、赤ん坊が泣いている声が聞こえた。
父親はぼんやりと外を眺めながら、胡坐をかいている。
その隣で、俺は仏壇の前で手を合わせて目を閉じた。
心の中には、すこしもあのひとのことが浮かんでこなかった。
どういうわけか、ことを済ませて早く帰ってしまおうという気持ちばかりが強くて、自分の薄情さというか、身勝手さに自己嫌悪すら覚えるほどだった。
「もう、悟くんはここへは来ないのかなぁ?」
父親が、うわ言のようにつぶやいた言葉に、俺は心臓を鷲掴みにされたような気持になった。
「そ、んな、ことは」
慌てていて、喉の奥から言葉が出てこない。
こちらを向かずに夕焼けを眺める父親が、ひどく恐ろしいものに思えた。
「それより、おばさんは?」
俺は何とか手持ちの数少ない駒を使って、別の話題に変えようと試みる。
俺にとってはただの苦し紛れだったが、どういうわけか外を見たままの父親が少しだけ嗤ったように見えた。
「実はね」
そう言いながら、ゆっくりとこちらに顔を向ける。
夕日の逆光で、父親の顔が真っ黒に塗りつぶされていく。
「そのことで、悟くんにお願いがあるんだ」
聞きたくなかった。 聞けば、きっと断ることは許されないから。
だが、俺はその場を逃れるすべを知らず、ただ正座して膝に両手をあてたまま身を固くしていることしかできなかった。
「おばさんはね、今病気なんだ。 いや、ずっと病気だ。 とても重い病気でね、お医者さんでも治せないんだ」
耳をふさぎたい衝動に駆られるが、俺の手の平はじっと膝に張り付いたまま、手の中にぬるい汗をかくばかりだ。
「あの子の日記、覚えているかい?」
じわりと、心臓の周りに血液がにじみ出るような痛みが走った。
「はい」
「イジメサマ、というのが書いてあっただろう?」
忘れられるはずがない。
イジメサマ、イジメサマ、どうぞうらみをおはらしください。
その言葉はべったりと記憶に染み付いて消えなかった。
「はい」
「その、イジメサマだけどね。 願いを叶えてくれる神様なんだ」
「神様?」
去年、家に帰る途中でみたあの赤い着物の少女が脳裏によみがえる。
俺はUFOやUMAや超古代文明なんかの話は好きだ。 俺のところには一度も現れなかったが、サンタクロースだってこの頃までは信じていた。
だが、幽霊や神様といった超自然的なものになると、信じたくないという気持ちが強すぎて、受け入れられない。
懐疑的だからというわけじゃない。 むしろ逆だ。
夏祭りの怪談会に行って、夜中トイレに行けなくなったトラウマもある。
そう、今にして思えば俺にとってそれらは“怖すぎるもの”だったのだ。
そんな俺の胸中を知ってか知らずか、父親はずっと座布団を引きずるように俺のほうへ膝半分だけ近づいてきた。
「そう、神様。 あの子が、学校でひどいことをされたのは知っているね? そこから、あの子が立ち直ったことも」
日記を読んだのだ。 知らないはずはない。
優しかったあのひとが、周囲を見下して復讐に愉悦を覚えるその転換点になった出来事。 それがイジメサマとの出会いなのだろう。
「悟くんは、隣町の中学校だったね。 噂話くらいは聞いたことがあるんじゃないのかい? この町で起きた集団自殺のこと」
確かに、言うとおりだった。
中学に上がって、小学校が他の学区だった生徒とも同じクラスになった。
その一人が、自慢げに自分の学区で起きた事件の話をしているのを、俺は耳にしたことがある。
イジメの中心メンバーだった生徒たちが、原因不明の病に侵されて食事もまともに取れず、動くこともできなくなって病院に入った。 だが医者もお手上げで、病室は狂ったように暴れて泣き叫ぶので、薬を使って落ち着かせるくらいしか手の施しようがなかったそうだ。
そんなとき全員が全員、けろりと元に戻ったような、いや、前よりも健康になったような晴れた顔になった。 憑き物がおちたような、というのが正しいかもしれない。
彼らは外の空気を吸いたいと言って病室を出ると、付き添っていた保護者の目を盗んで病院を脱走した。
そして、全員がある中学校の裏の林に忍び込み、首を吊って死んだ。
一本の木に、連なるようにしてぶら下がっていたそうだ。
「そのとき亡くなった子たちというのがね、あの子にひどいことをした中心メンバーだったんだよ」
初めて集団自殺の話を聞いたとき、俺は恐ろしいとは思ったが信じなかった。
たかだか隣町の話しが自分の住んでいた地域に届かないとは思えなかったし、動けなくなって入院したのに、病室では暴れていたというのが矛盾していたからだ。
しかし今、また別の人間から改めてその話しを聞き、しかもそれがあのひとに関わりがあったと知ったことで、突如としてこれまでにないほどの現実味が感じられた。
「私はね。 あの子が、イジメサマに助けを求めた結果だと思うんだ」
そうなのだろう。 でもそうだとしたら、その結果はあまりにも無慈悲だ。
ただ“結果が出た”ということは、間違いない。
「だからね、私もイジメサマに助けてもらおうと思うんだ。 おばさんの病気を治してくれるように、お願いしてみようと思うんだ」
藁にもすがる神頼み。 人を死に至らしめるほどの力があるのだとすれば、人の死を曲げる力もあるかもしれない。
このひとがそう考えたのも、無理からぬことに思えた。
不治の病に侵された最愛の妻、あのひとが居なくなってからは、それまでにも増して最愛の。
助けるためになら、何でもする。 駄目でもともとだ。 どんなことでもする。
その気持ちはよくわかるつもりでいたが、ただそのときの俺には、得も言われぬ不安があった。
よくわからない。 うまく言葉にはできないが、濃いもやのような不安だ。
“そんなものに縋って、大丈夫なのか?”
今になって、あえて言葉に直すならそんな気持ちだ。
だが、このとき目の前の父親は、俺のそんな気持ちなど知るはずもなく、やや興奮気味に話しを先に進める。
「それでね、イジメサマについて私なりに調べてみたんだ。 それでわかったのは、イジメサマは子どものお願いしか聞いてくれないってことなんだ」
子どもの願いしか。 嫌な予感が、徐々に確信めいたものにかわる。
「大人の願いごとは、不純なものが多いだろう? だからじゃないかと思うんだ。 イジメサマは純真なもの、無垢なものの願いに力を貸す。 そう思わないかい?」
訊かれたところで俺に答えようはない。
だがその口ぶりから、あのひとが純真無垢なものであったと、そう言おうとしているのだということは分かった。
「そこでね、悟くん。 君にお願いしたいんだ。 妻の、おばさんの病気を治してくれるように、イジメサマにお願いしてくれないか?」
言われると思っていた言葉が、やはり投げかけられた。
俺は断りたくて仕方がなかったが、嫌ですの一言がどうしても口に出せない。
目の前にいる、この疲れ果てたひとの姿を見れば、頼みごとの恐ろしさよりも哀れさのほうが勝るのは無理もない。
娘が亡くなり、妻は病に伏し、家の荒れ方を見ればずいぶんと苦しんできたはずだ。 それでも希望を捨てずにすがりつく一本の藁が、今まさに自分なのだ。
沈黙の中、カラスの鳴き声に混じって、どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえる。
「少し、考えてもらえるかな」
そう言って、父親は立ち上がって部屋を後にした。
足音は廊下の反対側の風呂場へと向かった。 ドアが開閉する音がして、彼が中に入るのがわかった。
一人きりになると、俺は膝を崩して天井を見上げた。
鳩尾のあたりに溜まっていた息を吐き出し、緊張を無理やりに体の外へと追いやろうとする。
すこし緊張が解けると、ふと尿意を催した。
俺は立ち上がって襖をあけ、廊下に出る。
場所は分かっている。 正面に風呂場があり、そのすぐ隣にあるのがトイレだ。
見ると、風呂場のドアが閉まりきらずに少しだけ開いており、中から雨が降るようなシャワーの水音が聞こえる。 それに混じって、何か別の音が。
くちゃ、くちゃ。
水を吸ったゴムを叩いているような音だ。
俺はトイレを借りますと一言いうために、ドアの隙間から中を覗いた。
脱衣所に父親の姿はなく、浴室のくもりガラスに人影が写っている。
その向こうから水音と同時に、何かぶつぶつと言っているのが分かった。
静かにドアを開けて脱衣所に入った俺は、立ち込める臭気にうっと喉を詰まらせた。
小学校のころに学級飼育で失敗したザリガニの水槽を思わせる臭気が充満している。
ああ、だめだ。 また、だめだ。
つぶやき声がそう聞こえ、俺は中にいる父親に声をかけることを躊躇った。
人影は浴室にしゃがみ込み、シャワーを足元に流しながら何かを叩いているようだ。 腕が動くたびに、くちゃ、くちゃ、と音がする。
何が。 中で何が起こっているのか。
俺は、知ってしまう恐怖より、未知に対する恐怖心に負けて、恐る恐るガラス戸に近づくと、それをカラリと引いた。
浴室の光景が視界に飛び込んでくる。 血走った目で、父親が俺を見上げる。
その瞬間、俺は見てはならないものを見たと悟った。
おぞましいという言葉の意味を、そのとき初めて実感したと思う。
浴室には、ふたりいた。
しゃがみ込んで足元にシャワーを流す父親と、もうひとり。
空の広い浴槽の中に置かれた、分娩台のようなものに乗せられた人物。
頭だけ出る白衣のようなものを着せられ、口から上は買い物用の白いビニール袋が被せられている。
緑や茶色がかった不潔なシミのある白衣の下、腹部は異様に膨れ上がり、唇はガサガザに乾いてひび割れ、口元には食べかすがへばりついていた。
紫色の血管が浮き出るほどに痩せた両腕は肘掛にビニール紐で括り付けられ、開かれた両足も同様に足首が縛られていた。
股の間には水色のポリバケツがひとつ無造作に置かれている。
バケツの中には、緑がかったドブ色の液体が少し溜まっているのが見えた。
「悟くん」
我に返ったように、父親があわてて手に持っていた何かを後ろ手に隠した。
緑がかった墨汁のようなものが、シャワーの水に流されて排水溝に落ちていく。
彼は隠したものをズボンの後ろのポケットに押し込みながら立ち上がると、俺の視界からもう一人を隠すように、俺の目の前に立ちはだかった。 壁との間のわずかな隙間から見えるもう一人と、目の前の彼を交互に見ながら俺は言葉を探す。
「あ、あの、ごめんなさい。 その、トイレに、その」
目の前の彼の体から、熱気が吹きだしているのがわかった。
これは激しい怒りだ。 見られたこと、見たことへの怒りをありありと感じる。
彼が、俺を押しのけるように、ずいっと一歩進んだ。
バランスを崩して、俺は尻餅をつく。
殺される。
はっきりとそう思った。
そのとき、浴槽の中の人物がうめき声をあげた。
「あ、うぅ」
わずかに身じろぎし、腹のふくらみの中から、がぼんっとくぐもった水音がする。
女性の声だった。 父親の体から噴出していた熱気が、すっと下がったように感じた。 彼は振り向いて、ゆっくりと浴槽に近づき、露わになっている口元から流れる液体をやさしい手つきで拭い取った。
「お、おばさん、なの?」
訊いてはいけないことを口にしたと思ったが、抑えられなかった。
父親はこちらを向かずに、溜息をつく。
「ああ」
「おばさん!」
助けを求めるように俺は呼びかけるが、うめき声がわずかに返ってきただけだ。
「無駄だよ。 今彼女は、自分の名前さえよくわかっていないんだ」
「そのおなかは……」
まるで妊婦のような丸みを帯びた腹部。 だが子供を宿しているそれと異なり、ひどく病的な何かに見えた。
「子どもがいるわけじゃない。 これが病気の原因なんだ。 でも、どうしてこうなったのかも、どうしたらいいのかもわからない」
そう言いながら、彼はうなだれて、力なく肩を落とす。
「こんな袋を被せて、酷いだろう? でもね、彼女の眼が。 見知らぬ者を見るように私を睨んで、それでも助けを求めるような彼女の眼が、恐ろしくて堪らないんだ。 私にはとても耐えられないんだよ」
罪の告白のように、膝から崩れ落ちながら吐露する。
「頼むよ、悟くん。頼むよ。 私たちを、助けてくれないか」
懇願するそのひとの隣で、彼の妻であるはずの女性が、うええ、と呻き声をあげる。
ビニール袋が、がさがさと揺れる。
イジメサマに願うこと。 病気を治し、この二人を救うこと。
それができるのが自分しかいないのなら。
あのひとの両親を、救うことができるなら。
そのときの俺には、それが何よりも正しい行いに思えた。
すぐ近くで、赤ん坊の泣き声が聞こえていた。




