神奈川県厚木市。中華料理店の麻婆豆腐定食。
朝からはっきりとしない天気が続いている。
「初夏なみの暖かさになったり、雨と風が凄かったり」
ここ最近は日によって寒暖の変化が激しいな、と、タスッタさんは思う。
外出してあちこち歩き回ることが多いタスッタさんにとって、天候の変化が激しいのはそれなりに問題であった。
タスッタさんはどんよりとした曇空を見あげて軽くため息をつく。
こういうはっきりとしない天気の日には。
「なにか辛いものでも食べて、汗でもかきましょうか」
この日、タスッタさんが来ていたのは小田急線本厚木駅から少し離れたあたりで、駅前の繁華街から微妙に外れた場所になる。
しばらく歩いて見て、よさそうなお店がなければ駅の方まで引き返してもいいし、とか思いつつ、タスッタさんはしばらく周囲を散策してみた。
「ここでいいでしょうか」
しばらく探索した結果、タスッタさんは一軒の中華料理店の前で足を止める。
どこの街にでもあるような、そんな店構えの中華料理店だった。
適度に古びて見えるということは、それだけ長く営業を続けられているということで、大きく外れることはないだろう、と、タスッタさんはそう判断をする。
午後二時過ぎという半端な時間のせいか中から物音が聞こえず、お店が開いているのかどうかも外からは判断がつかない。
別に開いていなかったとしても、またしばらく歩いて別のお店を探せばいいだけのことなんですけどね、とそう思い、タスッタさんはそのお店の引き戸を開く。
さほど力をいれる必要もなく、あっさりと引き戸は開いた。
「いらっしゃーいー」
カウンターに腰掛けていた中年女性の店員さんが入り口のタスッタさんに気づき、慌てて立ちあがった。
「席はどこでにも空いてますよ。
好きなところにどうぞ」
そういうイントネーションに、違和感をおぼえた。
おそらくは、日本人ではないんだろうな、と、タスッタさんは察する。
そして、その店員さんがいっていた通りに、薄暗い店内には人気がなかった。
時間が半端なせいかな、とか思いつつ、タスッタさんはカウンター席に座ってメニューを開く。
ええっと、今日は。
そう、なにか辛いものが食べたい気分だったのだ。
「もうランチセット、おわっちゃったのよ」
タスッタさんの手元にお冷の入ったコップを置きながら、店員さんがそんなことをいう。
「でも、定食はぜんぶご飯食べ放題だから」
タスッタさんはそれに軽く会釈をしただけで応じて、メニューに目を走らせる。
うん。
普通だ。
実に普通の中華料理店のメニューだった。
この中で、辛そうなお料理というと。
「この麻婆豆腐って、辛いですか?」
タスッタさんは店員さんに訊ねた。
「辛いけど、辛くないのもできるよ」
店員さんは、淀みなく答える。
「いえ、辛い方がいいんです」
タスッタさんはきっぱりとした口調でそういって、ついで、
「麻婆豆腐を定食でお願いします」
と、注文を告げた。
単品ではなく定食にすると、スープとご飯食べ放題がついてくる、らしい。
逆にいうと、それくらいしか違いがないともいえた。
「お昼の営業よりも、夜になってからの方が本番のお店なのかもしれませんね」
料理が来るのを待つ間、タスッタさんはさり気なく店内の様子を観察しながら、そんなことを思う。
店内が薄暗いこともあって、なんとなく家族向けのお店というよりは、お酒目当てのお客さんをメインにしているような雰囲気を感じたからだ。
もっともこれは、店内の様子からタスッタさんが勝手に想像をしたことだから、どこまで合っているのか判断がつかなかったが。
お客がタスッタさん一人しかいないということもあって、注文した麻婆豆腐定食は五分も待たずに出てきた。
もともと中華料理は、調理時間が短く済む傾向にあるのだが、なかなか手早い。
タスッタさんはまずお冷やを一口口に含んでから、レンゲを手にして麻婆豆腐の皿に突っ込む。
見た感じ、特別に赤過ぎたり黒過ぎたりせず、ごく普通の麻婆豆腐に見えた。
それを掬って、一口、口の中に入れる。
まず十分に痛めた挽肉の旨味が舌の上に広がり、そのあとじんわりとラー油の尖った辛さと胡椒や山椒の辛さが、じんわりと時間差で攻めてくる。
あ。
と、舌が痺れるような辛さを感じながら、タスッタさんはそう思う。
意外に、これは。
うん。
本格的な、麻婆だ。
ただ辛いだけではなく、辛さが何種類かあって、複合的に感じる。
そしてその辛さをやわらげるように、舌の上で滑る淡白な豆腐の味。
一口食べただけで、タスッタさんは顔中に汗をかいていた。
それを取り出したハンカチで一度拭ってからお冷やを口に含み、タスッタさんはご飯を一口食べる。
ご飯の味がわからないくらいに、舌が、味覚が麻痺していた。
ついでタスッタさんはスープを一口啜り、麻婆豆腐をレンゲで掬ってからご飯の上に置いて、食べる。
いっしょに咀嚼すると、麻婆豆腐のご飯によって若干中和されて、ちょうどいい感じになる。
とはいっても、嚥下したあとにまであとを引くような辛さには、かわりはないわけだが。
辛い。
けど、おいしい。
タスッタさんは途中で何度か汗を拭いつつ、休むことなくレンゲを動かし続ける。
これだ。
と、タスッタさんは思う。
このはっきりとしない天候の中、タスッタさんが求めていたのは、こういうガツンとくる程よい辛さだったのだ。
こういう日には、やはり辛いものでも食べて盛大に汗をかくのがいい。
それにしても。
と、タスッタさんは思う。
お店に入った当初は、正直期待できないかな、とか思っていたのですが、その実、実際にお料理をいただいてみると、このお店はかなり当たりの部類だということがわかった。
見かけによらない、といったら失礼になるのか。
だけど、第一印象を裏切るようなお店というのは、まま存在しますからね。
今回のように、いい意味で裏切られるのならばいいのだが、実際にはその逆のパターンが圧倒的に多いことを、経験上、タスッタさんは知っている。
街中の、あまり流行っているようにも見えないようなお店の中に、こういう隠れた名店がひょっこり紛れ込んでいるのが、この国の食文化の豊かさなんじゃないでしょうか。
タスッタさんは、そんなことを思ってしまう。




