茨城県東茨城郡大洗町。海鮮食堂の一人アンコウ鍋定食。
はじめて訪れた大洗は、港町のような観光地ような、奇妙な印象を受ける場所だった。
駅前商店街の人々は総じて人当たりがよく、ふらりと訪れたタスッタさんのような者でも妙に居心地がいい。
反面、目にする光景的には、微妙な寂れ具合に典型的な現代日本の地方都市の陰影も感じてしまう。
なにより、タスッタさんにとって不可解だったのは。
「……これには、どんな意味があるのでしょうか?」
駅前商店街のあちこちに散財しているアニメキャラクターがプリントされた立看板を見るたびに、タスッタさんはそう思った。
ここ大洗は、数年前に放映された戦車に乗る女の子を題材にした深夜アニメで背景のモデルとして使用された過去がある。
そのアニメはかなりのヒットをし、さらに数年後に制作された劇場版も記録的な興行成績を残したことも手伝って、あちこちにそのアニメのキャラクターがプリントされた立看板が配置されているのだった。
こうしたある種のコンテンツとモデルとなった地元とのコラボレーションがうまく成立している場所のことを聖地と呼ぶ習慣があることを、もちろんタスッタさんは知らない。
ここ大洗は、地元住人のホスピタリティに支えられてその聖地と成立している、数少ない成功例でもあった。
「さて、なにを食べましょうか」
一通り駅前周辺を散策してから、タスッタさんはそんなことを思う。
「ここは港町ですから、やはり海産物がいいですかね」
時刻は午後一時過ぎ。
昼食のピークは外しているものの、タスッタさんにとっても空腹が気にかかる頃合いである。
ざっと見渡してみたところ、飲食店の数自体は決して少なくはない。
だからこそ、目移りがするという部分もあるわけだが。
「こういう場所ですし、古くからやっていそうなお店に絞りましょうか」
しばらく頭の中で検討してみた結果、タスッタさんは駅前から少し歩いたところにある海鮮食堂に入ることにした。
古いけど、それは決して受ける印象が悪い古さではない。
むしろお店の年輪を感じさせるような、風格のある佇まい。
もちろん、店内は清潔だった。
あ。
このお店は、当たりだ。
一歩店内に入った瞬間に、タスッタさんはそう直感した。
お店の雰囲気や内部の様子をみてみれば、お店の人たちがそのお店に対してどれほどの手間をかけているのかおおよその見当がつくようになっている。
決して大きなお店ではなかったが、ざっと見渡しただけでも愛情を込めて手をいれているお店であることは、すぐに見て取れた。
こういうお店は、おいしいものをいただける確率が高いということを、タスッタさんは経験上知っている。
タスッタさんは女性の店員さんに誘導されてすぐに空いていたカウンター席に着くと、ぐるりと周囲の壁に貼られていた品書きを見渡してから、落ち着いて卓上に置いてあったメニューを開いた。
このお店ならなにを頼んでもそれなりのお料理が出てきそうな気もするのだが、少し慎重に考えた方がいい。
と、タスッタさんはメニューに目を落としながら自分を戒める。
ここでしか食べられないお料理をうっかり見逃してしまうこともあるからだった。
ざっとメニューを確認して見たところ、内容はおまかせで旬の海産物を出してくれるとかいう日替わり定食にも多いに気を惹かれたのだが。
「アンコウ、鍋」
メニューの中に想定外の文字列を見つけて、タスッタさんはポツリと呟いてしまった。
一人前から出してくれるという注意書きが、タスッタさんの注意力をさらに強く引く。
タスッタさんはこれまで、アンコウという食材を試した経験がなかった。
これは、いい機会なのではないか。
すぐにタスッタさんは店員さんを呼び、
「一人前からできるんですよね?」
と確認をした上で、アンコウ鍋を注文した。
「アンコウ鍋ですと、定食にもできますが。
どうなさいますか?」
「定食、ですか?」
「お鍋に、お刺身と小鉢、玉子雑炊がつきます」
アンコウ鍋単品だと千九百円、定食にすると二千六百円、いずれも税込み価格。
その程度の価格差であるならば、と、タスッタさんは定食の方を頼むことにした。
「今年は台風ばかり来ているからねえ。
魚もろくなものが入ってこないだろう?」
「シケで船が出せない期間が長いみたいで、漁獲量はかなり落ちているようですが、なんとかやっています」
お客さんと板前さんがそんな会話をしている。
漁獲量が減れば海産物の値段もそれだけ高騰をする。
いや、台風の被害を受けるのは漁業だけではなく、農業だってそうだ。
特に今年の台風は、珍しく東北や北海道を立て続けに直撃しているから、その影響の方も多方面に及ぶのではないか、などといった意味の会話をそのお客さんと板さんは続けていた。
このお店の店員さんは、その板さんとホール担当の女性店員さんだけらしい。
そのお客さんはまだ日も高いというのに、いい気分でなにかの竜田揚げに箸をつけながら、コップ酒を煽っている。
「お待たせしました」
女性の店員さんが、カセットコンロに乗った土鍋を持って来て、タスッタさんの前に置いた。
「今火をいれますから、煮えるまでしばらくお待ちくださいね」
そういってカセットコンロに着火して、すぐに去って行く。
土鍋は確かに一人前サイズであり、こうして目前にしてみるとかなり小さくも感じる。
「はい、こちらがお刺身と小鉢になります」
一度去った店員さんはすぐに戻ってきてタスッタさんの前にそれらの料理を置いた。
鍋が煮えるまでの間、タスッタさんはお刺身の方に箸をつける。
これは、アジかな、と、タスッタさんは思う。
決して高級魚というわけではないのだが、特にこの時期は脂が乗っていておいしい。
フライとか別の料理として食べたことはあるのだが、アジを刺身で食べるのは、タスッタさんにしてもこれがはじめてのことだった。
新鮮なものでなければ、出来ないお料理なんでしょうね、きっと。
と、タスッタさんは思う。
普通に、しみじみとした美味しさが口の中に広がっていた。
お鍋が小さいだけあって、タスッタさんが見る前で鍋の中身はすぐに沸騰していい匂いを漂わせた。
その香りを感じるだけで、
「あ。
これ、絶対美味しい」
と、タスッタさんは確信をしてしまう。
ぐつぐつと煮えていくにつれて漂ってくる、魚介類特有の、あの香り。
お鍋の中ではきっと、いい出汁が出ているのに違いがないのだ。
刺身といい、お鍋といい、ここまで来るとお酒が欲しくなりますね。
などと、タスッタさんは思いはじめる。
まだ日も高い時刻であったので、実際に頼むことは自制したが。
小鉢の香の物をぽりぽりと齧りながら、タスッタさんはお鍋が沸あがるのを待った。
「はーい。
もう煮えてます。
お食べになっても大丈夫ですよう」
通りすがりに、店員さんがそんなことをいいながら、ひょいと無造作にタスッタさんの目前にあるお鍋の蓋を手に取って、去っていった。
「あんまり煮込みすぎても、具が硬くなりすぎますからねー」
その唐突さに、タスッタさんはしばらく呆然としてしまう。
今の店員さんは時計などをチェックしていたように見えなかったが、他の仕事もやりながら、このお鍋の煮え頃などもしっかりと把握しているんでしょうか。
疑問はあったが、長年同じ仕事をしていれば、そういう勘も自然に備わってくるのだろうと無理にでも自分を納得させて、タスッタさんはお箸を手にする。
アンコウ、鮟鱇。
ぶよぶよっとして、大きくて、グロテスクな外見をしている深海魚、だったかな。
タスッタさんがアンコウについて把握している知識は、せいぜいその程度であった。
元の外見がどうであろうとも、今、お鍋のなかで煮えているのは切り身に加工されたものであり、タスッタさんにしてみても、口にするのには抵抗がない。
まずはお鍋の中のスープを取り皿に取り、口にしてみる。
あ。
濃い。
と、タスッタさんは思った。
濃厚な、魚介系のスープであることは確かなのだが、同時にタスッタさんがこれまでに体験したことがない味覚でもあった。
これは。
と、タスッタさんは思う。
身の方も、期待できるかもしれない。
タスッタさんは切り身をお箸で摘まんで一度取り皿の上に乗せ、少し息で吹いて冷ましてから、口の中に入れてみる。
舌の上に乗せた途端にそうとわかるような、明瞭な旨味ではなく。
しかし、噛むほどにじんわりと口の中に広がっていく、淡白な旨味。
滋味、というのは、こういう味のことをいうのでしょうか。
タスッタさんは、そんなことを考えた。
じんわりと、熱と旨さが体の中に染み込んでいくような、そんな感覚があった。
想定外に、繊細な味なのかも知れない。
タスッタさんははふはふ息を弾ませながら、アンコウの切り身と白菜や葱など、出汁をたっぷりと含んだ野菜を食べていく。
熱いし、美味しい。
一口ごとに、お鍋の熱量を体内に取り入れている実感がある。
ああ、これは。
と、タスッタさんは思う。
体が、温まるなあ、と。
ここ数日、特に朝晩が急激に冷え込むようになってきたから、こういうお料理は、タスッタさんにしても歓迎するところであった。
しばらく箸を進めるうちに、タスッタさんはお鍋の中にあった、薄い橙色の具材を箸で摘まんで、小さく首を傾げる。
おそらくは、アンコウの内臓のどこかなのだろうけど。
外見を目にしただけでは、具体的にどこの部位なのか、タスッタさんには判断がつかなかった。
「それはキモですよう。
アンコウの肝、アンキモ」
さっきお鍋の蓋をさっと取って去っていった店員さんが、そのときと同じ唐突さでタスッタさんに小声で教えて去っていく。
忙しそうに去っていく働く店員さんの背中を見送りながら、タスッタさんは箸で摘まんでいたアンキモを口の中に入れた。
あ。
濃い。
と、タスッタさんは思う。
図らずも、出汁が取れたスープを口にしたときと同じような印象を受けてしまった。
アンコウの切り身が淡白で繊細な印象であったのとは対照的に、こちらのアンキモは実に濃厚な味わいであり。
このアンキモだけでお酒を呑むと、ちょうどいいかも。
などと、タスッタさんは思ってしまう。
新たに冷酒なり熱燗なりを注文することはしなかったが。
タスッタさんが一人前のお鍋を平らげるのに、いくらも時間を必要としなかった。
「はーい。
今度はこれで、玉子雑炊を作ってきますねー」
あらかたの具材がお鍋の中から消えたのを見計らって、またあの店員さんがタスッタさんにそう声をかけて、お鍋をさっと手に取って厨房の方に去っていく。
あの店員さんは、お客さん一人一人の動向や食事の進行状況を、逐一把握しているんでしょうか。
とか、タスッタさんは疑問に思った。
だとすれば、プロだ。
接客の、プロだ。
そして、どうやら雑炊はこの場で作るのではなく、厨房の中で作るらしかった。
その方が、なにかとやりやすいのでしょうね、と、これについてはタスッタさんも納得するところではあるのだが。
タスッタさんはしめの玉子雑炊が来るまで、しばらく待たされることになる。




