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千葉県船橋市。予定がない日。

 その日、タスッタさんはこの春から借りはじめた賃貸のワンルームマンションで午前七時過ぎに起床した。

 このマンションに寝泊まりをする日は週に半分もあればいい方であり、タスッタさんにしてみればあまり自宅という意識は強くはない。

 ただ、毎晩宿泊施設を頼るよりはよほど安上がりについたので、首都圏内に仮の宿として借りてあった。

 目がさめたタスッタさんは顔を洗ってから洗濯機を回し、まずベランダに出る。

 まだ朝も早いというのに、ベランダに出るとむっとするような熱気を感じた。

 日差しがきつい割には、少し前まであった肌にまとわりついてくるような湿度は和らいでいる気がする。

 ベランダには近くのホームセンターで調達した鉢植えがふたつとプランターがひとつあり、在宅時には毎朝それらに水をやるのがタスッタさんの日課であった。

 ふたつの鉢植えはそれぞれミニトマトと大葉が、プランターにはゴーヤが何株か植えられている。

 留守がちで水やりさえまばらになりがちであり、あまり手入れらしい手入れもしていなかったが、その割には収獲が多かった。

 そうした植物に水をやったあと、ゴーヤはいくつか摘花し、ミニトマトは熟していた実を片っ端から取って用意していた小鉢の中に入れる。

 そのまま放置しておいてもカラスが啄みに来るだけであるし、このミニトマトは何度でも実らせるので成った実から取っていく方が正解なのであった。

 収穫したミニトマトを持ってキッチンに移動する。

 キッチンといっても、あくまで単身者用ワンルームに備えつけてあるものだから小さなシンクとIH コンロが一基あるだけの簡易な代物であった。

 ミニトマトの小鉢を冷蔵庫に入れ、かわりに冷蔵庫の中から昨晩仕込んでおいたタッパーを取り出す。

 この冷蔵庫だけは、タスッタさんはそれなりの大きさのものを購入していた。

 IHコンロの上にフライパンを置き、それが加熱するまでの時間を利用して電気ケトルの中に水を入れておく。

 電気ケトルをテーブルの上に安置してからキッチンに戻り、いい感じに暖まっていたフライパンの上にバターを落として溶かす。

 菜箸でフライパンの上のバターを適当に動かしてなじませてから、タッパーを開けてその中身をフライパンの上に置いた。

 タッパーの中身は、溶いた玉子と牛乳、砂糖などを混ぜあわせた玉子液の中に適切な大きさに切った食パンを浸しておいたものだった。

 その玉子液をたっぷりと吸い込ませておいた食パンを弱火でじっくりと焼き、表面に焦げ目がつくのを確認してからフライ返しでひっくり返して、フライパンに蓋をする。

 それからタスッタさんはテーブルの上にあった急須に茶葉を入れ、電気ケトルで沸かしたお湯を入れて蓋をして、しばらく蒸らした。

 それからコンロの方に戻り、作りかけのフレンチトーストが焼き上がっているのか確認してから皿に移して、冷蔵庫の中からもぎたてのミニトマトの小鉢を持ってテーブルに戻る。

 マグカップに急須の中のお茶を移し、いよいよ朝食に入った。


 タスッタさんはこの自宅に居るときはよく緑茶を飲む。

 外ではあまり飲む機会に恵まれないのと、それに急須と茶葉さえあれば誰にでもそれなりの味のものをいれることができる手軽さが気に入っていた。

 紅茶もコーヒーも十分においしいとは思うのだが、この日本ではやはり緑茶が一番手軽で失敗がない、そして癖が少なくまず大抵の料理の邪魔をしない飲料だと思う。

 蒸らし時間を少し長めに取り、若干渋みが強く出たお茶をまずは一口啜ったあと、タスッタさんはフレンチトーストにフォークで一口大に切り分けて、口の中に入れる。

 ふわふわで、熱々。

 玉子液をたっぷりと吸い込んだ上で焼きあがったそれは、パンというよりプリンかなにかに近い触感と味をしていた。

 うん、おいしい。

 と、タスッタさんはひとりで頷く。

 それからまた一口お茶を啜り、今度は摘みたてのミニトマトをいただく。

 プチッと噛み潰した途端に口の中に広がる、少し酸味が強い果汁。

 少し青臭くて、でも決して食べにくいというほどでもなくて。

 このミニトマトも、新鮮だからか、いつも食べるものよりも味がしゃっきりしているように感じる。

 ああ。

 いい朝ごはんですねえ。

 とか、タスッタさんは思った。


 溜まっていた洗濯物を乾燥室も兼ねているバスルームの中に干したあとに室内をざっと掃除し、そのあと、タスッタさんは手早く外出するための支度をした。

 暑さが本格的になる前に、幾つかの用事を済ませておこうと思ったのだ、

 マンションを出たタスッタさんは、まず近所にある図書館へとむかう。

 近所といっても徒歩で二十分以上はかかる距離だったが、もともと歩くが気にならない性質のタスッタさんはその程度の距離は気にかけなかった。

 まだ午前中の早い時間だというのに、日差しがかなり強い。

 今の時間でこれなら、午後はもっと暑くなりそうですね、とか思いながらタスッタさんは歩き続ける。 始業とほぼ同時に図書館に入ったタスッタさんは、かなり長い時間をかけて吟味した結果、もう何年も誰も借りていないような古くて長大なロシア文学の一巻目と二巻目を借りることにした。

 この手の翻訳文学というのも、訳された時代によって文体が微妙に異なっていたりして、タスッタさんとしては大いに興味が惹かれるところがある。

 分厚いハードカバー二冊の貸出手続きを終えて、タスッタさんは再び炎天下の街中の人となった。


 ポケットからスマホを取り出して時刻を確認し、もう開店をしているはずだからと近所のスーパーを目指す。

 目当てのスーパーは図書館よりも自宅のマンションから近く、帰途に寄るには都合がいい位置にあった。

 そのスーパーで食品とお酒、雑貨などを購入してからマンションに帰ると、すでに十一時を過ぎている。

 意外にかいていたので自宅に帰るなり冷蔵庫に直行して中にあるポットを取り出し、シンクに出しっぱなしにしていたグラスの中に中身の麦茶を注ぎ、一挙に煽る。

 冷えきっていた麦茶を予想外においしく感じてしまい、そのまま手酌でおかわりして二杯目も一気飲みしてしまう。

 鍋にたっぷりと水を入れて蓋をしてコンロにかけ、それからスーパーで購入してきたばかりの食品を手早く仕分けして冷蔵庫の中に収納し、他の雑貨類も適切な場所に配置する。 

 ベランダに出て成っていた物の中から一番大きなゴーヤの実を剪定バサミで切り取り、同時に大葉の鉢からも何枚も葉をもぐ。

 すぐに室内に入ってキッチンの前まで移動した。

 まずはゴーヤを縦に切って中にあった種を取り出して適当な大きさに切り分け、大葉もざくざくと包丁で短冊切りにした。

 鍋の中の水が沸騰していたので乾麺を取り出して中に投入し、菜箸でかき混ぜて素麺のすべてをお湯の中に入る。

 素麺がぐだっとなってすべてお湯の中に入ったところで鍋をコンロの上からどけて、シンクの中に移動させ、今度はフライパンを取り出してコンロの上に置く。

 フライパンを温めてからごま油を、冷蔵庫から玉子を取り出し、スーパーから買ってきたばかりの豚こま肉を炒め、適度に焼色がついてきてきたところで切っていたゴーヤと大葉を中に入れてさらに炒める。

 それらに火が通ったところで火を止め、一度シンクの方に避けておいた鍋の中に菜箸を入れて、素麺の具合を確認する。

 この手の乾麺はお湯や水に浸けてからの時間によって柔らかさが変わってくるのだ。

 少し硬めだけど、まあいいかと判断したタスッタさんは、鍋の中にあった素麺を一度笊に開けてから再び鍋の中に戻し、冷水にさらす。

 素麺が締まり、温度が下がったのを確認してから再び笊の上にあけ、よく水を切った上で、フライパンの上に乗せた。

 再びコンロに火を入れ、もう一回りごま油を投入してから先に炒めていた具材と混ぜあわせ、さらに玉子も割って入れて、少量の麺つゆも入れてから、ひたすらかき混ぜる。

 適度に火が通ったところでフライパンの中身をさらに移して、麦茶のポットといっしょに手に持ってテーブルへと移動する。

 ゴーヤと素麺のチャンプルーと、麦茶。

 そんなに凝ったことをやっているわけでもないのだが、手軽な割にはボリュームを感じられる昼食だった。

 実際に食べてみると、ごま油の風味とゴーヤの苦味、それに大葉がいいアクセントになって、意外に食欲をそそられる味に仕上がっている。

 今日みたいな暑い一日はぴったりの料理ではあった。


 食事を終え、後かたづけも終えたあと、タスッタさんはお茶をいれ、冷房がよく効いた室内で読書をはじめた。

 余計な物はできるだけ買わない、自宅に置かないという方針を堅持しているタスッタさんは、テレビさえ持っていない。

 今日のような予定がない日は、本を読むくらいしか時間の潰しようがないのだ。

 とはいえ、タスッタさんはその読書でさえ退屈に思っている様子もなく、すっかり没頭して活字を目で追っていた。

 もともと、なにかに集中しはじめるとまわりが見えなくなる人でもある。

 ときおりお茶をすすったり、トイレに立つとき意外は微動だにせず、タスッタさんはそのままその日の午後を長大なロシア文学に浸った状態で過ごした。


 タスッタさんが気づくと、すでに日が暮れはじめていた。

 最近の日はかなり長いから、時刻にすれば午後六時を過ぎた頃だろうか。

 読みかけの本はまだ一巻目の途中で、これはその本に使用されている活字が小さめで二段組であり、その分、情報量が多かったからであり、決してタスッタさんの読む速度が遅いわけではなかった。

 スマホの画面を確認したあと、タスッタさんは誰にともなく、

「もうこんな時間か」

 と呟き、それから立ちあがってキッチンの前に移動する。

 炊飯専門の土鍋という代物を取り出してコンロの上に置き、冷蔵庫の中に入れていたお米の袋を取り出してその中から一合分だけ笊の上にあけ、丁寧な手つきで研いでから土鍋の中に入れて水も入れて、水を吸わせるためにしばらく放置する。

 バスルームに干しておいた洗濯物を取り込み、畳んでしかるべき場所に収納する。

 ざっとシャワーを浴びてから土鍋を火にかけ、それが炊きあがったところでコンロから降ろしてテーブルの上まで移動し、鍋敷きの上でしばらく蒸らす。

 ご飯を蒸らしている間に、フライパンの中にたっぷりと油を注いで加熱する。

 昼と同じように、ベランダから大葉とゴーヤを取って来る。

 そのうちゴーヤは、今日スーパーで買ってきた茄子とともに、適当な大きさに切った。

 輪切りにした茄子とゴーヤ、丸のままの大葉を、小麦粉を入れて水に溶いたものに潜らせてから、油の中に入れる。

 目分量でからりと揚がってから取り出して、キッチンペーパーを敷いた皿の上に盛った。

「ふう、暑い」

 そのお皿をテーブルに置いてから、タスッタさんは誰にともなくそう呟き、冷蔵庫の中から缶ビールを取り出し、プルトップを開ける。

 冷蔵庫の中で冷やしていたグラスも取り出して、缶ビールの中身をグラスの中に移してから、一気に煽った。

 うん。

 おいしい。

 タスッタさんの夕餉がはじまる。




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