東京都目黒区。蕎麦屋の昼酒とせいろ蕎麦。
ことの発端は、旅先で通りかかった新古書店で百円均一の中から選び出した時代小説家のエッセイをたまたまタスッタさんが読んだことに起因する。
つまりはそれが食通としても知られ、その人の文章を読むと和食が食べたくなることでしられた作家の文章であったわけだが、タスッタさんもその例に漏れず、見事に感化されてしまった。
「ええと、食事時の忙しい時間を避けて、でしたっけ」
そんなことを思いつつ、タスッタさんは通りかかった蕎麦屋の扉を潜った。
威勢のいい声に迎えられて、タスッタさんは適当なテーブルへ腰掛ける。
昼と夕方の間という半端な時間であり、予想通り客は少なかった。
数卓あるテーブル席のうち、客が座っているのは奥の一卓座っている初老の男性だけ。
奥の方に座席席もあるようだが、タスッタさんが座っている場所からは様子が確認できない。
タスッタさんはメニューを手にとって中身を確認する。
「なんにしましょうか?」
「板わさと卵焼き、それにお酒をください」
タスッタさんは滑らかな口調でいった。
「それと、生湯葉も」
店員は注文を復唱してからすぐに奥に引っ込んでいき、いくらもしないうちにお盆を持って帰ってきた。
「板わさと卵焼き、それに生湯葉とお酒ですね」
にこやかにそういって、料理とコップをタスッタさんの前に置いていく。
まずは、コップになみなみと注がれた冷酒を一口。
ふ、と、吐息が漏れた。
お酒がメインのお店ではないし、その証拠に日本酒は大手メーカーのこの銘柄しか置いていないようなのだが、それでもおいしく感じる。
場所の効果か、それとも平日の、まだ日が高いうちに飲んでいるからか。
次にタスッタさんが、板わさ、つまり蒲鉾の薄切りを箸で摘んで山葵醤油につけて、口に運んだ。
この山葵はよくあるチューブ入りのものではなく、本物の山葵をすりおろしたものだった。
まず甘味が来て、次に鼻につんと抜ける例の感覚が来る。
それと、蒲鉾の歯ごたえ。
ああ。
と、タスッタさんは思う。
これは、お酒が進むなあ、と。
玉子焼きも、いかにもお蕎麦屋さんらしく、だしが効いたものだった。
十分に、お酒のあてになる。
生湯葉のあの独特の食感も、いい。
チマチマとお酒を舐めながら、タスッタさんは静かに飲み食いを続ける。
本当は焼き味噌というのも試してみたかったところだが、この店のメニューには載っていなかった。
焼き味噌と、それに焼き海苔についてはもう少しお酒が進んでから店員さんに直接訊いてみようと、タスッタさんが思う。
板わさ、おいしい。
玉子焼き、おいしい。
生湯葉、おいしい。
お酒、もっとおいしい。
意外に、この時間のお蕎麦屋さんというのは静かに飲むのには最適なのではないか、とか、タスッタさんは思う。
なにより、居酒屋とは違って静かだし、それ以前にお客さんはほとんどいないし。
タスッタさんがお店に入ってきたときにいた初老の男性客は、気づくと姿を消していた。
静かに、ひとりで、お酒とさりげない料理に浸る。
至福至福。
などと考えていると、コップの中身が空になった。
タスッタさんは店員さんに声をかけてお酒のおかわりを所望し、ついでに、
「メニューには載っていないけど、焼き味噌と焼き海苔はできますか?」
と訊ねてみる。
焼き味噌はできないが焼き海苔はできますということだったので、それを注文してみた。
先に注文したあての三品は、まだ半分以上残っている。
すぐに来たおかわりのコップ酒を啜り、タスッタさんはしみじみと思う。
いいなあ、こういう時間。
静かで、そして深い。
ような、気がする。
錯覚かもしれないけど。
すぐに来た焼き海苔を箸で摘んで、口に運ぶ。
パリッっと焼きあがって、いい匂いがした。
味は、まあ海苔なわけだが。
焼き海苔でしかないのだが。
しかし、その焼き海苔が飲みの合間の口直しにはちょうどいい。
ああ。
いい気分になってきた。
とか、タスッタさんは思う。
基本的にタスッタさんは、お酒に関してはうわばみでありザルであったが、それでもまるで酔わないということはない。
酒精よりも、雰囲気に酔っていることがある。
その点、昼さがりの蕎麦屋というのはタスッタさんをほろ酔いにさせるのに持って来いの場所だった。
騒がしい居酒屋などよりも、ずっと静かに雰囲気に浸ることができる。
注文したあてを食べ尽くしたところで、ちょうど二杯目のコップ酒を飲み干した。
ちょうどいいかな、と、タスッタさんは思う。
蕎麦屋で長っ尻は野暮だと、あの本にも書かれていたような気がするし。
そこでタスッタさんは再度店員さんを手招きして、せいろ蕎麦を注文した。
本当はだい抜きというものを注文するつもりだったのだが、タスッタさんはまだそこまで蕎麦屋に慣れてはいない。
いや、それ以前に、このお店が手打ち蕎麦をやっているので、この店に入った瞬間に、だい抜きというのは考えられなくなっていた。
「これからお蕎麦は少しお時間をいただく形になりますが、それでもよろしいでしょうか?」
店員さんからそういわれ、タスッタさんはそれならばとまたお酒を注文してから承諾した。
今度はあてなしの三杯目である。
そのお酒を、タスッタさんは大事そうに抱え、ちびちちびと舐めるように飲んだ。
やがて出てきたせいろ蕎麦を見て、タスッタさんは歓声をあげそうになった。
なんというか、見た目からしてタスッタさんが知っているお蕎麦とは違っていたのだ。
麺の色艶からして違う。
タスッタさんがよく知るお蕎麦は光沢のない灰色をしていたが、このせいろ蕎麦は緑がかった色合いで光沢があるような気がする。
これは。
と、タスッタさんは思う。
期待、できますねえ。
早速、タスッタさんは蕎麦を箸で摘んで持ちあげ、麺つゆに浸したあとに吸い込んだ。
ふわっと、口内から鼻腔にかけて蕎麦の香りが抜けていく。
そして、この喉ごし。
ああ、これが本当のお蕎麦か、と、タスッタさんは思った。
本当の、手打ちのお蕎麦。
麺つゆは心持ち辛めであり、これならばもう少し麺につけない方がよかったかな、とそうも思う。
普段、タスッタさんが食べ慣れているのは駅などにある立ち食いのお店のものがほとんどであった。
ああいう店はああいう店で、価格とか立地的にあれでもいいのだろうが、同時に、こうした本格的なお蕎麦の店があってもいい。
同じお蕎麦という料理の店であっても、価格帯などできちんとすみ分けができているところは、この国の奥深いところだな、と、タスッタさんは思う。
ともあれ、打ちたてのお蕎麦というのはこんなにおしいものなのか、と、タスッタさんは半ば感動さえしている。
これまでに食べたことがない味であり、感触だった。
おいしい。
本当に、おいしい。
そう思いながら、タスッタさんはせいろ蕎麦を次々と手繰り、あっという間にたいらげてしまう。
最後に店員さんが持ってきた蕎麦湯で麺つゆを薄めて啜り、ほっと息をつく。
そうして蕎麦湯を啜っていると、体内に入ったお酒が急速に薄れていくような気分になった。
この蕎麦湯というものも、けっしておいしいとは思えないけど、落ち着く習慣ではある。
タスッタさんはしばらく、そうして蕎麦湯を啜っていた。