東京都千代田区。中華料理店の海鮮粥と野菜そばのハーフアンドハーフセット。
「あちらにあるカレー屋さんには、以前入ったことがありましたね」
神保町駅を出てから少し歩いた場所で足を止め、通りの向こう側を見てタスッタさんは誰にともなく呟いた。
確かあの古書店の二階にあるカレー屋さんに入ったのは、この町に初めて来たときのことだった。
と、そう記憶している。
あれ以来、タスッタさんは何度かこの町を訪れている。
この神保町は複数の地下鉄路線が交差していて乗り継ぎの際に通過することが多く、さらにいえばこの近辺には飲食店が多いので時間が空いたときなどに降りて、なんらかの飲食をしているのだった。
基本的にビルが建ち並ぶばかりで書店と飲食店が多いこと以外にはあまり特徴がない場所なのだが、このうち後者の特徴だけでもタスッタさんが立ち寄るのには十分な理由となる。
この日も実は移動の途中に思い立って、駅を降りた形であった。
時刻は午前十一時半過ぎ。
どこへ入るにしても、早く決めないと昼休みでどこのお店もすぐに満席になってしまうはずである。
「しかし、どうしましょうか」
タスッタさんは、周囲を見渡してそう呟く。
前述のしたように、ここには飲食店が多い。
これまで、実際にタスッタさんが足を運んだお店で、気に入った場所も複数存在する。
しかし、せっかく途中下車までして来たのだから、ここはやはり新しいお店を開拓したいところであった。
そんなことを考えつつふと視線を逸らしたところで、タスッタさんは動きを止めた。
「……そういえば、ここにはまだ、入ったことがありませんでしたね」
タスッタさんの立っている位置からすぐそこに、中華料理店があった。
建物としてはまだ新しいが、上品な、風格のある店構えであり、「街場の中華屋」というよりはもう少し専門性が高い料理店であるように思える。
入り口の脇に立て看板があり、何種類かのランチセットが紹介されている。
「ハーフアンドハーフセット、ですか?」
タスッタさんは、その看板の文字を目で追った。
二種類の料理を半人前ずつ提供するという、ランチタイムのみやっている、サービスメニューだそうだ。
中華は、何人かで何種類かの料理を頼んで、シェアしながら食べるのが普通ですからね。
と、タスッタさんはそう思う。
いずれにせよ、一食で二種類の料理を楽しめるのであれば、タスッタさんとしても都合がよかった。
「今日は、このお店にしましょう」
タスッタさんはそう決意をして、そのお店に入る。
お店に入ると、すぐに男性の店員さんがカウンター席に案内してくれる。
まだ開店したばかりのようで、お客さんはまだほとんど入っていなかった。
タスッタさんはカウンター席に腰掛けて、早速メニューを開く。
「どれにしましょうか?」
メニューに載っている写真のうち、黄色い丸型のシールが貼ってある料理が、ハーフセットとして注文できる物のようだった。
特製辛子麺と牛肉かけご飯もおいしそうですが。
「ここは、お粥にしましょうかね」
と、タスッタさんは思う。
本格的な中華粥を食べられる機会は、そんなに頻繁には来ない。
店内の雰囲気からして、このお店はかなり本格的な料理を提供しそうだな、と、タスッタさんは予想をしていた。
「一品目は、海鮮粥」
まず、タスッタさんはそう決めた。
乾物のエキスがたっぷりと吸い上げたお粥が、うまくないわけがない。
それからもう一品は。
「ご飯物以外となると、麺類になりますか」
この日、あいにくなことに天気の方ははっきりとしなかった。
この時期にしては肌寒かったし、なにより、空気に湿気が多い。
こういう日には、やはり暖かい物を。
消去法で候補を絞っていき、最後に残った何品かの中から、タスッタさんは「野菜そば」を選んで、店員さんを呼ぶ。
しばらくして、トレーに乗ったお粥のどんぶりが先に出てきた。
お粥のどんぶり以外にも、小皿の乗った香の物と、それになにやら白い固まりがやはり小皿の上に乗った状態で、トレーの上に乗っていた。
この白い物体は、なんでしょうか。
と、タスッタさんは内心で首を捻る。
なにやら柔らかそうな、寒天状の物体。
少し考えて、
「もしかしたら」
と、タスッタさんはあることを思いつく。
そして、その小皿に添えられていたスプーンを取り上げて、その白い物体を一口だけ食べてみた。
ああ、やはり。
と、タスッタさんは、そう思う。
その白い物体は、杏仁豆腐だった。
中華の定食にはこの杏仁豆腐がデザートとして添えられているのが定番ではあったが、このお店のこれは、同じ杏仁豆腐でもサイズがかなり大きい。
そのため、すぐに添え物のデザートであるとは分からなかったのだ。
随分と、気前のいい。
と、タスッタさんは思う。
そして、海鮮粥のどんぶりを見下ろした。
気前がいいといえば、これがハーフサイズ相当なんですか。
その中華粥のどんぶりは、タスッタさんの感覚ではこれだけで一食分でも十分通用する大きさだった。
ハーフアンドハーフ、という言葉にだまされましたかね。
と、そんなことを思いつつ、タスッタさんはレンゲを持ってその中華粥のどんぶりの中に突っ込んだ。
一口掬って、口の中に入れると。
あ。
と、タスッタさんは、思う。
滋味、とは、まさしくこういう味のことをいうのだろう。
極端な美味でこそないものの、じんわりとお粥に染みこんでいた海鮮のエキスが、体の中に取り込まれていく感覚。
味付け自体はひどく淡泊な物の、それだけに一層、素材のよさがそのままお粥に染みこんでいる気がした。
いい。
と、タスッタさんは思う。
この海鮮粥は、正解でしたね。
なんか、これだけ食べても十分に満足が出来るような。
などと思っているうちに、もう一品の料理、野菜そばが出てきた。
こちらのどんぶりのサイズも。
「なんか、これだけでも十分、一食分で通用するような」
そう、思わないでもない。
これは、お腹がいっぱいになりそうだ。
そう思いつつ、その野菜そばのどんぶりにまずはレンゲを入れて、そのスープを味わってみる。
あ。
と、タスッタさんは、思う。
こちらはこちらで、野菜の旨味がぎゅっとスープに凝縮されているような。
緩くとろみがついたこのスープだけで、もう十分においしい。
これは、日本風にいえばうま煮そば、ですね。
と、タスッタさんは、そう思う。
なにやらラーメンっぽい代物に野菜炒めをのっけだけの、安っぽい料理とは別物だった。
これはこれで、きっちりと完成した一品なのだ。
スープを呑み込んだあとに、じんわりと利いて来るかすかな辛み。
これは、胡椒なのか山椒なのか。
その手の香辛料が使われているとは思うのだが、いずれにせよ、それも主張し過ぎていないところがいい。
この料理の主役は、あくまでスープであり野菜の味なのである。
タスッタさんは初めて箸を取って麺を啜ってみた。
上質なスープがよく絡んだ、細身の中華麺。
麺自体はよくある中華麺だったが、スープを含んだ状態で啜ると、これがまた別格の味わい。
これは。
と、タスッタさんは思う。
箸が、止まりませんね。
最近の、少し高級なラーメンのように、決して主張の強い味ではない。
どちらかといえば、地味で特徴の薄い日常食になるだろう。
でも、その地味な一品が、普通においしい。
青梗菜を箸で摘まみながら、タスッタさんはそう思った。
うん。
これは、このお店の料理は、いいですね。
本格的な内容の割には、値段の方はかなりリーズナブル。
このハーフアンドハーフのセットにしても、千円プラス消費税分でしかない。
内容を考えれば、かなり安いともいえる。
最初のうちこそ、全部食べられるのかと不安だったタスッタさんだったが、結局野菜そばのスープだけを除いてすべて、香の物から杏仁豆腐まで含めて完食した。
水気が多い料理を二つも頼んだのは、失敗だったかも知れませんね。
会計をしながら、タスッタさんはそんな風に考える。
なんだか胃の中のかなりの空間が、水分で占有されているような感覚があった。
もしも、またこのお店に来る機会があったら。
と、タスッタさんは、そう思う。
ハーフアンドハーフセットなどではなく、もっとちゃんとした一品料理か定食を頼むことにしましょう。
その方が、料理をしっかり、十全に味わえそうな気がした。




